「副島 私は生活レベルで国民が生き残ることが何よりも大事だと思っています。アメリカ発の金融恐慌の下でも私たちは何としても生き延びなければならない。
佐藤 私もそこがいちばん大事で、国家に依存しないで生きる思想を国民それぞれが抱くことが必要だと思います。序章で副島さんがアメリカのリバータリアンについて述べた、「自分の生活は銃を持って自分で担保する」という話のように、われわれ日本人は銃を持たない形でそれをやっていく。極力、政府に依存しないという姿勢が大事ではないかと思います。だから、仲間を大切にする、仲間の中での掟を大切にするという方向を考えたほうがよく、あまり政治に期待しても意味がないと思います。」(『暴走する国家恐慌化する世界』副島隆彦×佐藤優著 日本文芸社)
祭りのときの金魚すくいで、息子の一希がとってくる金魚を、ようやくのこと、2週間以上生き延びさせることができるようになった。知り合いからもらったメダカをふくめ、五六回はすぐに死なせてしまった。そのたびに、死因をめぐって女房と言い合った。「この安物のブクブクが不良品なんじゃないのかな? ほんとに実験してから売ってるのか?」「そうじゃないわよ、水をかえるのがいけないのよ!」「金魚が弱ってきたからかえたんだろ、おまえがそんなこといってるからおそすぎなんだよ」「ちゃんとカルビ抜きいれてないんじゃないの? すぐにいれかえちゃだめなのよ!」「むしろカルビ抜きの液自体が不良品なんじゃないのか?」……で、いい加減女房のいうことをきくのはやめて、ブクブクの電源を外し、水草を新しくし、カルビ抜きもいれないで、バケツにいれた水道水を何日か置いておいたものを、2週間を越さないのをめどに、半分ずつ入れ替えていくことにした。そして、もう、二ヶ月近く、生きている。俺の観察したとおりだ、と思うと同時に、十月にはいって寒くなってきたので、金魚の活動が休眠期に近づいたせいもあるな、とおもう。その間、子供は興味がよそにうつっている。親のほうが、忘れていた、というか、思い出せない生き物への感動を、もう一度この歳になってとりかえそうとしている。生物だけではない、子供が適当に植木鉢に埋めた、ビワやイチョウなどの木の実が芽をだした植物にせっせと水をやってよくめでているのはこちらのほうだ。子供がいなかったら、この生き生きとした感覚がなんだったのか、私は思い出そうと努めることもなかったろう。
<司馬遷(紀元前一世紀ごろの人)の『史記』の中に「刺客列伝(しかくれつでん)」の巻がある。あの思想です。刺客になってよその国の王様の命を狙う、歴史上の男たちのことを書いている。ここに現れるのは、自分はつまらない人間だけれども、このつまらない人間である自分を、きちんとした立派な人物として扱ってくれたあなた様に、自分は、死ぬほどの恩義がある、と考えた人々だ。だから、自分は、あなたからの恩義に報いるために、たとえ、自分はどんな酷い殺され方をしてもかまわないから、隣の国の総理大臣や王様を殺しに行きます。これが、「義」なんです。今でいえば、暴力団員が、親分のために人殺しにいく思想ですね。このことを中国人は、今でもわかっています。…(略)…このことを日本人のほうが分かっていない。日本人の方が「義の思想」をわからなくなってしまっている。沖縄とか、東北の田舎に行けば、まだ、義の思想が、生き残っているかもしれない。義の思想というのは、それは、「恩義に報いる」という思想です。
実は、私たち日本人の魂の土台のところに、義の思想ははっきりと残っています。…(略)…だから、私たち日本人は、「済みません、済みません」と使っている。朝から晩まで、すみません、すみません、申し訳ありません、の国民だ。何が、「済まない」のかといえば、それは、やはり、あなた様(眼の前の相手)から受けた恩義にたいして、十分お返しすることが、自分には出来ない、だから、済みません、であり、申し訳ありません、なのだ。ここまで来ると、日本人も、実は、中国人と共通の土台に立って「義の思想」を理解できて、かつ、それは、私たちの体の中を太く貫いている中心の思考、行動の原理である。これで、なんとか、私は、義の思想が分かった。…(略)…
なぜ日本人に義の思想が、消えてなくなったかというと、戦後に占領軍としてやってきたアメリカ軍(進駐軍)が、日本人のこの精神を、徹底的に嫌って、撲滅せよ、と判断したからです。戦争中の、神風(カミカゼ)特攻隊のように、死ぬ覚悟で向かってこられたら…(略)…それで、義の思想が、日本から消えてしまった。私は、その復活を志(こころざ)している、奇矯(ききょう)な人間です。日本一の知識人だと自分で思っています。>(副島隆彦の学問道場「1076」 「三国志の「義(ぎ)」の思想 から考える 日本人の思想」という私へのインタヴュー記事)
リーマンショックを当てた人として、佐藤優氏につづくようにジャーナリズム界の表に現れてきた、と門外漢には覗える、副島隆彦氏が上のように発言していたのを知ることは以外な気がした。より普遍(外=世界)的な趨勢に積極的に臨んでいく姿勢が、保守右翼的な立場を表明する佐藤氏との違いに私には見えていたわけだが、どうもそういうことでもないらしい。マルクス主義者を自称する柄谷氏が、佐藤氏の立場に近い宮崎学氏に対して、「(自分と)言わんとしていることは同じだが目的が違う」と解説していたが、ということはこの両者、というかジャーナリズムに強い影響で存在しているかもしれぬこれら四者には、その思想の根幹において共通的な立ち位置があった、ということだろうか? 柄谷氏が封建制を評価的にとらえ返し、その精神思想をより古代文明論的に遡及追考し、「しかし子供の無邪気さはかれを喜ばさないであろうか、そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。」という『経済学批判』のマルクスの言葉を引き合いにだしながら、<マルクスは、未来の社会についても、氏族社会の原理が高次のレベルで回復されるというヴィジョンを見出した。…(略)…エンゲルスは、ギリシア・ローマのポリスも、ゲルマンの封建制も、氏族社会(戦士=農民共同体)の「追想や伝統や模範から生じた」というのである。>(柄谷行人著「『世界共和国へ』に関するノート(8)」 『at』12号 太田出版)――と敷衍し「未来のアソシエーション」を提起するのと、ヤクザ社会の歴史を価値転倒的に評価した宮崎氏が、土建業社に顕著だった<親方―子方>制度の人間的結びつきに基づいた「談合文化」を、この将来の日本人に創意反復すべき自治社会の範例なのだと喚起させるのは(『談合文化論 何がこの「社会」を支えるのか』祥伝社)、直視している現実との接点において同じ態度なのだ。つまりでは、何が失われ、何を回復したいというのか? それが、子供以上に親が熱中する、生き物に対する感覚、もはや実感として思い出すことはできないが、それが在った、と知的に追想しえる生き生きとした感覚なのである。副島氏が言う「義」も、人間的、というより人類学的な概念で敷衍すれば、「贈与」という問題系のことになろう。親が子に与える無償の愛に、子が恩義を感じるというのではない。むしろ子供は親のこと、親の勝手など知らないだろう。しかしむしろ、その勝手さ、子供の存在自体が人(親・大人・人間)に恩義を与えてくれ、そのことに返す代償さえありえないと感じるが、ありがとうと返礼の期待もなく感謝したくなる気持ち、子供のためなら自ら死ねるような真剣さ……それが、私(親)の憂鬱や絶望や空虚さを解消させてくれるわけでもない。がそんな心情的な躁鬱の循環とは別の、実感的には抑圧されてしまった生き生きとした感覚、それを反復させたいという知的な意欲(営み)が私の生を保たせるのだ。
平和な日常の空虚さに耐えかねて、生きる実感欲しさにあがくのは青春時に一般的な事象なのかもしれない。その空虚さを、子を持つ結婚生活で紛らせられてきたのは歴史的な特権で、現在の若者たちは、子を持つ結婚はおろか、その日暮らしのための職を持つことさえできないではないか、というのはゆえに人の根底に関わる深刻な問題だ。ただし、何が一般的な事柄かは、まさに時代とともにころころ変わる。景気がよくなれば、その具体的なという問題は解決されるのでもなく消滅する。が、親が子に贈与される恩義の問題は、不変=普遍的な事柄だ。ここを根拠にしなくては、生は生き生きとよみがえらない。青春(空虚)は一般的に繰り返されてしまう。ならば私は、どうして親を捨てるように家を出てきたのだろう? それを可能にさせた社会的条件とが、資本主義の自由(フリーター)という行使だったとしても、それが不可能な条件下であったとしても潜在的な可能性として既に常にあったはずのものだろう。親になっても、子であった私が忘れてならないのはそのことだ。<親―子>の、どんな関係が嫌だったのだろう? 一希も、言うことをきかない。
だから、私は「目的」において、「(談合)文化」を目指すものではない。運動部でで、職人の世界にいる私は、その卑小さの面のどうしょうもなさを身にしみている。それで、世界戦争に勝てるともおもわないし、日本が以前の大戦で敗北したのも、宮崎氏が評価する面が重なってくるものだと実感する。高倉健や寅さんでは駄目なのだ。人間(日本人)を変えようとする私の努力が、個人のあがきとして現実離れしてこようと、それでいいのだ。しかし繰り返すが、立ち位置は、仁義である。だから、急いた変革など期待しない。むしろ保守になるのだろう。ただそれを志向するというわけではない、ということだ。そこから、はじまるのだ、未来の個人とその共同体のほうへ、少しづつ。