「ともあれ、私たちは「外国人化」している、あるいは「女性化」しているという事態は、ずっと以前からそうだったんです。ただし、一〇年前、フリーター労組を準備していたころは、このことの意味の全体がまだよくわかっていなかったのかもしれない。…(略)…いまようやくそのことの肯定的な側面、積極的な意義が、見えてきたような気がします。私自身がそれを確信できたということです。/ 「三・一ニ」を考えるとき、私がある意味でとても解放的な気分になっているとすれば、それは、「日本人ではない者になる」ということの肯定的な力を感じているからだと思います。この力が、あの日私の背中を押して、被曝被害から護ってくれたのです。」(矢部史郎著『3・12の思想』 以文社)
「しかしこれはすでに私たち日本人の”自尊心”の問題なのだ。今後ふたたび私たちが、ずるずると原発への依存に戻るようなことになれば、私たちはもはや「日本人であること」を誇りに思うことはできなくなる。…(略)…要するに、核のトラウマが一国の防衛戦略を決定づけているわけで、自由主義的な立場からすればこれほど非合理的でセンチメンタルな判断もないだろう。しかし私は、これを矜持ある選択と考える。軍備の放棄と核の拒否こそは、「日本人としての私」を思うとき、そのプライドの中核をなすものだ。」(「斉藤環の東北」毎日新聞・夕刊2012.7.18)
一希が同級生をいじめているのを、たまたま早く帰宅したさいに目撃することになったので、最近のその話題にふれてみたいとおもう。
当初は、こう考えていた。団地に遊びにくる子供世界をみてみると、ドラエモン世界でのジャイアンのような、古典的なボスがいるわけではない。むしろ、いじめる側といじめられる側がころころ反転する。これは、たとえば、あるものがあるオモチャをもっていると、その子がボスになり、ちがうオモチャではまた違う子がえばりだし、「貸してあげない」と持たざるをものをいじめだす。たとえ流行のおもちゃがあるとしても、それぞれが面白いおもちゃをもっているので、ころころボスがかわる。つまり、なお中流的な階層社会とテクノロジーの進展状況が、不透明ないじめ世界を作っているのだろう。携帯やネット世界に子どもたちが参加してくれば、単一メディアから支配的な影響を受けるというあり方でもなくなるので、親が何を言ってもつうじなくなるエイリアンのような存在になるのかな、と。ただ大枠の流れは、1980年代に経済力を謳歌した日本体制化で発生した「校内暴力」、その封じ込め抑圧の結果としての「いじめ」への転換、潜伏化、という情勢はかわっていないのだろうな、と。が、実際に自分の子がいじめているのをみて、そんな認識ではすまなくなった。父親としてだからどうするのか、と実践を突きつけられるからである。私は学校の先生や教育委員会の者たちのように、見て見ぬ振りをしなかっただろうか? 私が、あれはいじめだったのだ、と気づいた、あるいは、考えなおしたのは、翌日になってからである。集団で下校した子どもたちから少し離れて、二人の男の子がいた。ひとりのその仕草から、私は彼がそれまでもうひとりの子の首根っこあたりをつかんでふりまわしていたのだろうと推論した。みな同じ学帽なので誰かはわからなかったが、私はある一希の友人にみえた。その数日前、保護者会の席上、クラスの足の悪い子がいじめにあっているという報告を受けたと女房がいい、それが誰かと一希に尋ねると、その友人の名前があがったのを耳にしていたので、そう先入観したのかもしれない。が、次の瞬間、その子が一希であるとわかったのである。そのときはもう、二人は仲良しのような振舞いにもどっていた。私は息子を目にしたうれしさに自転車の呼び鈴をならしたが、一希は気づかなかった。私は「いじめ」という連想のことなど忘れて、コンビニによった。そして団地のエレベーターに乗る際、二人にまたおいついたのだった。一希はその、運動より勉強ができそうで、大人しいが女の子にもてるという友達をエレベータにのせまいと通せんぼしていた。「パパがのれないよ」というと、さえぎる手をおろして中にいれ、こういうのだった。「きみは自殺しそうな人、だいじょうぶか!」額に粒汗をいくつもかいている彼は、いかにも苦しそうか、苦しそうなふりをしていた。「この暑さじゃな」と、私は、暑くて死にそう、というやりとりを二人はしたんだな、と思った。先の階でエレベータを降りる私は、その子の頭をなでて、息子と外にでた。
が翌日の仕事中、何をきっかけにかは忘れたが、ふとその時のこと、エレベータを降りるときのその子の目の表情を思い出し、あれは「いじめ」だったんだな、暑くてかいた汗じゃない、いじめられるのが嫌で冷や汗をかいていたんだ、いじめられているのが見つかったかもしれない恥ずかしさ、気後れと、気づいてくれとあきらめながらも訴えてくる葛藤をもった目だ。おそらく一希は、弱々しいが、バレンタインのチョコレートをクラスで一番もらうというその友達に、嫉妬のような気持ちを抱いているのだろう。そして私は、それが「いじめ」だと瞬時には認識しながら、ゆえに見たくないと否認の作業を無意識にも続けてきたのだ。今はっきりとわかった以上、このまま黙って見すごすのは学校側や教育委員会のものたちと同じになってしまう。しかし、どう息子に話かけたらいい?
……いじめ自体は、子どもの世界でも大人の世界でも、人の集まるところなら自然発生的に生じずる事象にすぎないだろう。しかしここでいう自然とは幼児、ということと同義になり、大人はその社会的意味、効果を前もって了解し、それでもやるぞと責任主体的な残酷さに自覚的だろう。だから問題なのは、そのまま大人、というより、中・高生になってしまうことにある。幼児のまま、面白おかしくすごしていいればいい、それが生きることの普通だ、という意識のままに、である。まがりなりにも、真剣という理念的切断線が生に介入している運動部のシメ、それに近いジャイアンのような古典的ボスの暴力とも違う。人間的に小さいままの、幼いままのふるまい。一希が、夕食まえ、小鳥のピータをつかまえていやがって鳴くにまかせている時をとらえて、「おまえきのう〇〇くんをいじめていただろう」ときりだす。「おまえは、自分がいじめていることを知っていて、だからいじめられるものは自殺するというニュースのまねをして、〇〇くんは自殺するんだ、といったんだろ?」一希は否定して、はぐらかすようにふざけはじめるが、どういえば実践的な説得力をもつのだろうか? 私は、一希が磔にされたイエスに興味をもって、ほんとうにこんな神さまいるの? と問うてくる力を信じて付け足す。「汝の欲せざるところを人にほどこすことなかれ。自分がいやがることを他のひとにやってはいけない、というのがイエスの教えだよ。自分がそうでないとおもっても、相手がいやがっているなら、それはいじめなんだよ。人間はピータ君じゃない。ほんとに死んじゃったら、どうする? いっちゃんは、牢屋にはいるんだからね。」……私は、自分が「リトル・ピープル」になったような気がした。いまはとにかくも、「いじめ」を認識した、という一事を、女房ともに、家庭内で共有してみるだけでよいだろう。問題がもう少し大きくなったとしたら、そのときは担任クラス側と共有していく手立てを試みればいいだろう。しかしその時でも、なんと力のない言葉であるだろう。父親的な権威がまるでない。いやあるのだが、やはり一希は女房をしかりとばす私をおそれて恐縮するのだが、説得的な力がない、というか、その論理が自分でも空々しい。イエスの力を借りるとは! だからその現実的な効能(牢屋)のことを付け足すのだが、私は、宮台氏の、「良いことはもうかる」という世俗論理が説得力をもつとはおもっていない。そんな言葉に説得される人間など信用できるのか? 自分の息子に、そんな人間になってほしくない。
が、父親権威的な論理力の幼児(母子)関係への介入・切断の希薄さ、その歴史的・時代情勢的言説の布置が、自然をのさばらせている、幼児のいじめのまま、中・高生へと、果ては大人になってからの幼児虐待への心情へとつながっているのではないか? ――そして、反原発運動の一面の潮流として、そのような自然ののざばり、ゆきすぎた自然を感じるのである。冒頭で引用した二つのもののうち、私の心情に近いのは斎藤氏のほうである。”恥じをしれ!” それが、厚顔無恥な総理官邸への私の抗議の言葉だ。そしてそういう日本人としての一面もが、官邸前でのデモにも集結していることを私は推論している。
2012年7月8日日曜日
「愚民」の在り方(3)――渡辺京二ノート
「異邦人たちが予感し、やがて全体的関連としての有機的生命、すなわち古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。…(略)…問題は個々の事象ではなく、それらの事象を関連させる意味の総体なのだ。そして文明とはそういう意味の総体的な枠組みを指す以上、たとえ超高層ビルの屋上に稲荷が続けられようとも、また茶の湯・生花の家元が不滅の生命を誇ろうとも、それらの事象はチェンバレンが「若き日本」と呼ぶ新たな文化複合、つまり新たな寄木細工の一部分として、現代文明的な意味関連のうちに存在せしめられているに過ぎない。文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧はいまも東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄木細工の表す図柄がまったく変化しているのだ。新たな図柄の一部分として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚だろう。…(略)…死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。」(『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』 葦書房)
「忠教がここで説いているのは「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という隷従的忠誠であるかに見えるし、彼自身、主人にそむけば七逆罪を負うて地獄に堕ちるとも言っている。しかしそれはそういう恐怖心に前近代人忠教がかられることもあったというだけのことで、彼の真意は、主人が主従間の相互敬愛という暗黙の合意を破り棄てていても、いや破り棄てているからこそ、従者たるわれらがその合意にあくまで忠実であることが、主人が不正、われらが正義という顕然たる事実を公示することになるのだというにあった。/ つまり、主人がいかに不当な仕打ちをしても、われら従者の義務を守るというのは、主人に対する強烈な面当てでありいや味であって、そういう主人であっても機嫌よく奉公するのが彼の誇りであり強情であった。主人が主人らしくしてくれないので、徳川家を去るというのでは話は帳消しである。主人の咎は従者の離反によって相殺されてしまう。…(略)…再び言う。にもかかわらず忠節を尽くせと言うのは、忠教の徳川家に対する奴隷的服従を示すのではなく、まさにその反対である主に対する自尊の気概のあらわれであった。この自尊の気概に屈折が秘められているのは否定できない。…(略)…しかし、そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」観念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。(『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和へ』 洋泉社)
「北が土俗的な思想家であったか、それとも土俗的なものを否定する近代的な思想家であったかという、論者の見解が従来まったく対立して来た問題についても、いまやわれわれは正確な断案をくだすことができる。彼はその思考の論理性において、疑いもなく土俗的なものを拒否する思想家であった。彼が天皇制共同体主義的な思考に生理的な不快を感じないではいられなかったこと、村落共同体の低部にひそむ伝統的心性に一度も関心をそそられなかったことなどを見ても、彼と土俗との関係はあきらかである。彼の社会主義とは、すでに見たように一面においては、個人のあらゆる可能性の無限の羽ばたきを求める近代主義的志向の表現であった。/ ところがいっぽう、社会主義とは彼にとって、<共同社会>主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもない土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基礎民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。」(『北一輝』 ちくま学芸文庫)
「この個の意味を、当時の思想家や批評家はほとんど誤読した。彼らはそれを近代的な主体意識をもった人民(あるいは市民)とか、知識人的な個我とかいったふうに読み、見当ちがいな批判をなげつけたのである。だがその後の吉本氏の思想の展開に照らしてみれば、このような独占社会に実存する個とは、政治行動のレヴェルに登場するときかならずその時の政治的イデオローグの虜囚とならずにはおかない法則的必然から生活大衆をどこで断ち切るかという、要の一点をおさえたときに生まれたイメージであって、このとき想定されていた個とは、知識的に上昇する自然過程のなかにあるような近代的な個我ではなく、逆に独占状況のなかで自己の生活の根拠へのみ突きかえされざるをえないような、もっとも基底的な生活民の存在のしかたを表象していたのである。そしてそれが個としてイメージされるのは、国家権力に対して真に倒立するのは、労働者階級とか農村部落民とかいった「共同幻想」的なレヴェルの集団ではなく、生活者としての個だけであるという、氏の特異な、そして今日の思想にとって本質的な意味を持つ理解にもとづいていたのである。…(略)…これは古典的な階級闘争論を転倒するまったく異端的な見解であって、労働者の闘争だから価値があり、小市民の闘争だから劣っているといった先験的な常識はここではまったく排除されている。つまりこのような見かたからすれば、労働者であれ農民であれ小市民学生であれ、階層としては等価であり、それらの闘争の優劣はただそれぞれの生活の根拠に立って現実にどのように自力で闘ってみせるかということにおいてしか判定されないということになる。ブントは自分の小市民学生的根拠において倒れるまで闘っているからいいのであり、自分自身を労働者階級を指導する前衛などと錯覚しないところが相対的に評価できるのだ、と吉本氏は考えたのである。そして、ブントが闘って力尽き革共同の古典的な批判に屈して分解をとげたとき、氏はその共闘を解除して単独者の位相にもどった。」(「六〇年安保と吉本隆明・谷川雁」 『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)
「チッソのいいぶんを成心なく検討してみれば、彼らは被害者に対して、「被害はお気の毒に思う。何とかしたいとも思う。しかし、被害者に対する企業の責任・補償ということになれば、資本制における利害観念と法体系によって処理しないわけにはいかない。したがって、補償は一種の商取引、交渉ごとである」といっているのであることがわかる。資本制社会において、当然の常識である。水俣漁民のこの世の人間的道理が対立している相手は、チッソ資本の悪逆ではなく、近代資本制社会を組織している論理そのものなのである。その論理からすれば、水俣漁民のこの世の人間的道理とは、近代市民社会の組織法則からとりのこされた封建的遺民の世迷い言にすぎない。/ 水俣漁民にとって、人間的道理は実在する。自分の息子がとなりの息子にけがを負わせれば、自分は何もかも打ち棄てて、とりあえず詫びと見舞いにかけつけねばならぬのである。日常の生活圏ではそうあるものが、話が経済とか社会とか政治とかいう上位構造に移れば、なぜそうでありえないのか。水俣病患者・家族は、その理由を絶対に理解することはできない。近代市民社会が、その制度のなかに生活民、ことに下層民を統合しえなかったという歴史的事実が、ここに横たわっている。その非力を補って生活民を統合したのは、天皇制である。そして、生活民が近代市民社会の論理によっては統合されず、天皇制によってはじめて国家に統合されたという事実は、これまで戦後民主主義のイデオローグたちの嘆きと軽蔑の的となってきた。水俣病患者・家族の人間的道理とは、彼らにとっては痛烈な皮肉でなければならないが、まさに近代市民社会の論理によって統合されない「前近代的」生活意識の表現であった。それは言葉をかえれば、村共同体の論理と心情といってよい。そこでは共同体の利益は相互扶助によって維持され、共同体に災いをもたらしたものは罰せられ、追放される。チッソは当然罰せられ、災いは償われるべきである。患者はこの村共同体権利の回復を、公権力たる裁判所に求めたともいえる。もちろん、裁判所がチッソをさばくのは、そういう論理によってではない。患者は裁判のそもそもの第一回から、自分たちの欲求がけっして裁判によっては表現されぬことを直観した。裁判は彼らの仮装形態にすぎない。真の欲望の表現形態を求めて、にじり寄る一歩にすぎない。…(略)…この世の常ならぬ苦しみをうけた彼らは、どこへ向って血路を開けばよいのか。「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。この有名な言葉は結局は言葉である。怨といい、呪殺といい、何かおどろおどろしい地獄絵的な様相で、患者の欲求を描きあげようというのは、その当人の好みではあっても、真実には遠い。前掲の言葉は、ひくにひけぬ断崖に追いつめられた下層民の腹のすわりを示したものである。孤立の中で放った「勝負!」のひと声である。そう読むべきである。良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることを言い切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。/ 村共同体は、患者を出した家をきびしく差別した。相互扶助の生活規範は、患者の家には適用されなかったのである。村共同体の本質は、このとき、患者には明らかになったといっていい。人間的道理といい、ふつうの人間のつきあいといい、きわめて容易に解体される性質のものであった。人間が人間に対して狼にならない世界は、単なる村共同体の倫理によって、保証することはできない。彼らが裁判において表現したかった欲求は、村共同体の倫理に基底をおきながらも、結局はそれらを止揚する方向に向わざるをえない。彼らの欲求は、ひとつの仮装からもうひとつの仮装へと試行を続けつつ、真の表現を求め続けているのだ。」(「現実と幻のはざまで」『民主という幻像』所収 ちくま学芸文庫)
「西欧的理解における政治が、貴族の民主主義的伝統にもとづく、利害の調整の体系だとするならば、東洋的理解における政治は、郷村の共同体的伝統にもとづく、夢と欲望の体系と規定できる。それゆえに、東洋では、政治は徒党の非行という性格を帯びるのだともいえる。…(略)…郷村的日常において、人びとは義務と慣行に縛られ、家主となり子を生み、老いて死んで行く。徒党の情念的共同とか夢とかは、若衆組の時期に仮に許される道楽にすぎない。その道楽に固執するものは、政治あるいは宗教として、日常に縁のない上層へ疎外される。しかし、郷村的日常で生を終える人びとに、情念的共同の夢がないのではない。道楽としての夢想的共同への指向を生み落したのは、ほかならぬ郷村の生活原理としての日常的共同なのだから。彼らは日常を破壊する夢想を、政治として日常の圏内から逐いやる。だが、逐いやられたものは、彼の魂の亡霊である。専制政治の織りなす諸事件を、一遍の劇のごとくに娯しみ喝采するのは彼らである。だからこそ、郷村は専制権力の鏡なのだ。/ 西欧的近代は、郷村の共同を分断してマスとしての個の世界をつくりだした。情念的共同を求める衝迫の根拠をとりはらった。政治は徒党の非行ではなく、個別利害の集合を管理する技術となった。だが、その世界でも、人びとは日常の理法に縛られ、親となり、老いて死んで行く。そのなかで感情の飢えは、ことに人と人とをつなぐ感情の飢えは、声もあげずにどこへ消え去るのか。/ 在る生きかたの夢、人間の或るありかたの夢を全社会的に拡張しようとする集団は、いかなる思想や倫理を掲げようとも徒党である。私は彼らの行動を非行としての政治と要約した。ひとが言葉と感情の通じる相手を見いだしたとき、それが徒党の始まりであるのはかなしいことだ。徒党から非行としての政治への回路はどこで絶たるべきなのか。ピョートルの事績はそう、われわれに問うているように見える。」(「非行としての政治」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)
「学問には方法が必要だろう。だが私には、方法など何の必要もなかったのである。私にはただ解かねばならぬ課題があり、それに経験が強いた志向をもって立ち向っただけだった。私は昭和維新の雰囲気のうちに育った少年であり、中学三年のとき異郷大連で敗戦を迎え、引揚げ後昭和二十三年には共産党に入った。十七歳であった。昭和三十一年、党から離れたとき私は、昭和初期のユートピズムが戦後革命の衝迫に変形された「物語」の意味を、自分なりに読み解かねばならず、その読解の方向を見出す手がかりをはっきり自覚するには、なお十年の月日を要した。/ その方向とは要するに、従来蒙昧ないし狂乱の発作とみなされてきた大衆の右翼的情念を、究極的な共同性の夢ににじりよる革命的衝迫として読みとこうとするものだった。ただし、私はそれを単純に肯定したのではない。私の視線はアンビヴァレントですらあった。にもかかわらず、私は魅入られるようにその主題に関わらずにはおれなかった。前途の私の思想史的な仕事は、いささかも”研究”の意味を吹くむものではなく、自分が生きのびるための思想的根拠を、文章の形で探りかつ確かめようとしたものにほかならない。/ その種の私の文章はすべて二十年前の所産である。そしてこの二十年のうちに、私たちをとり巻く社会と思想の文脈は根本的に変質した。情念的な大衆など、どこへ行けばお目にかかれるというのか。共同性への夢がカラオケとオウムに化けたなどと言っても、しゃれにもならない。/ 私はそういう時代の崩壊のかたちを予感していた気がする。その予感にせかれて、ある種の共同性の幻を追わずにおれなかったこの国の民の悲しい衝迫を、書きとどめておきたかったのかもしれない。だが、この国の民は滅びた。民などもはやこの国にはいない。」(「日本近代思想史と私」『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)
「忠教がここで説いているのは「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という隷従的忠誠であるかに見えるし、彼自身、主人にそむけば七逆罪を負うて地獄に堕ちるとも言っている。しかしそれはそういう恐怖心に前近代人忠教がかられることもあったというだけのことで、彼の真意は、主人が主従間の相互敬愛という暗黙の合意を破り棄てていても、いや破り棄てているからこそ、従者たるわれらがその合意にあくまで忠実であることが、主人が不正、われらが正義という顕然たる事実を公示することになるのだというにあった。/ つまり、主人がいかに不当な仕打ちをしても、われら従者の義務を守るというのは、主人に対する強烈な面当てでありいや味であって、そういう主人であっても機嫌よく奉公するのが彼の誇りであり強情であった。主人が主人らしくしてくれないので、徳川家を去るというのでは話は帳消しである。主人の咎は従者の離反によって相殺されてしまう。…(略)…再び言う。にもかかわらず忠節を尽くせと言うのは、忠教の徳川家に対する奴隷的服従を示すのではなく、まさにその反対である主に対する自尊の気概のあらわれであった。この自尊の気概に屈折が秘められているのは否定できない。…(略)…しかし、そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」観念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。(『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和へ』 洋泉社)
「北が土俗的な思想家であったか、それとも土俗的なものを否定する近代的な思想家であったかという、論者の見解が従来まったく対立して来た問題についても、いまやわれわれは正確な断案をくだすことができる。彼はその思考の論理性において、疑いもなく土俗的なものを拒否する思想家であった。彼が天皇制共同体主義的な思考に生理的な不快を感じないではいられなかったこと、村落共同体の低部にひそむ伝統的心性に一度も関心をそそられなかったことなどを見ても、彼と土俗との関係はあきらかである。彼の社会主義とは、すでに見たように一面においては、個人のあらゆる可能性の無限の羽ばたきを求める近代主義的志向の表現であった。/ ところがいっぽう、社会主義とは彼にとって、<共同社会>主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもない土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基礎民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。」(『北一輝』 ちくま学芸文庫)
「この個の意味を、当時の思想家や批評家はほとんど誤読した。彼らはそれを近代的な主体意識をもった人民(あるいは市民)とか、知識人的な個我とかいったふうに読み、見当ちがいな批判をなげつけたのである。だがその後の吉本氏の思想の展開に照らしてみれば、このような独占社会に実存する個とは、政治行動のレヴェルに登場するときかならずその時の政治的イデオローグの虜囚とならずにはおかない法則的必然から生活大衆をどこで断ち切るかという、要の一点をおさえたときに生まれたイメージであって、このとき想定されていた個とは、知識的に上昇する自然過程のなかにあるような近代的な個我ではなく、逆に独占状況のなかで自己の生活の根拠へのみ突きかえされざるをえないような、もっとも基底的な生活民の存在のしかたを表象していたのである。そしてそれが個としてイメージされるのは、国家権力に対して真に倒立するのは、労働者階級とか農村部落民とかいった「共同幻想」的なレヴェルの集団ではなく、生活者としての個だけであるという、氏の特異な、そして今日の思想にとって本質的な意味を持つ理解にもとづいていたのである。…(略)…これは古典的な階級闘争論を転倒するまったく異端的な見解であって、労働者の闘争だから価値があり、小市民の闘争だから劣っているといった先験的な常識はここではまったく排除されている。つまりこのような見かたからすれば、労働者であれ農民であれ小市民学生であれ、階層としては等価であり、それらの闘争の優劣はただそれぞれの生活の根拠に立って現実にどのように自力で闘ってみせるかということにおいてしか判定されないということになる。ブントは自分の小市民学生的根拠において倒れるまで闘っているからいいのであり、自分自身を労働者階級を指導する前衛などと錯覚しないところが相対的に評価できるのだ、と吉本氏は考えたのである。そして、ブントが闘って力尽き革共同の古典的な批判に屈して分解をとげたとき、氏はその共闘を解除して単独者の位相にもどった。」(「六〇年安保と吉本隆明・谷川雁」 『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)
「チッソのいいぶんを成心なく検討してみれば、彼らは被害者に対して、「被害はお気の毒に思う。何とかしたいとも思う。しかし、被害者に対する企業の責任・補償ということになれば、資本制における利害観念と法体系によって処理しないわけにはいかない。したがって、補償は一種の商取引、交渉ごとである」といっているのであることがわかる。資本制社会において、当然の常識である。水俣漁民のこの世の人間的道理が対立している相手は、チッソ資本の悪逆ではなく、近代資本制社会を組織している論理そのものなのである。その論理からすれば、水俣漁民のこの世の人間的道理とは、近代市民社会の組織法則からとりのこされた封建的遺民の世迷い言にすぎない。/ 水俣漁民にとって、人間的道理は実在する。自分の息子がとなりの息子にけがを負わせれば、自分は何もかも打ち棄てて、とりあえず詫びと見舞いにかけつけねばならぬのである。日常の生活圏ではそうあるものが、話が経済とか社会とか政治とかいう上位構造に移れば、なぜそうでありえないのか。水俣病患者・家族は、その理由を絶対に理解することはできない。近代市民社会が、その制度のなかに生活民、ことに下層民を統合しえなかったという歴史的事実が、ここに横たわっている。その非力を補って生活民を統合したのは、天皇制である。そして、生活民が近代市民社会の論理によっては統合されず、天皇制によってはじめて国家に統合されたという事実は、これまで戦後民主主義のイデオローグたちの嘆きと軽蔑の的となってきた。水俣病患者・家族の人間的道理とは、彼らにとっては痛烈な皮肉でなければならないが、まさに近代市民社会の論理によって統合されない「前近代的」生活意識の表現であった。それは言葉をかえれば、村共同体の論理と心情といってよい。そこでは共同体の利益は相互扶助によって維持され、共同体に災いをもたらしたものは罰せられ、追放される。チッソは当然罰せられ、災いは償われるべきである。患者はこの村共同体権利の回復を、公権力たる裁判所に求めたともいえる。もちろん、裁判所がチッソをさばくのは、そういう論理によってではない。患者は裁判のそもそもの第一回から、自分たちの欲求がけっして裁判によっては表現されぬことを直観した。裁判は彼らの仮装形態にすぎない。真の欲望の表現形態を求めて、にじり寄る一歩にすぎない。…(略)…この世の常ならぬ苦しみをうけた彼らは、どこへ向って血路を開けばよいのか。「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。この有名な言葉は結局は言葉である。怨といい、呪殺といい、何かおどろおどろしい地獄絵的な様相で、患者の欲求を描きあげようというのは、その当人の好みではあっても、真実には遠い。前掲の言葉は、ひくにひけぬ断崖に追いつめられた下層民の腹のすわりを示したものである。孤立の中で放った「勝負!」のひと声である。そう読むべきである。良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることを言い切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。/ 村共同体は、患者を出した家をきびしく差別した。相互扶助の生活規範は、患者の家には適用されなかったのである。村共同体の本質は、このとき、患者には明らかになったといっていい。人間的道理といい、ふつうの人間のつきあいといい、きわめて容易に解体される性質のものであった。人間が人間に対して狼にならない世界は、単なる村共同体の倫理によって、保証することはできない。彼らが裁判において表現したかった欲求は、村共同体の倫理に基底をおきながらも、結局はそれらを止揚する方向に向わざるをえない。彼らの欲求は、ひとつの仮装からもうひとつの仮装へと試行を続けつつ、真の表現を求め続けているのだ。」(「現実と幻のはざまで」『民主という幻像』所収 ちくま学芸文庫)
「西欧的理解における政治が、貴族の民主主義的伝統にもとづく、利害の調整の体系だとするならば、東洋的理解における政治は、郷村の共同体的伝統にもとづく、夢と欲望の体系と規定できる。それゆえに、東洋では、政治は徒党の非行という性格を帯びるのだともいえる。…(略)…郷村的日常において、人びとは義務と慣行に縛られ、家主となり子を生み、老いて死んで行く。徒党の情念的共同とか夢とかは、若衆組の時期に仮に許される道楽にすぎない。その道楽に固執するものは、政治あるいは宗教として、日常に縁のない上層へ疎外される。しかし、郷村的日常で生を終える人びとに、情念的共同の夢がないのではない。道楽としての夢想的共同への指向を生み落したのは、ほかならぬ郷村の生活原理としての日常的共同なのだから。彼らは日常を破壊する夢想を、政治として日常の圏内から逐いやる。だが、逐いやられたものは、彼の魂の亡霊である。専制政治の織りなす諸事件を、一遍の劇のごとくに娯しみ喝采するのは彼らである。だからこそ、郷村は専制権力の鏡なのだ。/ 西欧的近代は、郷村の共同を分断してマスとしての個の世界をつくりだした。情念的共同を求める衝迫の根拠をとりはらった。政治は徒党の非行ではなく、個別利害の集合を管理する技術となった。だが、その世界でも、人びとは日常の理法に縛られ、親となり、老いて死んで行く。そのなかで感情の飢えは、ことに人と人とをつなぐ感情の飢えは、声もあげずにどこへ消え去るのか。/ 在る生きかたの夢、人間の或るありかたの夢を全社会的に拡張しようとする集団は、いかなる思想や倫理を掲げようとも徒党である。私は彼らの行動を非行としての政治と要約した。ひとが言葉と感情の通じる相手を見いだしたとき、それが徒党の始まりであるのはかなしいことだ。徒党から非行としての政治への回路はどこで絶たるべきなのか。ピョートルの事績はそう、われわれに問うているように見える。」(「非行としての政治」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)
「学問には方法が必要だろう。だが私には、方法など何の必要もなかったのである。私にはただ解かねばならぬ課題があり、それに経験が強いた志向をもって立ち向っただけだった。私は昭和維新の雰囲気のうちに育った少年であり、中学三年のとき異郷大連で敗戦を迎え、引揚げ後昭和二十三年には共産党に入った。十七歳であった。昭和三十一年、党から離れたとき私は、昭和初期のユートピズムが戦後革命の衝迫に変形された「物語」の意味を、自分なりに読み解かねばならず、その読解の方向を見出す手がかりをはっきり自覚するには、なお十年の月日を要した。/ その方向とは要するに、従来蒙昧ないし狂乱の発作とみなされてきた大衆の右翼的情念を、究極的な共同性の夢ににじりよる革命的衝迫として読みとこうとするものだった。ただし、私はそれを単純に肯定したのではない。私の視線はアンビヴァレントですらあった。にもかかわらず、私は魅入られるようにその主題に関わらずにはおれなかった。前途の私の思想史的な仕事は、いささかも”研究”の意味を吹くむものではなく、自分が生きのびるための思想的根拠を、文章の形で探りかつ確かめようとしたものにほかならない。/ その種の私の文章はすべて二十年前の所産である。そしてこの二十年のうちに、私たちをとり巻く社会と思想の文脈は根本的に変質した。情念的な大衆など、どこへ行けばお目にかかれるというのか。共同性への夢がカラオケとオウムに化けたなどと言っても、しゃれにもならない。/ 私はそういう時代の崩壊のかたちを予感していた気がする。その予感にせかれて、ある種の共同性の幻を追わずにおれなかったこの国の民の悲しい衝迫を、書きとどめておきたかったのかもしれない。だが、この国の民は滅びた。民などもはやこの国にはいない。」(「日本近代思想史と私」『民衆という幻像』所収 ちくま学芸文庫)
ユーロ・サッカーから――世界とコーチング
おしゃべりが多いと、その日のサッカーの練習を中止された一希たち。若いコーチが一人にディヘエンスのやり方を教えている間、ボールに腰掛けた一希が仲間と気ままに話しはじめたのをみて、中年コーチが切れたのだった。それは個人的に突発的な怒りであっても、人間的な倫理から発したものだったろう。しかしそこであそこまで怒鳴り散らすのには、まだ理解できない子どもたちなのだった。コーチも説教をしながら、あまりにきょとんと無邪気な表情を目の当たりにしてそのことに気づく。おそらく、まだ親が死んでもその葬式でふざけていられる年齢なのだ。自転車に乗っていても、交差点を右左もみずにすーっと走っていく。死が恐いという社会的観念が希薄なので、<真剣>にやれといっても、自分の態度になお区別が生じていないのだ。3年生も終わりごろになれば、自然成長的に解消されるだろう。だから私は特別に問題ではない、とおもっていた。しかし母親たちがそうはいかない。この一事を伝え聞いて、メールで話し合い、「しめてください」と過剰な反応をしめしはじめる。コーチ会のほうでも、父兄の話をないがしろにするわけにもいかないので、「ふざけは怪我のもとだから」と話をずらしてかわす対応をしたようだ。しかし若いヘッドコーチがまたなにかのさいに、40分間の説教をしたときくと、「この暑い時期に給水もさせずにそんな長時間も」という異議が父兄会の部長から申し出される。「そんな話は通用しないからほっとけ」と私がいっても、部長の異議自体に批判的な女房はなおごちゃごちゃやりたがる。意見内容がちがっても、ヒステリックに騒ぐこと自体が問題をこじらせるのだ。20年やっているクラブ組織にとって、こんなことぐらいは経験ずみなはずだ。若いコーチも、10年子どもたちをみてきているのだから。しかし、原発事故後の世評をみてみても、そんな真っ当な意見は神経質な声に掻き消される。女たちの場当たり的な反応を、世論やメディアが後押ししているような状況なので、彼女たちは強気なのだ。大塚英志氏は特に放射能におびえたこの母親たちの対応を「ファシズム」の発生と類比的に捉えているが(『愚民社会』)、そういう徴候もあろうかとおもう。
ユーロ・サッカーをみていて、イタリア代表のストライカー、バロッテリについて、「成長中」という解説がなされるのが気になった。それはサッカーの経験知とかいうことではなく、試合中に人の悪口をいわないとか、喧嘩しないとか、裸にならないとか、そういった話なのだった。おそらく我々日本人としては、二十一歳にもなる男にまだそんな「成長」が許容されていることに驚くというより、あきれてしまだろう。ならば、日本でならどうなるのか? おそらく、そんなサッカー選手は追い出されてフィールド上にはいないだろう。ならば、笑われているのは、我々のほうなのではないだろうか? 彼は、移民の子だ。その家庭内は、荒れていたかもしれない。そういうところで育った子どもは、容易には精神的に安定しないだろう。大人になるには、それだけの時間差があるのだ。それを受け入れること。サッカーに参加するとは、そうした世界の多様性、内に発生する他なる現実との共存の意志と理念をもつ、ということではないだろうか。よく日本の理想とするサッカーとして、正々堂々とフェアに美しく戦うことだというふうなモデルが呈示されたりするが、その純粋道徳とが、ひとりよがりな暴力に反転すること、したということは、世界史の中での日本国家自体が証明してしまったことではないだろうか? フィジカルが強い、当たりが強いこと、そのほかの文化圏では当たり前なサッカーが卑怯なのではなくて、その在り方自体が多様な世界を、他者の存在を許容している対応であり、共存の平和性を担保・実証しているものなのではないか?
「しめて、ほんとうにおとなしくなったら、終わりですよ。」と、一希たちが怒られた次の週にあった試合前、ベンチ監督と話し合う。かといって、そのコーチは子どもたちに優しくすればいいというのではない。むしろ逆で、厳しく突き放せ、といっているのである。「だいじょうぶです。子どもたちは、わかりますよ。ついてきますよ。」と、新宿の選抜チームに何人もの選手を送りだしているクラブの監督は保証する。試合での選手起用をみていても、騒いでいるような子でも、積極的な子、能力を示す子を活用する。覇気のない子、訴えてこない子はベンチのままだ。おかげで、一希は全試合ワントップをはらしてもらっているのだが、4年生相手に、当初は体を当てられて可愛そうなくらいくるくるとまわされて倒されていた。私がベンチコーチだったら、もっと皆平等に近い形での選手起用になり、覇気のない子でもなんとか励ましてモチベーションを高めてやって、とかおもうのだが。それが、甘いということなのだろう。実際、私は中学部活動の野球で、そんなエリート主義的な伝統を変革したことがある。気質的に、結果よりも過程を重視する性向があり、弱いもの、いま在るものでどう強者をいびっていくかの創意工夫のほうがおもしろい。どこか美学的な態度の方が好きなのだろう。楠正成をはやす判官びいきな日本的感性?
一希はとにかく、数少ないチャンスのなかで、1点はとってくる。フォワードしかできないような性格だ。私ではなく、女房似なのだろう。今日も練習を放り出して、女房と雨のなか虫取り講習にいっている。気まぐれ、気分や、というのは、子どもだからというより性格だろう。私はいちおうコーチなので、自分の子どもがいなくても、練習にいくのだが。これは、「やりたくなければやめろ!」と突き放しているのだか、成長の遅れを許容しているのだか。あちこちのイベントに子どもを連れ出しては自分が楽しんでいる女房は、それでも「選抜チーム」に入らなければいかん、と口をとがらせている。そんな都合のいい話が通用するわけがない。技術や仕事をなめてるんじゃないか! と怒鳴りたくなる。一人での練習ができず、仲間と騒いでいないと退屈してやりすごせないものに、専門的な技術が身に付くわけもないだろう。アスリート向きじゃないな、と私はおもっている。だから、サッカー以外の興味も失わないよう許しているのだ。しかし、真剣に、一生懸命やったあとの水はおいしい。このありふれた、うまみもない退屈な日常にこそ「喜び」があるということを知らなければ、どんな商品物資や物語にも充足できず、本当の世界で世界終末(ハルマゲドン)を実現させて精神の満足を試みたバブル期の新興宗教が繰り返されてしまう事態になるだろう。裸足でボロキレを蹴飛ばしているアフリカをはじめ他の世界の子どもたちは、ボールひとつのプレゼントで喜ぶだろう。一希はそのことを理解できるだろうか? 喜びを知っているだろうか? 自己満足ではない、他者と共存しているという喜びである。それは真剣に、一生懸命に渡り合えてこそ見出し得るささいな日常の世界に在るのだ。