2012年7月8日日曜日

「愚民」の在り方(3)――渡辺京二ノート

「異邦人たちが予感し、やがて全体的関連としての有機的生命、すなわち古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。…(略)…問題は個々の事象ではなく、それらの事象を関連させる意味の総体なのだ。そして文明とはそういう意味の総体的な枠組みを指す以上、たとえ超高層ビルの屋上に稲荷が続けられようとも、また茶の湯・生花の家元が不滅の生命を誇ろうとも、それらの事象はチェンバレンが「若き日本」と呼ぶ新たな文化複合、つまり新たな寄木細工の一部分として、現代文明的な意味関連のうちに存在せしめられているに過ぎない。文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧はいまも東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄木細工の表す図柄がまったく変化しているのだ。新たな図柄の一部分として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚だろう。…(略)…死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。」(『逝きし世の面影  日本近代素描Ⅰ』 葦書房)

「忠教がここで説いているのは「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という隷従的忠誠であるかに見えるし、彼自身、主人にそむけば七逆罪を負うて地獄に堕ちるとも言っている。しかしそれはそういう恐怖心に前近代人忠教がかられることもあったというだけのことで、彼の真意は、主人が主従間の相互敬愛という暗黙の合意を破り棄てていても、いや破り棄てているからこそ、従者たるわれらがその合意にあくまで忠実であることが、主人が不正、われらが正義という顕然たる事実を公示することになるのだというにあった。/ つまり、主人がいかに不当な仕打ちをしても、われら従者の義務を守るというのは、主人に対する強烈な面当てでありいや味であって、そういう主人であっても機嫌よく奉公するのが彼の誇りであり強情であった。主人が主人らしくしてくれないので、徳川家を去るというのでは話は帳消しである。主人の咎は従者の離反によって相殺されてしまう。…(略)…再び言う。にもかかわらず忠節を尽くせと言うのは、忠教の徳川家に対する奴隷的服従を示すのではなく、まさにその反対である主に対する自尊の気概のあらわれであった。この自尊の気概に屈折が秘められているのは否定できない。…(略)…しかし、そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」観念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。(『日本近世の起源  戦国乱世から徳川の平和へ』 洋泉社)

「北が土俗的な思想家であったか、それとも土俗的なものを否定する近代的な思想家であったかという、論者の見解が従来まったく対立して来た問題についても、いまやわれわれは正確な断案をくだすことができる。彼はその思考の論理性において、疑いもなく土俗的なものを拒否する思想家であった。彼が天皇制共同体主義的な思考に生理的な不快を感じないではいられなかったこと、村落共同体の低部にひそむ伝統的心性に一度も関心をそそられなかったことなどを見ても、彼と土俗との関係はあきらかである。彼の社会主義とは、すでに見たように一面においては、個人のあらゆる可能性の無限の羽ばたきを求める近代主義的志向の表現であった。/ ところがいっぽう、社会主義とは彼にとって、<共同社会>主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもない土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基礎民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。」(『北一輝』 ちくま学芸文庫)

「この個の意味を、当時の思想家や批評家はほとんど誤読した。彼らはそれを近代的な主体意識をもった人民(あるいは市民)とか、知識人的な個我とかいったふうに読み、見当ちがいな批判をなげつけたのである。だがその後の吉本氏の思想の展開に照らしてみれば、このような独占社会に実存する個とは、政治行動のレヴェルに登場するときかならずその時の政治的イデオローグの虜囚とならずにはおかない法則的必然から生活大衆をどこで断ち切るかという、要の一点をおさえたときに生まれたイメージであって、このとき想定されていた個とは、知識的に上昇する自然過程のなかにあるような近代的な個我ではなく、逆に独占状況のなかで自己の生活の根拠へのみ突きかえされざるをえないような、もっとも基底的な生活民の存在のしかたを表象していたのである。そしてそれが個としてイメージされるのは、国家権力に対して真に倒立するのは、労働者階級とか農村部落民とかいった「共同幻想」的なレヴェルの集団ではなく、生活者としての個だけであるという、氏の特異な、そして今日の思想にとって本質的な意味を持つ理解にもとづいていたのである。…(略)…これは古典的な階級闘争論を転倒するまったく異端的な見解であって、労働者の闘争だから価値があり、小市民の闘争だから劣っているといった先験的な常識はここではまったく排除されている。つまりこのような見かたからすれば、労働者であれ農民であれ小市民学生であれ、階層としては等価であり、それらの闘争の優劣はただそれぞれの生活の根拠に立って現実にどのように自力で闘ってみせるかということにおいてしか判定されないということになる。ブントは自分の小市民学生的根拠において倒れるまで闘っているからいいのであり、自分自身を労働者階級を指導する前衛などと錯覚しないところが相対的に評価できるのだ、と吉本氏は考えたのである。そして、ブントが闘って力尽き革共同の古典的な批判に屈して分解をとげたとき、氏はその共闘を解除して単独者の位相にもどった。」(「六〇年安保と吉本隆明・谷川雁」 『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

「チッソのいいぶんを成心なく検討してみれば、彼らは被害者に対して、「被害はお気の毒に思う。何とかしたいとも思う。しかし、被害者に対する企業の責任・補償ということになれば、資本制における利害観念と法体系によって処理しないわけにはいかない。したがって、補償は一種の商取引、交渉ごとである」といっているのであることがわかる。資本制社会において、当然の常識である。水俣漁民のこの世の人間的道理が対立している相手は、チッソ資本の悪逆ではなく、近代資本制社会を組織している論理そのものなのである。その論理からすれば、水俣漁民のこの世の人間的道理とは、近代市民社会の組織法則からとりのこされた封建的遺民の世迷い言にすぎない。/ 水俣漁民にとって、人間的道理は実在する。自分の息子がとなりの息子にけがを負わせれば、自分は何もかも打ち棄てて、とりあえず詫びと見舞いにかけつけねばならぬのである。日常の生活圏ではそうあるものが、話が経済とか社会とか政治とかいう上位構造に移れば、なぜそうでありえないのか。水俣病患者・家族は、その理由を絶対に理解することはできない。近代市民社会が、その制度のなかに生活民、ことに下層民を統合しえなかったという歴史的事実が、ここに横たわっている。その非力を補って生活民を統合したのは、天皇制である。そして、生活民が近代市民社会の論理によっては統合されず、天皇制によってはじめて国家に統合されたという事実は、これまで戦後民主主義のイデオローグたちの嘆きと軽蔑の的となってきた。水俣病患者・家族の人間的道理とは、彼らにとっては痛烈な皮肉でなければならないが、まさに近代市民社会の論理によって統合されない「前近代的」生活意識の表現であった。それは言葉をかえれば、村共同体の論理と心情といってよい。そこでは共同体の利益は相互扶助によって維持され、共同体に災いをもたらしたものは罰せられ、追放される。チッソは当然罰せられ、災いは償われるべきである。患者はこの村共同体権利の回復を、公権力たる裁判所に求めたともいえる。もちろん、裁判所がチッソをさばくのは、そういう論理によってではない。患者は裁判のそもそもの第一回から、自分たちの欲求がけっして裁判によっては表現されぬことを直観した。裁判は彼らの仮装形態にすぎない。真の欲望の表現形態を求めて、にじり寄る一歩にすぎない。…(略)…この世の常ならぬ苦しみをうけた彼らは、どこへ向って血路を開けばよいのか。「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。この有名な言葉は結局は言葉である。怨といい、呪殺といい、何かおどろおどろしい地獄絵的な様相で、患者の欲求を描きあげようというのは、その当人の好みではあっても、真実には遠い。前掲の言葉は、ひくにひけぬ断崖に追いつめられた下層民の腹のすわりを示したものである。孤立の中で放った「勝負!」のひと声である。そう読むべきである。良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることを言い切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。/ 村共同体は、患者を出した家をきびしく差別した。相互扶助の生活規範は、患者の家には適用されなかったのである。村共同体の本質は、このとき、患者には明らかになったといっていい。人間的道理といい、ふつうの人間のつきあいといい、きわめて容易に解体される性質のものであった。人間が人間に対して狼にならない世界は、単なる村共同体の倫理によって、保証することはできない。彼らが裁判において表現したかった欲求は、村共同体の倫理に基底をおきながらも、結局はそれらを止揚する方向に向わざるをえない。彼らの欲求は、ひとつの仮装からもうひとつの仮装へと試行を続けつつ、真の表現を求め続けているのだ。」(「現実と幻のはざまで」『民主という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

「西欧的理解における政治が、貴族の民主主義的伝統にもとづく、利害の調整の体系だとするならば、東洋的理解における政治は、郷村の共同体的伝統にもとづく、夢と欲望の体系と規定できる。それゆえに、東洋では、政治は徒党の非行という性格を帯びるのだともいえる。…(略)…郷村的日常において、人びとは義務と慣行に縛られ、家主となり子を生み、老いて死んで行く。徒党の情念的共同とか夢とかは、若衆組の時期に仮に許される道楽にすぎない。その道楽に固執するものは、政治あるいは宗教として、日常に縁のない上層へ疎外される。しかし、郷村的日常で生を終える人びとに、情念的共同の夢がないのではない。道楽としての夢想的共同への指向を生み落したのは、ほかならぬ郷村の生活原理としての日常的共同なのだから。彼らは日常を破壊する夢想を、政治として日常の圏内から逐いやる。だが、逐いやられたものは、彼の魂の亡霊である。専制政治の織りなす諸事件を、一遍の劇のごとくに娯しみ喝采するのは彼らである。だからこそ、郷村は専制権力の鏡なのだ。/ 西欧的近代は、郷村の共同を分断してマスとしての個の世界をつくりだした。情念的共同を求める衝迫の根拠をとりはらった。政治は徒党の非行ではなく、個別利害の集合を管理する技術となった。だが、その世界でも、人びとは日常の理法に縛られ、親となり、老いて死んで行く。そのなかで感情の飢えは、ことに人と人とをつなぐ感情の飢えは、声もあげずにどこへ消え去るのか。/ 在る生きかたの夢、人間の或るありかたの夢を全社会的に拡張しようとする集団は、いかなる思想や倫理を掲げようとも徒党である。私は彼らの行動を非行としての政治と要約した。ひとが言葉と感情の通じる相手を見いだしたとき、それが徒党の始まりであるのはかなしいことだ。徒党から非行としての政治への回路はどこで絶たるべきなのか。ピョートルの事績はそう、われわれに問うているように見える。」(「非行としての政治」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)

「学問には方法が必要だろう。だが私には、方法など何の必要もなかったのである。私にはただ解かねばならぬ課題があり、それに経験が強いた志向をもって立ち向っただけだった。私は昭和維新の雰囲気のうちに育った少年であり、中学三年のとき異郷大連で敗戦を迎え、引揚げ後昭和二十三年には共産党に入った。十七歳であった。昭和三十一年、党から離れたとき私は、昭和初期のユートピズムが戦後革命の衝迫に変形された「物語」の意味を、自分なりに読み解かねばならず、その読解の方向を見出す手がかりをはっきり自覚するには、なお十年の月日を要した。/ その方向とは要するに、従来蒙昧ないし狂乱の発作とみなされてきた大衆の右翼的情念を、究極的な共同性の夢ににじりよる革命的衝迫として読みとこうとするものだった。ただし、私はそれを単純に肯定したのではない。私の視線はアンビヴァレントですらあった。にもかかわらず、私は魅入られるようにその主題に関わらずにはおれなかった。前途の私の思想史的な仕事は、いささかも”研究”の意味を吹くむものではなく、自分が生きのびるための思想的根拠を、文章の形で探りかつ確かめようとしたものにほかならない。/ その種の私の文章はすべて二十年前の所産である。そしてこの二十年のうちに、私たちをとり巻く社会と思想の文脈は根本的に変質した。情念的な大衆など、どこへ行けばお目にかかれるというのか。共同性への夢がカラオケとオウムに化けたなどと言っても、しゃれにもならない。/ 私はそういう時代の崩壊のかたちを予感していた気がする。その予感にせかれて、ある種の共同性の幻を追わずにおれなかったこの国の民の悲しい衝迫を、書きとどめておきたかったのかもしれない。だが、この国の民は滅びた。民などもはやこの国にはいない。」(「日本近代思想史と私」『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)

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