2008年5月13日火曜日

造園家(職人)の戦争責任と夢


「近代日本の造園界にとって、大東亜戦争とは何だったのであろうか。それはつまり具体的に換言すれば、昭和初期・戦時下での日本造園界における具体的な活動や言説が、時代状況と如何に関わり、そしてどのような内容を含んでいたのか。あるいは戦時下の造園界が、その前後の歴史的展開(明治・大正と戦後)のなかで、どのように位置づけられるのであろうか。さらに現代から見て、如何なる評価や批判が可能だろうか。…(略)…さて、昭和初期・戦時下での造園界を取り上げた研究そのものが、管見のところ、これまで殆ど皆無であったとは言え、学術研究の対象として注目に値しないものでは決してない。いやむしろ既に国内外では、建築や絵画、音楽、映画、文学などの諸芸術分野において、戦争遂行に何らかの役割や歴史的意味の実態解明が進められている現在、冒頭で提示した問題視座から近代日本造園史へ本格的なアプローチを新たに挑むのも有効ではなかろうか。」(市川秀和著「戦時体制下の造園思潮と田村剛の「国民庭園」提唱――近代日本の造園界にとって大東亜戦争とは何だったのか――」・「日本庭園学会誌」2005.12月No.13)

造園家の戦争責任、とかいう話はきいたことがない。そこに積極的に関与し、いまなお『庭』などといった雑誌を刊行している者たちが、公の場でどう内省(自己批判)的に発言してきたのかしていないのかも、私にはわからない。上に引用したほんの数年前の研究誌上からは、他分野では問われてきたことが、造園界ではだんまりを決め込んできたのではないかと疑われる。おそらく、だからなお日本庭園なるイメージが真面目顔で作られてもいるのではないかと、ちょうどゴールデンウィークに帰省した県下で「全国都市緑化」フェアを開催していたので、そこに展示し並べられた造園会社作庭の庭々をみるにつけてもおもってしまうのだった。一度実家の庭を造ってもらおうと、母親が近所の造園屋さんに意見をきいてみたというので、その中央にマキだかマツを植えて云々の話を伝えきかされたただけでも、「ああやめたほうがいいよ。自分がそこらで採ってきた草や安い苗木を勝手に植えてたほうがいいよ。」と、辟易して即座に助言したものである。これが日本の庭だ! というような庭に、いまほんとに心が動かされるとは思われな。私が一目置き知的な興味を覚えるのは、日本の(和風)とされるそのイメージにではなく、それを分解していくような個々の技術であり、それを支えてきた職人階層的な生活世界である。よく庭師とされるような作庭家や研究者、あるいは趣味人は、職人をして「木を見て森を見ず」と、おそらく一緒に彼らと庭園めぐりなどをして細部にばかり目がいってしまうのに出くわしてそう評しもするようだが、その森とやらが相変わらずの日本イデオロギー(物語)だったとしたら、わざわざ見てもしょうがないのではないか? むしろ、そんなお偉い話などにはへいこらするしか知らないような、偏屈なまでにも技術を反復しようとする雇われ職人の愚直さのほうが、そんな森には収まりきれない<夢>を見ているような気がする。だから私には、みちびき手(教育者=媒介者)がうまければの話だが、商売を成立させてきた親方たち(庭師)よりも、言われてきたことをひたすらこなしてきた職人さんのほうに庭を作らしたほうが面白いものができるのではないかと想像するのだ。
ちなみに、私が想起するそんな類の職人さんは、仕事では道具の整理や洗い作業など厳しいが、いざ自分の家や部屋となると、とてつもなく汚い。1970年ぐらいまでの「われらが青春」のノリといおうか、終戦直後に坂口安吾が『白痴』などで描いた、人間と動物が平等に同居しているような裸の現実、といおうか。とにかく、まだ洗っていない食器の山や脱ぎっぱなしの衣類と家財道具の隙間をみつけて、猫と亀と娘と女房が棲息している、という感じだ。そういうところへ、まったく遠慮なく無造作に寄ってけと歓待されても、慣れてなければ足の踏み場をみつけるのにも時間がかかる。どこか、ある種のホームレスの人たちの家に似ている。整理することが精神的にできないゴミのため癖をもつ病気に近い人のような。しかしこの無秩序さの「残存」――というのは、私には、敗戦の隔世的な後遺症、と見えるからだが――には、父親世代が当事者ゆえに逃げてきた責任への無意識的な直面と、それを解決していこうとする息子世代の葛藤が、夢として、ユートピアとして形象されているような気もするのである。いわば、一種のユーフォリア(多幸症)。つまりこれこそが、庭(園)なのではないだろうか? 美しい日本の森(庭)を作ってきた木々の一本一本が見ている夢。酔っ払ってそよいでいる夢。夜半に帰った家の中でまどろむホームレスの心地よさ。この無意識の露呈、その形象化は、美しさとは対極にある異様なものにならないだろうか?
孫世代にあたる私には、なお貧しさの記憶が幼児体験として残っているとしても、すでにプチブル意識であり、前世代までに様式的に復興された家=庭のドアを開けただけで、その内側の荒廃した混沌に、臭いに、嘔吐感、拒絶反応を起こしてしまう。たとえ親の責任(たとえば借金)を子が背負うのは法的には根拠がないとしても、またそうは言い切れない内面的関係が連続性を引き受けているとしても、その引き受け方は違うだろう、異様だろう、と思いたくなる。そして知的な認識としてはその思いが正当であるとしても、それが排他性と結びついて展開されるかぎり、自己の合理化にしかならないだろう。身体的に受け付けなくなった非自己なる先行世代とが、不気味なもの=親密なもの、という精神分析が示唆するような内的現実であるかぎり。あの乱雑さ、人間と人間ならざるものとが家に居候する、その平等的なユートピア=庭園の露呈、その臭いにむせて気(記憶)を失うような幸福感は、つまり歴史を忘却へと誘う異臭でもあるだろう。おそらく、その呪縛から逃れることはできない。まだまだ何世代も。ただ少しずつ、私という一本一本の木々が、それに代りうる新しい夢=森を造っていこうとすることだけが、いつかの、あるいはいつの間にかの刷新を準備する、ということなのではなかろうか?

*庭における日本イデオロギーと呼びえるかもしれない言表についての考察に関連して、10年ほどまえに「東と西」というエッセーを書いているので参照させておきます。また、ダンス&パンセのテーマパークにも、「六本木ヒルズvs旧古河庭園」というのも関連するかもしれないので参照リンクしておきます。

2008年5月10日土曜日

韓日間とフリーターのニヒリズム


「韓日間の問題を解決する方式に疑問を感じはじめたのは、ニ○○一年の教科書問題のときからだった。日本の右翼的思考に反対する「良心的」知識人と市民の存在は、わたしにとって日本を信頼しうる根拠ともなってきた。「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書の採択率を最小限度にとどめることで、韓国のナショナリズムを慎めた人々もまた、彼らであったことは忘れられてはならない。しかし、彼らが韓国の市民団体と連帯するなかで、韓国のナショナリズムには目を塞いでいる構造に、わたしは疑問を抱きはじめていた。さらにその連帯の「運動」、すなわち日本の徹底した「謝罪」をうながす行動は、韓国のナショナリズムを拡大するばかりで、問題の解決へと向かうのではなく、いっそうの対立を招いているようにみえた。そうだとしたら、その問題の意味とはなんなのか?」(『和解のために』朴裕河著・佐藤久訳 平凡社)


私の身の回りで、在日朝鮮・韓国の人たちへ抱く日本人のイメージとは、声がでかい、喧嘩腰で話してくる、といった強そうな民族像である。が実際ソウルの街を歩いていると、出会う人々は優しそうというか、むしろ弱々しそうにみえる。「なんでこれで、日本のサッカーは韓国に勝てず、野球もおいあげられているのかな?」、職人のうちでも話題になった。私より年上の職人さんたちは、子供時代や青年時、すぐ近所にまだ朝鮮人の集落があったようだから、日常的に彼らと触れてきたことがあったようだ。確かにスポーツの世界でみられるような、屈強な精神の集団、といった感じはしない。むしろ、韓流の柔らかさわやかな俳優のイメージである。二十年近くまえに私がいったときも、そんな感想だった。が、釜山はちがった。同じ幼稚園に通った子供を通して知り合った麻浦区の焼き肉屋の若旦那とも、そういう違いの話もしたのだった。「釜山のサラリーマンは、日本でいう、なんかヤクザみたいでしたよ。」というと、げらげら笑いながら、私の言葉を韓国語に訳して母親に伝え、奥さんも「漁民だからかもね」と答えたのだった。「スポーツやる人は、南のほうの人なんじゃないですかね? 日本でも、野球が強いのは、関西以南ですよ。」私が風を切って歩くような二十年前の釜山の背広姿の男たちのことを思い出してそういうと、「かもな」と博徒系の職人さんは言う。私は韓国内にいまだ残っているだろう差別構造のことはまったく知らないが、両班とそうでない者、そして昔の高句麗・新羅・百済といった三国構造の名残なのか、いまでも大まかにその三つの地域にわけられるそこに、なお無意識構造的な原動力があるのではないだろうか、とおもう。北から降りてきた支配民族と、南に追いやられ押し込められてきた原住民的な人たちとの対立もあったときく。そしていまでも、南の人は嘘をついて裏切る、とかのイメージで、就職や結婚差別がある、といわれているようだけど。そしてスポーツ・芸能といえば、差別を受ける側でも実力で参入できる世界だろう。

私が、今はそんなものはない、とされているような旧習的な差別・階級的視点にこだわってしまうのは、やはり植木職人という、遅れているというのか、忘れられている、というか、はじめから覚えられていない、というか、そういう職業世界にいるからだろう。たとえ差別というものがなくなった、とされても、そこで生きられる行動様式は、そうはなくならないのではないかと思う、と同時に、そこにある時差(遅れ)は、むしろ世の中を変えていくエネルギーの溜め池のようなものなのではないかと思えるからだ。こんな感想は、むしろ東京というグローバル都市でこそ見える、あるいは残っているという特権からくるのかもしれない。地方の方がむしろ、慣例的な仕事もなくなり、より共同体的な基盤が過激に壊されてきているかもしれないからである。

今月から、雇用保険なるものに入るようになった。税務署から、会社に圧力がかかったのだろう。公共工事に参入するため株式会社の形式にしたのはもう何年も前になるが、いわば従業員(職人)は実質労働的には社員だが、法的実質としては、日雇い形式、しかし自分で青色申告にでもすれば一人親方(自営業)的、にもなりうるような曖昧な存在だった(源泉徴収もされてないということ)。しかし「曖昧」とは、外側にそんな法的整備がなされてきたためにそう「なった」ということで、内側の論理=現実からは、明確な在り方=立場だったのだろうと思う。その名残が、その保険料を全額会社で負担する、という会社(親方)の行動様態に現れている。法的には、何割かは個人負担で給料から天引きされることになる。奥さんは、「経営がやばくなったら負担してもらうかもしれないけどね。」という。厚生年金も、職人側から申し込めばその手続きをとってやるといわれたが、手取りが減るので誰も申し込んでいない。とにかくも、法など無視している。がそれは、派遣会社の経営陣がとるような資本主義行動なのではなく、労働者との人格的関係からくる。その関係を阻害してくるような外的な規制がわずらわしいのだ。だから、人格(関係)を引き裂く(区別する)ような手続き(手間)を、ばっとさばく(はぶく)という身体的な合理性のほうを選択するのである。それが、区別なく全部払ってやる、という内側には一体感的な、外側には喧嘩腰ともいえる対応になるのだ。これは人を雇い入れるときのことでも覗える。もちろん、広告をだしたりといったことはせず、知り合い、地域づて、あるいは私のような飛び込みで人が時折くるのだが、入るときの条件などないのではなかろうか? 私などからすれば、この人じゃ無理だろう、というような人までが仕事をしにやってくる。が、仕事に入るのはいいが、その労働(当初はさばいた枝の束の運びになるわけだが―)がきつい、とかいうよりも、その人間関係に入るのが難しい、のではないかとおもう。バイト派遣ではいる現場仕事なら孤立していても時間はすぎるが、人格関係のあるところでは、それはきつくなるだろう。たとえば私は、一日に百回くらい「おまえはバカだ」と言われていたのではないかとおもう。ならいったいなんで人を雇ったんだ、という思いが強くなる。しかしそこに法的形式ではなく、人格関係が前提されている、ということは、なにかあるたびごとに、その人間関係が更新されていく、ということなのである。要は、自分が悪いとわかると、反省的な関係が再構築されようとするのである。それは時間のかかること、やめないで持続していくことだけで在りうるような関係である。

しかし私がこんなことを思うのは、私がよそ者としてそこに入り、長らく居続けているという特殊性からくる個人的見解なのかもしれない。私の我慢強さ――それは野球部という軍人的体系を体験してきたこと――や、優しさとみえてくるかもしれない、微動だにしないニヒリズムは、情動の激しい人たちを慎める試金石というか、心のバランスをとる羅針盤のような役割を果たしてきたようにもみえるからである。要は、やりすぎてしまった、とおもわせる……。しかしそのニヒリズムは、たとえば大学を卒業しても就職せず週に3日ほどのアルイバイトで凌ぐことで歳を過ごしていた行動様式は、まずは運動部=軍人社会(中学時代からの野球部の……)から戦後の民主主義社会(旧制中学系の進学高校にみられる左翼的な……)への、「一身にして二世を経る」ような自己挫折を通した内省からきているのだ。よって大学を出ても会社に入らないとのフリーター的選択は、バブル期にいわれた企業戦士にならないこと、つまりは明確な徴兵拒否だったのである。ならばこのニヒリズムは、韓日間にみられる情動的な関係(職人の間にぽかんと置かれたノンポリインテリな……)においても、羅針盤として機能する動かぬ試金石にもなりうるのではかろうか? トラウマを癒すのではなく、その方法的自覚とは、平和主義的な思想にもなりうるのではなかろうか?