2009年9月23日水曜日

環境と共同体

「差別は、いわば暗黙の快楽なのだ。例えば、短絡した若者たちが野宿者を生きる価値のない社会の厄介者とみなし、力を合わせて残忍なやり方で襲撃する時、そこにはある種の享楽が働いているのだ。それは相手を劣ったものとして扱うことで自分を保つための装置でもあるから、不平等な社会では差別は横行する。そして、あたかも問題があるのは差別される側であるかのように人々の意識に根付き、蓄積されていく。
 時の権力は、権力に不満が集まらないようにするためには、ただ、差別を放置するだけでいい。そうすれば、いつまでも分断されたシモジモ同士の争いが続く。
 他方、差別される側は、差別の理由を求めてさまよう。その理由をなくせば差別されなくなると考えるからだ。しかし、差別するための「理由」は、いくらでも付け足される。結果、自らの努力ではどうにもならない状況が作り出され、多くは無力感を植え付けられていく。」(『差別と日本人』 野中広務・辛淑玉著 角川書店)


民主党主鳩山氏が首相になって、まず提示された政策は、温室効果ガス25%削減という、グローバルとされる問題実践。そしてひきつづき、新型インフルエンザの輸入ワクチンに関し副作用被害を国が肩代わりするという検討の提出。厚生省や国土交通省の新大臣になった党員が選挙時マニュフェストに沿った実行をすでに提起していたけれど、アメリカ行きまえに突如として声明されたこの2つの国際(対外)的な政策は、私を不安にさせてくる。「核の密約」問題を話題としてクリントン国務長官へ持っていった外務大臣の行動とともに。私は、ちょうど選挙投票日、友人へと送った以下のような自分のメール中の疑いを強くした。

<…朝日ジャーナルの特集で、たしか浅田彰が右から左に変わった女性運動家(名前失念してしまいましたが…)のことを、「コース(真実)」を追求していくスタンスではなく、アイデンティティーが問題になっているから、機会原因としてころころ変わっていくのが当然となってしまう、というようなことを言っていました。最近の言論情況では、貧困・労働現実運動に対する異議は相当抑圧されている趣があるので、以前だったら正当だった批判が声を小さくして言われているような現状だとおもいます。

だから、民主党が勝てば、記者クラブなどをつぶし既成の権力基盤が崩されることを既得権力メディア側も予測しているでしょうから、社内の左派的な言論に自由さをよりもたせてやることに舵をきって、既得権益を新しい政権下でも延命させようとするでしょう。つまり、より「真実」追究の正当的批判は抑圧されてくる可能性もあるとおもいます。現政権とアメリカとの密約問題をめぐる「真実」追求の鳩山代表の姿勢が、末端の「真実」隠蔽の動きと両立されてくるのだとおもいますが>

要は、大きな問題解決のために、小さな問題が隠蔽されていくという国家主義的な路線が前面に出てきたわけだ。アメリカのオバマ政権下では、すでにワシントンDC前での民衆の反乱に関する報道は国家権力をおもんぱかって自粛されているという(田中宇の国際ニュース解説)。選挙選択的な意味では、これ(国家主義)はしょうがないこととはいえ(…その党人を選んだのはわれわれだし、またとりあえず悪いことではない)、やはり個人として警戒感をもってしまう。ネットで軽く検索したみたところ、大概は「鳩山イニシアチブ」への肯定的な感覚で、この動きに疑義を感じている一般知識人は多くないらしい(目に触れたブログは《夜明けへの助走》「戦略性を欠いた環境政策は日本を追い込むだけ」)。

鳩山氏というより、小沢氏率いる民主党を支持してきた副島隆彦氏とその研究グループは、その『エコロジーという洗脳』(成甲書房)で、排出権取引(デリバティヴ)を伴う欧米の戦略に遅れてやってきた日本の猿真似官僚が、そのバブル破綻にもかかわらず環境税という人が息をすること(CO2)に税金をかけることを合作しているが、「この動きは、日本にも出来るべきである民主党政権の樹立を目指す政治家(国会議員)たちの動きとは別個独立のものである。」と書き付けていたわけだが、政権をとった鳩山民主党のこの出だしをどう評価しているのかは公開的なところではまだわからない。欧米の政財界側が喜びそうな手土産を高く掲げることで、向こうの気勢をくじいてから本題をはじめていくような戦略性ならまだよいのだが、もし文字通りなら……「日本政府は、自分ではお仲間だと思っていたヨーロッパ官僚たちに騙されて、たったひとり取り残された面子もあって、どうしてもこのあと、この排出権の取引相手の国を見つけなければならない。だから、おそらくブラジル、アルゼンチン、チリなどの南米諸国あるいは、東南アジアのどこかの小国に裏金の開発援助を払って、密かに根回しして、なんとか、「サザビーのオークション」のような国際的な公開の取引市場を作って、そこで、排出権のイカサマ的な売買をコソコソと、自由市場での公正な取引の振りをしてやるしかない。そういう状況に追い込まれているのである。愚かきわまりない、としか言いようがない。」(『エコロジーという洗脳』)――そんな可能性が現実味を帯びてきたのではないだろうか? さっそく財務省だかの官僚は、そんな政府の数値目標達成には「国民の負担」を強いることになる、と喜びの布石を打つ発言をしたのではなかったか?

いや、副島氏が区別するように、確かに官僚の思惑と政治家の政策は違うとしてみよう。しかし私が思い出したのは、ある「持続可能な社会」や「世界」を目指す実践を趣旨として運営されていたフェアトレードのカフェでの催しのことだ。私はそこにいなかったのだが、その平和を願うような会には、民主党系の議員もいたらしい。で、参加した私の友人はそこから帰ってきたあとで、こう憤慨していたのだ。「あんな奴らが政権とったら、俺がぶっつぶしてやる!(言葉は正確ではないかもしれないが…)」…私は何事があったのかとびっくりしたが、要は偉そうにふんぞり返って鼻持ちならない、ということだろう。そして私は、この東京大学でのNAM党員の感性のほうが正しいのだろうと思ったのである。あるいは、おそらくは幼児の遊び場と小学校の統廃合の反対運動で知り合った民主党区議を通してであろう、女房がアメリカ民主党議員アル・ゴアの『不都合な真実』の上映会とそのビデオ鑑賞を、私に熱心に勧めていたのである(私は結局見ないでいるのだが…)。つまりそうした草の根というか、なお現勢体にはなっていない運動、まさにゴアというアメリカ要人からの洗脳にも関わるような、政権がどっちに転んでもいいように上層階級から仕組まれた市民運動が、裏(下)で着々として進められていた、ということになるのではないか? と私は今さらのように思いおこし、勘ぐるのだ。つまり、そういうアメリカ(の世界戦略)側からの、これまでは目に見えなかった文脈に沿って、現政権が動き出したのではないか?

環境が問題なのは、どうしてだろうか? 温暖化とそれに伴う北極氷海の溶解やさんご礁の消滅など、が科学的真実というよりは政治的なプロパガンダだったということが科学的には明確になってきている、と言われるようになってきている。が、枢要なのは“科学”なのだろうか? 自分が育ってきた場所が喪失されていくことは客体的になりうるだろうか? 私は、「路地の消滅」にこだわった作家中上健次氏の視点で、北極海やさんご礁で暮らしてきた人々の実存を思うべきであるとおもう。科学医療で延命される客観(他人事

)的生命というより、尊厳死を導くかもしれない実存的な生命である。「滅びよ、」とゆえに中上氏は発言した。そして新しく創造したほうがいい、こんな共同体(世界)は、と。その尊厳と、共同体が根底から破壊されてゆくパレスチナへの連帯表明は併存する。そこはしかし、まさに人間が尊厳であることがもろに露呈されてくるような差別の場所なのだ。この世界的な経済危機のなかで、南米からきていた私の友人たちのほとんどが母国かそこに近い外国へと帰っていった。彼らの日本人社会(共同体)への恨みが、「誤解」であると私は認識している。がそれは、あくまで(統制的な)理念の高みからしかやってこないものかもしれない。つまり希望にすぎないかもしれない。ならば現実的な問いとは、文化という、人が世界で生きていく知恵のネットワーク(共同体)と差別とは、つまりこの両者の生活連関とは、区別できないものなのだろうか? ということだろう。それは、互恵や不可避の付随として存在するものなのだろうか? 環境の問題とを、私はそのように考えはじめる。