「群馬県は明治以降の殖産興業の発達により、製糸工場など女子の仕事場が多く、女性が一生懸命に働くことで男性的(家庭内でも夫のような)意識を持つようになっていったという歴史がある。それが「しっかりしている」という意味も含めて「カカア天下」となるのだろう。女性が一生懸命に働いてくれると、元来怠け者である男は享楽の道へ走りたくなる。あるいは、一発大稼ぎをしたいという男の勝負欲、ギャンブル欲が刺激されてくるのだ。その結果として、伊勢崎オートや桐生オート、前橋競輪に高崎競馬(ニ○○五年で閉鎖)などの公営ギャンブルが栄えた。/こうした、ギャンブルが発達すると、当然のことながら周囲に歓楽街ができ、娯楽が発達していく。群馬県の男性は、家庭は女房がきっちり守ってくれるし、それでいて男を立ててくれるので、外ではカッコつけて遊ぶことができる。それが、傍らから見ていると気っ風の良さや侠気のようにも映るのだ。国定忠治の大親分も、案外そんなところだったのかもしれない。つまり、女房の手のひらの中で上手に遊ばされているのだが、それを知ってか知らずか、男は粋がっているのである。そして結果として男は自分のやりたいことができるということにつながる。」(手束仁著『「野球」県民性』 祥伝社新書)
データとして過去の記憶が並列されて、いつでも取り出しできるようになっている今では、子どもはネットのYou Tube やレンタルショップのTUTAYAなどから、時系列に関係なく好き勝手な配列で気に入ったものをいつでも見ることができる。だから私の子どものころはじまった戦隊シリーズの「ゴレンジャー」と今の「ゴーオンジャー」を見比べるように見ることになる。またテレビでもリバイバルがさかんなようだから、野球漫画なら、NHKで放映されている現今の「メジャー」と、東京テレビで再放送されている「巨人の星」と「ドカベン」を一緒に見てしまうことになる。一徹が飛馬をビンタしてちゃぶ台をひっくり返していると、「なんでぶってるの?」と子どもはきいてき、殿馬を見ては「これが一番好きだよ」とか言ってくる。「メジャー」は筋として見せる場面が多いからか、まだよく受容できないようでもある。が私は当初、まあ今時ならこんなアメリカ舞台を志向する漫画になるのだろうな、とか思っていたのだが、並列的に見せられていることにより、実はこの作品が日本の正当的な野球漫画の系譜を形作っていることに気づかされたのだった。またそれゆえに、前2作に連なる代表作的な位置を獲得しうる人気漫画になることができているのだろう。
ひとことでこの3作の基本となる共通点をいえば、野球に秀でた主人公が、自ら素人の集団の中へ自己を埋没させたところから、エリート官僚的にシステム化された体制へと反逆的になりあがっていく、ということである。これをサッカー漫画の「キャプテン翼」と比べてみると、後者があまりに素直にサッカーエリートとして、すぐにも泥臭くもないヒーローになりきってしまうのが顕著だ、ということがわかる。むろん、前者といえど、物語的な型としては、勧善懲悪であり、貴種流離譚でもある、とより一般化することはできるだろう。が、そうどこの文化歴史からも取り出してこれる一般的なコードとは別に、そうは典型化しえない特殊文化的な趣味があるゆえに、なお庶民共同体的な人気を博している、ということなのではなかろうか?
たとえば「メジャー」の主人公ゴローは、共同体(日本)からははじきだされてしまう個人主義的な志向が強く、自らそのしがらみ世界を切断して世界へと飛びたつ。が、彼がその世界で演じるのは、勝つことだけ、個人の出世だけが全てではない、という遅れた共同体の価値で押し切ることであるかのようだ。彼はアメリカでも、メジャーリーグというエリート組織へは仮病を使って素直には上らず、万年マイナーな選手たちとともに、まずそこで戦いつづけることを選択している。直球勝負しかないアメリカでの彼は、まるで日本刀という価値を振り回しているようにみえる。逆にそこから、日本で浮いてしまったのが、実はあまりに古典的な共同体の価値にこだわり、それを他人におしつけようとしていたからではないか、とあぶりだされてくる。というか、すでに子どもたちの間で、野球をすることがださい、汗臭い根性は流行らない、と思われている通念世界が舞台に選ばれていたのだった。要はゴローという主人公は、民主主義的というより封建的な、どこか古臭い日本人の美学なるものを体現しているのである。
私は、そこから北野武監督の映画群を思い出す。とくにはその「座頭市」。そこでの悪玉の親分は、実は平身低頭している飲み屋の主人だった、という落ちがある。座頭市自身からしてそうだが、ヒーロー(ボス)は隠れたまんまなのだ。「必殺仕事人」のように。戦うときだけ表にでる。そしてえばらないだけではなく、卑屈な姿のままにとどまるのだ。なにが彼を王(キング)にさせないのか? あるいは死後復活のキリストのような英雄にさせないのか? 出る杭はなぜかくも執拗に打たれていることを選ぶのか? それも陰影礼賛ということなのか? 「腰が低くていんだ」とは、職人を評価する言葉として、世にあるもののようである。
子どもの頃から、日本での野球を続けてきたいまは一児の父親であるものとして、私は子どもに野球をやってほしくない、と思っている。それは端的に、奴隷根性を身につけてほしくないからだ。幼稚園も年長クラスになればグローブをはめてピッチング練習をはじめ、小学三年生にもなれば朝5時半には起床して3キロのランニングに、野球などやったこともない父親が投手のバッティング練習にノックをこなす。「誰でも自分のようになれる、夢を捨てるな」とはイチローの言葉だが、運動神経も突出しているわけでもない自分がそれなりにいけたのは、「習うより慣れろ」ということわざにあるように、野球に必要な条件反射が幼少の頃から徹底されてきたからだろう。イチローの脳みそを科学的に調査してみても、それが生来の天分ではなく、のちに獲得された努力の産物であることがわかるそうだ。しかし問題なのは、その何かを成し遂げるために必要な鍛錬と成し遂げていくことからくる自信(自己了解=安心)を培っていくことの厳しさではなく、そこにまといつく暗黙の文化的な価値なのだ。野球部という伝統組織にある封建的な上下関係の厳格さは、ものも言えない卑屈さを身体化させる。たとえそれを継承して実践(宣伝)していく者たちがレギュラーにもなれない二流の選手たちであるとしても(野球に熱心な正選手は後輩になど興味がない―)、そうした虚偽の構造にこそ歴史(持続)の秘訣のようなものがあるようなのだ。「個を捨てて集団(チームプレー)に徹しろ」とか明確な発言になるものだけでなく、暗黙に強制されてくる保守体制のようなもの、そしてその価値宣伝者は努力も怠る能力主義者で、実は恣意的(いい加減)な個人主義者たちである。つまり、最近事件化されて露呈した教育界の官僚的連中のような。レギュラーになる一流選手は、実は出ても打たれない個の強さをもっている。要は価値と実際が逆転しているイデオロギー事態があるということだ。もちろんこれは、サッカー界にも違った見掛けで発生することだろう。野球部は厳しいから民主的なサッカー部にはいった、という監督が、日本代表チームの決定力のなさを嘆くのは、やはり論理的にはおかしなことではないだろうか? むしろ私はだからこそ、息子にはまだサッカー部のほうを選んで欲しくもあるのだ。試合になど負けてもいいから、個人として卑屈さを身につけるな、毅然とした強さを持って欲しいのである。(野茂をはじめとして、メジャーにいった日本の一流選手たちは、実は野球<部>の封建遺制に負けることのなかった相当な個我の強さの持ち主であり、ゆえに決定(反発)力を知っているのだ。)
『資本論』のマルクスの問題意識のひとつに、個人の伝統的共同体からの「切断」と、現実的な運動実践のためには既存諸関係(共同体)からはじめるという漸進的「持続」、というものがあると思う。この「切断」と「持続」という矛盾が、実際どのように関連されてくるのかを私は知らない。たとえば、職人世界では、親方が直接見れる範囲としての5・6人ほどしか人を雇わない、それ以上会社を大きくしないことが意識化されている。それは資本主義と対応した、人員数の多い官僚組織と対立的である。日本が二次大戦に敗北したのはこの大人数の組織化(責任体制)で失敗したからであり、同時にあれだけしぶとく敗戦を続行できたのも、ゲリラ的に活動しうる少人数世界の伝統的堅固さが保持されていたのがひとつの理由だろう。となればこの両者は対立的ではなく、実際にはつながっている。もともと封建遺制的な個人の卑屈さがあるゆえに、責任をひとつひとつ明確にしていく組織体制の形成ができないのだから。実際現場の職人が親方の言うことを文字通り聞くのは、自分で考えて失敗しておこられるのが恐いからなのである。そして状況の変化(現場)に対応しないで文字通り行おうとして失敗するので、やはり怒られてなおさら萎縮していくのだが、ある意味それが手下としてとどめておく支配の手段なのである。これは俗に言い換えれば、自分の手の内でしか動くことを許さないような母―子の関係的であり、一人立ちできていない子どもの集団である。たしかに、そこにある集団的価値は、たとえば「植木屋革命」とか称して、いわばダスキン方式で仕事を拡げようとしていく資本主義的な路線とは対抗的である。が実際には、対抗にもならない弱者の集団なのだ。
私は父親として、息子にこんな弱者にはなって欲しくないのだ。一度その身に染み付いた価値を払拭するのに、どれだけの年月がかかるか……ほとんど、一生を棒に振るような試練になってしまうのだ。