2011年7月30日土曜日

時のなかの親子

「どのみち、経済は今の規模では回らなくなります。経済が回らなくなれば不幸になるならば、僕らにはもはや未来はありません。/ところが、実際にはそんなことはありません。市場経済の規模が縮小したとしても、便益も、幸福度さえも実際には上げられます。そのためには、今までの自明性の地平を掘り崩して現在の自明性を前提とした単なるライフスタイルの選択ではなく、自明性を支えるソーシャルスタイル全体を変えるということについて合意形成をしていく必要があります。」(『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』宮台真司×飯田哲也著 講談社現代新書)



九死に一生を得るような体験が、どのように自分を変化させているのか、判然とはしがたい。津波で家も職も失った人は、たしかに生活は激変したが、ではどう自分自身が変わったのかとなると、うまく把握できないのではないかとおもう。震災まえに木から落ちて骨折し、最近やっと職場復帰しても、年間管理の公共作業からはじかれた状況は半失業状態であるような私など、現実に被災し生活基盤を失った人たちと比較するのは見当はずれな前提なのかもしれない。しかしなぜか、私には、私の今の状況が、私を超えた時代をおそう気分のような気がしてくるのである。このまま、今までのままではだめだ、と気付かせてくれている時に対して、どのように向き合うのか、どこに向うのか、どのように向うのか……その時から微熱のように湧き出てくる問いが、またその時の中に飲み込まれていって自身の身悶えを封じ、意識を憂鬱にさせてくる。しかしそれは、身動きが不能、ということではない。時は、自縛の縄が緩んできていることを教えてくれたので、身悶えして解こうとしているのだ。しかし、本当に解けたとき、どうするのか? ……親方は、私と年上の職人が怪我で休んでいるあいだ、他の例年の管理作業も断ったそうだ。元請けからはやったほうがいいと言われたそうだし、おそらく系列のほかの会社が手伝いにくる体制が敷かれたことだろう。それを敢えて断る、ということには、親方の息子を含めた残りの若者たちだけでは無理がある、とする判断もあったかもしれないが、それよりも、「いやだ」、という身体的な感覚のほうが強かったのだろう、と私は予測する。「いやだ」というのは、元請けの支配や、系列への依拠を潔しとしないことや、自分の会社が弱体しているときに他の系列会社に仕事をふって助けてやることのデメリットの計算、というこれまでの会社どうしの通例的なかけひき、とは別に、もう今までのやり方では「だめだ」、ではなく、「いやだ」ということ、もうそんなかけひきめいたことじたいがやりたくない、ということを含んでいたのではないかと推測する。一緒に働いて今を築いてきた自分より年上の職人への後ろめたさ、というのもあるかもしれない。ということは、意識せずとも、その時を身に受けているのである。がその結果、仕事は民間の、少ししかない。惰性を半分きるだけで、そうなる。足の怪我の傷みが消えていない私は、若者へのワークシェアリングとしてか、週休3日が前提。暇をいいことに、部屋で寝転んで本を読んでいる、労災で暮らしていたときとかわらない、というか、収入もそれと似たようなもの。しかし、これが来年もつづいたら? ……30歳になる親方の息子だったら、どう対応するだろう? たぶん、元請けの要請されるままにやるだろう。役所仕事に精を出してきたからか、ゼネコンを真似する元請けの真似なのか、入りたての若者が仕事の態度でおかしいと、仕事おわってから事務所に残して、反省文という作文を書かせる。中卒での者が東大での官僚のような発想をすることのおかしさ。日本の社会はどこを切っても金太郎飴みたいなものだ、との事例が目前で反復されている事態の将来性は? 敗戦後のどさくさに紛れて地歩を築いた一代目から、3~4代目のほぼ100年がたっている、というのが日本の会社の多くなのではないか? つまり、ヒューマンスケールで終る。人も会社も。で、どうするというのか?


今日は雨で、息子のサッカー大会は中止になった。3年生をまじえたこのまえの大会ではぼろ負けだったが、こんどのは2年生だけだから、ぶっちぎりで優勝するだろうと期待していた。しかしそう期待する私の心性に、高度成長期の親から挿入された官僚(エリート)競争主義の慣性がある。競争は必要だが、それが経済(進路・就活)に結ばれて重ねあわされると、人格をそこなう。不幸がやってくる。一希はいま、大会ように母親が作っていた弁当をもって、サッカー仲間と小学校の遊び場へいっている。まだ、サッカー小僧にはなれず、その場のおもしろさに釣られてちゃらんぽらだ。面白いほうへいく。しかしそれは、雨でよく家にいる職人の子供たちにはありがちなことで、だから、ちょっとしたことで学校にもいかず、進学もたいしたこととは考えなくなる。今に満足、親といる幸福を覚えてしまう。人間味はあるが、いざ社会にでてその有様に直面してくると、反動的に適応しようとする。しかし、頑張りの根と、世の中や人間への認識、おそらく社会的なもの、社会のなかの人間を動かしているものへの、認識の根本がわからない。人がよすぎるようになるのだ。それで、いいのだろうか?


私を作ったのは両親だが、その私は息子とともにある。父親は認知症を発症しはじめた。この時をきっかけに、社会がその時とどう向き合うのか、どこへ向うのか、どのように向うのか、は、子供とともにある私の生活が考えていかなくてはならない。

2011年7月18日月曜日

二つの時間と、ヒューマンスケール

「最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の三月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」という言う人たちがいる。こういう考え方の前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に忘却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。」(柄谷行人著「週刊読書人」 2011.6/17)


木をみておもうことがある。それは、おおよそ、100年を超える樹木となると、どこかヒューマンスケールを超えて存在しはじめる、ということだ。個人主義的に、単にのぼって、切る、というような私がやっているような作業は、それを超えると、できなくなる、あるいは、そのスケールの違う超越的な存在をまえに、畏怖の感じに捉えられ、気を緩めると、振り落とされてしまうような緊張感を覚えるのである。「まだ100年はたってませんね。80年すぎくらいかな。」先週も、新宿の民家にあった欅の木の剪定で、住んでいるおばあさんとそんな話しをした。「ええ。おじいさんが、子供のころ植えたそうですから。」……しかし、私がその欅をみあげながら、骨折した腫れの残る足をさすりながら考えたのは、人の営みはゆえに、100年を超えられない、のではないか、ということである。しかしここでいう人とは、いまの技術体系を支えているような、個人主義的なもの、となるだろう。大昔ならば、樹齢何百年という樹木を相手にできていたはずだ。それは、そのような支援(世代)体制で事にあたるのが前提になっていたからだろう。大正時代くらいまでも、山から庭へ木を移植するのに、何千人という人夫が動員されている。いまは、はした金を設けるために、おまえやっとけ、というような体制である。しかし、戦後植えた小学校の木なども、そろそろ100年を超え始める。しかも、庭木として手入れしているので、傷みもひどい。よく庭の主人が亡くなると、その植木も枯れてなくなるのだとかいわれるが、それはなにも神秘的な話しなどではなく、狭い庭におさまるよう無理な手入れを続けてきたのが原因だろう。庭木もまた、その時代の人の寿命を後追いしだすのである。暑い日差しのなかで、ふた周りも縮小された屋根を覆う欅をながめながら、もう終るのだな、と私は考えていたのである。


避難所のひとつの体育館の床に寝転びながら、周囲に漂う秩序ある静けさを、私は異様なものとして感じたのだった。「災害ユートピア」というよりも、それは想像を超えた事態に直面した人々の諦念ではないか、と。個人的な誤解なのかもしれない。新聞でのある著名人の感想によると、災害後3ヶ月くらいまでは、生き延びたこと、そのことに対応していくことで一生懸命な感じがあるが、4ヶ月めになると、あきらめやら疲労やらで、元気がなくなってくるのだという。単にそういうことなのかもしれない。が私がおもったことは、もっと長い時間でのこと、それと、この短い時間の関係のことである。日本の文化の基底的態度に、あきらめた情感があるのは、こうした大きな自然災害を繰り返し体験したからかもしれない、が、その長期的な習性が、この間近な直後の時間とどうつながっていくのか、というか逆に、この間近な時間が、どのように長期的な時間を作っていくのか、が腑に落ちなくなってきたのである。あの避難所の雰囲気にふれて。ポルトガルの歴史で、ヴェスビオス火山が噴火し、その災害後、大航海にも繰り出していたポルトガル人の気質が、冒険精神から諦め的な淡白さに変質したとかいわれる。外からみれば、そうなのかもしれない。が、中からみれば、その論理は短絡すぎて、なにか欠落があるように感じられてくるのである。いや外国人からみるならば、普通でさえ大人しい日本人の態度は「異様なもの」としてうつっていることでもあるのだから、それは近すぎる見方で、取るに足りない取り越し苦労な思いなのかもしれない。しかし当事者だったら、この諦念を乗り越えていかなくては、トラウマ的傷を乗り越えていかなくては、前にすすめないではないか? そうやって、当事者がこの間近な短い時間を克服してきたとするなら、その超克の時間と、長い文化的な時間、しかもそこで反復習性されてしまう諦念の構造とは、どのような折り合いのもとで構成されているのだろうか? 公的行政単位での話し合いで、被災した県市町村のトップ会談だけでは、当事者として思考力も気力も回復されていないので、被害にあわなかった行政区の人たちの助言と後押しが必要なのだ、と話す被災地の長がいた。こうした、他者的な団体との網目が、持ちつ持たれつの構造を作っていくということだろうか?


先週の毎日新聞で、「ATM窃盗事件25件 原発事故後、半径25キロ圏」と記事がでている。火事場泥棒の被害総額は約4億2千万円だそうだ。副島隆彦氏の、現地入り報告直後の掲示板からの現地レポートを勘案して推論すれば、これは単独の犯罪ではなく、組織犯罪なのだろう。副島氏によれば、事故後、重機をのせた関西ナンバーのトラックが現地へむけて走ってゆくのが目撃されていたという。それは、山口組が阪神大震災の教訓としてマニュアル化していた、災害後対策によるのだという。こうした現象が、「災害ユートピア」的な人の真実を、裏切っているというわけではないだろう。どちらも、真実なのだろう。この位相の違いが現実的に絡み合う時、その時が社会的な項目を形づくりはじめ、次なる時間へと繋いでいく。一つの時間の終りから始められたものが、もう一つの時間の終りに挿入されることで、その終りの内側に始まりが胎動する。しかしそれは、この私には関係していることなのだろうか? ヒューマンスケールを超えていることなのだろうか? しかしそれも、この私とが、あくまで近代的な個人という枠組みから抜け出ようとしなければ、という話しなのだろうか? ならば、私自身は、誰に繋がってゆくだろう?


最近読んだものに、沖縄のユタの話しをきいて腰痛がなおった、という話しがあった。ならば、私は恐山のイタコの話しをきけば、腰痛がなおるかな、と考えたりしている。同時に、そんな考えを抱いてしまう私自身が気力をなくしているからなのか、とも内省する。私はただ、終りがやってくるのを、黙って見ている事しかできないのだろうか、それとも、この終りに、次なる始まりが胎動しはじめているのだろうか?

2011年7月5日火曜日

「安全か、危険か」を超えていく隙間

武田 福島市長は、おそらく山下さんが100ミリということは、もう事前に聞いてあって、政治的には100ミリって言ってくれることによって福島市民の心の安定を得ようと思ったんでしょう。それで、しかし――。 副島 それで今、逆に福島県に動揺が広がっているんですか。 武田 うん。広がっている。ジワリジワリと。山下さんの言っていることを最初は信用した。福島市の人が僕に送ってくるメールによると、彼は細かく福島市を講演し、住民を説得してまわった。100ミリシーベルト年間は大丈夫だと。それを最初聞いて信じていた人たちは、内閣の参与の小佐古さんが辞めたり、僕が「1ミリ以上は危ないですよ」とか言ったものだから心配し始めた。その波は4月の中旬ぐらいからのことです。心配し出した一つの表れが、郡山市の洗浄作業です。郡山市の人たちが1ミリシーベルト年間を超えてはいけないと思って洗浄を始めたんです。僕はいいことだと思ったけど、このことが周囲に与えた影響が、いいか悪いかという判断は難しい。しかし、庶民はもう少し強いんじゃないか。つまり、かつて有名な労災がありました。ベンジンを使ってスリッパを作る仕事をしていればがんになるということは前から分かっていたけれども、自分はベンジンでスリッパを洗浄しないと生きていけないからベンジンで洗浄したというものです。ぼかにも僕が言う話があります。アルミ缶入りのビールは素晴らしいんだというものです。なぜなら、昔は酒屋の丁稚というのは、重たいビンビールの20本入りケースを運んでいたので、だいたい50歳前後で腰痛になって死んだ。割合と若くして死んだ。しかし、彼らはそれは分かっている。その後、アルミ缶入りのビールができたために、腰痛で死ぬ酒屋の丁稚はいなくなり、その分、寿命が延びた。だから今回の問題は、放射線による害というのを正しく伝えること、主婦が計算できるようにするということが、現地の人たちにとって耐えられないかどうかですね。金持ちしか逃げられないという現実は、まさにその通り。貧乏な人は、どうしてもそこで生きていかなければならない。そういうことはありますからね。……」(副島隆彦vs武田邦彦著『原発事故、放射能、ケンカ対談』 幻冬社)



「今の基準(20ミリシーベルト/年)は、安全か? 危険か?」と帯された上記引用の著作を読んでいても、少しもすっきりしないのは、やはり問題の立て方自体がすでに社会のカラクリにはまっているからではないか、というのが私の理解である。私の理解では、副島氏が科学的根拠として信憑する山下氏の発言にしても、100ミリシーベルト以下は「安全」だと言っているわけではなく、医学的にはわからない、と言っているのが、副島氏自身が根拠として自身HPの掲示板で引用している山下氏の文章からもみてとれ、それはおそらく、顕微鏡で見てもわからない、とかの、現時点の医療技術では突き止めることができない、ということを言おうとしているのだろう、と推論される。がしかし、と山下氏が続けるのは、それでも、原爆を落とされた広島市民や長崎市民のように、福島市民の人々も生きていくことができるのだ、汚染された水を飲み、残留した放射能をあびつづける生活であっても、という社会的な事実が挿入され、ゆえにその教訓として、今の放射能下を生きる人々の人生における自覚の話しに転換されているのである。つまりそれは、あくまで「科学」の話しではなく、むしろ社会の話しなのである。そして、ウルリッヒ・ベック氏の「リスク社会」という呈示によれば、現代は放射能に限らず、副作用社会が前提になっている。そこで事故が起きれば、副作用それ自体において科学的に「安全」な数値などないのであるから、ではいったいどの数値までそれを許容するか、という社会的なコンセンサスの議論が惹起されてくる。平時においてあった前提が、事故時には泥縄式に沸騰するということになる。上の議論のように。つまり、上のケンカ対談は、それ自体がリスク社会の産物であり、症状なのである。ならば問題は、われわれはわれわれを前提とさせているリスク社会そのものから脱することができるのだろうか? という話しになってくるだろう。


昨夜、「なのはなプロジェクト なかのアクション!」主催の、「未来バンク」を運営している田中優氏の「自然エネルギーシフト」への講演をきいてきた。たしかに、自然エネルギー社会が前提させてくるものには、副作用問題は希薄になってくるかもしれない。が田中氏自身が、脱原発から自然エネルギーへ議論を直接うつすことには反対だ、なぜなら、そうするとすぐにその欠点をあげつらう議論に取り込まれてつぶされてしまうからだ(それは副作用、というより、一長一短の話しであるだろう)、だから、それ以前に、現段階での節電、東電の料金体系等をも視野にいれた節電という中間項で現問題が解決できるのだ、ということを示す議論や問題提起を媒介させたほうがいいのだ、と前置きしていたように、われわれもまず、なお「カラクリ」のなかにとどまって議論を煮詰めておく必要があるのだろう、と私も考える。それはひとえに、自分が福島市に生きる子供を抱えた親だったなら、どうしたらいいのか、と想定してみれば、そんな素早く自然エネルギーの話しなどする余裕がなくなるだろうからだ。


しかし、放射能から逃げる、逃げない、という話しだけなら、答えは簡明だ。事実貧乏階級に属しているので、あるいはそこに身を置くことをひとつの思想にしているので、逃げるわけにはいかない、ということだ。3月の事故直後でも、当時の私の知識教養レベルでは、原発が爆発する、ということがどういうことかわからなかっただろう。また今から推論するに、誰もどうなるかわからず、頭には広島・長崎のきのこ雲、原爆のようなイメージしかなかっただろう。そしてそう爆発が大きくならなかったのは、設計ミスのおかげという、不幸中の幸いだったようだ。もしがっちり設計建造されていたものだったなら、原子炉ごと吹っ飛んで、甚大な被害が広範に及んだものと私は思う。とにかくも、原発からの爆風を想像しなくてはならない範囲内に居住していたとしても、私(たち)は逃げ遅れただろう。では、その逃げ遅れた私たち家族が、「安全か、危険か」が騒がれる福島市に残っているとして、私はなにをどう判断するだろうか?


(1)夫婦喧嘩を極力おさえて、子供にストレス影響を与えないようにする……地震津波で離縁する、という夫婦はないと思うが、原発事故後のどうするかをめぐって離婚までいった世帯がいる、ということが私にはよくわかる。たとえばわが女房、最近ようやく水を買うのをやめた、事故直後、私があれほど停電と放射能で水がどうなるかわからないからポリタン買ってためておけ、といっていたのを平気で聞かず、結局は松葉杖の私がホームセンターでタンクを買って水の貯め置きをしたのである。そんな呑気だったのに、もうだいじょうぶだという頃になって、女房わざわざミネラルウォーターを買って料理をしはじめ、私が貯め置いたタンクの水は匂いがいやだから使わない、とほざく。ヨウ素はそのうち減るし、セシウムだって沈殿するから下まで使わなきゃだいじょぶだ、俺たち貧乏階級の分を弁えまえろ、といっても、もともとグルメ穣さんだからいうこときかない。けっきょく貯め置きのポリタンはゴールデンウィークあけのベランダ掃除に使うことになった。てなぐあいで、わが女房はいつも遅れてパニックになる。もう逃げる段階はおわったのに逃げようと考え出したり。しかし貧乏人は帰ることを前提にした逃亡などできない、やるときは移住、ということになるので、私は地震と原発被害の少ないところ、しかもツテのあるところをと調べていた。広島から長崎に逃げてしまった人にならないように。すると、熊本県の一部、と群馬県の一部、とでた。というか、ほとんど日本はだめだから、逃げてもしょうがないのではないか、という結果だったが。しかし、私がどう考えても、そのときの女房が呑気なので、実践は伴わない。そこでの軋轢を、子供はじっとみている。小学2年生にもなってオネショがなおらないのも、すさまじい夫婦喧嘩がトラウマになっているのではないかともおもう。その子供をめぐっての教育法にも喧嘩が生じる。女房はママゴンのように宿題をみて、漢字の書き順がどうのこうのとしつこくいって子供も毎晩のように泣かせている。「けっきょく原発事故の原因ってなんなの?」 とたまに女房がきいてくるが、「だからおまえのような教育を子供にしていくからだよ。文字の操作で現実に対処できるとおもう本末転倒な連中が世の中を仕切るからだろ。東大でてそういう世界にいくのと、途中でおちこぼれて引きこもりになるのはコインの表と裏でおんなじだ。宿題など親がみるな。間違ったら先生に直されればいい。叱られるのになれなきゃだめなんだ。いやならそんな宿題やらなくといい!」しかし一昨日も、学校に漢字ノートを忘れたから宿題できないと泣く子供にわざわざ金だして新しいのを買ってきて女房はやらせる。私は子供には、チラシやカレンダーの裏に漢字を書いてだせばいいだろう、といったのだが、なんでこうもいい子ぶりになるのだ? 俺たちは、貧乏人だろ?


(2)くたばる貧乏人はどこまで迷惑をかけられるのか?……100ミリシーベルトでもだいじょうぶだ、安全かはわからないが、安心できる、と説く山下教授の話しをきくと、武士道とは死ぬここと見つけたり、などという「葉隠れ」の言葉を想起してしまう。かつては、知らぬが仏で放射能世界を生きれたかもしれないが、いまはそんなことを説教するのは、人々を聖人か仙人にでも見立てないと通じないだろう。かといって、科学的根拠など呈示できないのだから、不安をぬぐいさることは根底的にできず、その根底自体が新しく定義しなおされる次なる時代にまで待たないといけない、ということなのかもしれない。だから貧乏人にできることは、くたばる、ということだ。武士道、というと格好はいいが、実際には、端の人にだいぶ迷惑がかかるのである。高倉健やとらさんの映画世界では、その迷惑どころは割愛されている。震災前に、私は木から落ちて入院した。その残りの仕事を、団塊世代の職人さんが代わってやって、やりとげたあと腰痛で入院した。(もともとは、福祉老人介護をしていた娘の腰痛検査の付き添いで病院にいったさい、父親のほうが重症だと発見されてしまったのが端緒なのだが……) 私は退院し、仕事に復帰した。その職人さんは、なお通院し、また手術かもしれない。私には労災がおりたが、その先輩職人におりるかどうかはなおわからない。私には貯金があったが、その職人さんはみんな飲んでしまって一銭もない。高度成長とバブル経済と働いてきているので、金の使い道のない私なら、1億円ぐらい貯金できているかもしれない。が、職人さんは一銭もない。仕事柄、たまに公園で暮らす野宿者の近くで作業することがあったが、職人さんのその人たちをみる目つきは、「俺もやりたいな」、という感じに私にはみえた。はじめから、宵越しの銭はもたない、と職人気勢を示すことわざにもあるようの、そのときはくたばればいい、というのが前提(覚悟)にあるだろう。「ずっと働けるわけないんだから、歳とったっとき、どうする気だったんだい?」と親方はきいたらしいが、おそらく親方にもわかっていて、だから、法的な対処などに従えず、ホームレスにさせるわけにもいかないから、毎月の家賃や光熱費たぐいの生活経費ニ十万円相当を、立て替えて支払っているのである。くたばる、とはそういうことをはらみ、相互扶助とはそういうことを意味し……そんな社会をみてきている私には、いわゆる左翼な共同体論を、鵜呑みにして人間現実に適用してみるわけにはいかないのである。