「第一に、日清戦争のころの中国は、もともと大国である上に、アヘン戦争以後の軍近代化を経て、日本には大変な脅威でした。つぎに、日清戦争の直接の原因は、朝鮮王朝における、日本側に立って開国しよとする派と、清朝側にたって鎖国を維持する派の対立です。つぎに、台湾は、日清戦争のあと、清朝が賠償として日本に与えたものです。それらに加えて、この時期、ハワイ王国を滅ぼし、太平洋を越えて東アジアに登場した米国を見落としてはなりません。米国は日本と手を結んでいました。たとえば、日露戦争後には、日本が朝鮮を領有し米国がフィリピンを領有するという秘密協定がなされたのです。/ 以上の点で、現在の東アジアの地政学構造が反復的であることは明らかです。われわれは今、東アジアにおいて、日清戦争の前夜に近い状況にあります。日本では、中国、北朝鮮、韓国との対立を煽り立てるメディアの風潮が強いですが、現在の状況が明治二〇年代に類似することを知っておくべきです。それは、日米が対立し、中国が植民地化され分裂していた第二次大戦前の状況とはまるで違います。…」(柄谷行人著「秋幸または幸徳秋水」『文学界』10月号)
今回の尖閣諸島をめぐるニュースをみていて、以前の前原外相時、中国の漁船長を逮捕したときの様子とはちょっと違うな、このまま紛争・戦争になってしまうのかな、と心配になってきたのは少数者ではないだろう。一般メディアをみていると、つけあがらせるなやっちまえ、というような風潮だが、私には、大多数の本心は、戦争だけはやめてくれよ、なのではないかと想像する。千隻の漁船団や反日デモを統制できている中国政府らしいが、すぐさま首席が中国発の空母の除幕式だかに登壇したり、正常化40周年式典のキャンセルの陰で招待していた政治家や財界人を成田空港で待機させていたのは「天津上空での軍事演習」のためと説明してきている等の記事(毎日・9/27・夕)をみていると、俺たちがやるとしたら素人集団をだしにしてではなく、戦闘機を使ってやるぞ、とメッセージを伝えてきているのかとも勘ぐってしまう。他の人はどう考えているのかな、とネットで閲覧してみた。
おおまかには、これまでの慣習をやぶってしかけたのは日本の方からだ、ということになるようだ。前原外相のときもそうだったが、アメリカに陰でそそのかされて強気になり、「粛々と」相手の手の内で踊らされている。田中宇氏や、植草一秀氏がそういう前提だ。田中氏によれば、国境近辺の領土帰属の件を敢えて曖昧にしておくことで、事あるごとにそこで問題を起こし介入する・調停する、そのことで権益保持を図っておく、というのは国際協定上よくあるしかけで、アメリカとの同盟にそういう仕掛けがすでに内臓されていたのだとなる。佐藤優氏の外交文書調査によると、「中国漁船を取り締まることができない」日中の協定もあるという(毎日・9/26・朝)。9/25日の毎日・朝刊では、台湾の漁業組合理事長が、接続水域での操業支障はないという台日協議(口約束)を日本は破って追い出しわれわれはだまされた、と訴えている。……
しかし、そうした政治状況を発生させている世界史的構造が反復されているのだと説くのが、冒頭引用の柄谷氏の認識である。その認識自体は最近になって主張されはじめたわけではないが、8月始めの中上健次氏をめぐる講演での上の再説は事前的にタイムリーになっているのでびっくりする。その文章をふまえて、文芸評論家として柄谷氏から認めれデビューした山崎行太郎氏は、ゆえに(構造的に)、戦争は不可避なのだから、日本は核武装も辞さず戦争の準備をし、そのことで戦争を回避するよう意志をもつべきだ、と発言している((9/19のブログ等)。私は、日本が核を、つまりはウラン燃料の原子力発電所をそのまま所持しつづけるのならば、現今のイランのようにあらぬ疑いをかけられて国際社会から孤立してしまう道にはいるのではないか、という田中宇氏の意見に傾くが、不可避な戦争に準備せよ、という山崎氏の態度には賛成である。その準備がないと、その発生を最小限にとどめえない。まさかまた「想定外」でした、などという、「安全神話」ならぬ「平和神話」に安住しないために。もはや、私たちにはそんな態度は許されないのではないだろうか?
では、どうするというのだ? そういう具体的な点で、副島氏は自分の対策を呈示している(重たい掲示板N.1089・ 9/19)。実際の政治でそこまで相手にゆずる、というのは難しそうだが、戦争を回避するとはこういうことだ、という見通しを素人目にもわかるようみせてくれている。
柄谷氏は、先の講演で、――<一般に、戦争状態において、国家は革命運動に対して過敏になります。実際、日本軍がロシアに革命を起こるのを期待し、そのために革命運動を支援する工作をしたことは有名です。しかし、それは、逆にいえば、日本のなかで革命運動が起こるのを極度に恐れることになる。たとえば、幸徳秋水のように戦争中に非戦論を唱えるようなことは、危険な利敵行為になるわけです。>と述べている。柄谷氏は、かつて、すでに都知事であった石原慎太郎氏との対談で、自衛権は憲法(9条)を超えた国際法的な自然権なのだ、と発言していた。それに「そうだ」と相槌をうっていた石原氏の方策で火に油を注がれた今回の国境問題……私たちが、戦後の「平和神話」をこえてゆくような行動を組み立てられるだろうか?
2012年9月30日日曜日
2012年9月16日日曜日
一緒くたの最中から
「教育の基本は民族教育にあり。/ この原則を徹底させているのが、アメリカである。/ そもそもアメリカは移民の国家である。そこに暮らす人たちのルーツも違えば、肌の色も違う。さらに自由競争を国是としているから、貧富の差はあまりにも大きい。ビル・ゲイツのような超大金持ちもいれば、日本人の感覚からすれば、信じられないようなあばら屋や壊れかけたトレーラー・ハウス(車輪付きの移動住宅)に暮らしている人もいる。/そのような国家において、民族教育を怠ればどうなるか。/ 言うまでもない。アメリカ合衆国はたちまちに解体してしまうであろう。…(略)…したがって、アメリカの学校では徹底的に民族教育を施す。/ ことに初等教育においては、この大目的がすべてに優先する。/ アメリカの大学の教科名を見て、日本人が仰天するのは大学に英語の初級コースがあるということ。大学に入っても英語、つまり母国語がきちんと読み書きできないなんて!…(略)…まあ、最近では学力低下で日本でもそういう状況になりつつあるが、アメリカは昔からこれが当たり前。/ なぜ、こんなことが起きるのか。/ その最大の理由は、学校教育が「アメリカ人になること」を最優先にしているからである。この目的を達成するためには、読み書きソロバンなんてできなくなっても大したことじゃない。そう確信しているから平気の平左なのだ。/ では、いったい小学校時代に何を教えているのか。/ まずアメリカの小学校で優先されるのは、他人とのコミュニケーションのトレーニングである。自分と違った意見を持った人たちを理解し、自分の意見を相手に伝える。そのためのコミュニケート能力や討論能力を養う。/ これは、もちろんアメリカという国が異文化、異民族の寄せ集め国家であるからに他ならない。/ このような社会においては、他人を理解し、自分を理解してもらう努力をしなければ、国そのものが成り立ち得ない。また個人においても、この努力がなければ、一人前のアメリカ人になり得ない。社会に適合できない。」(小室直樹著『日本国憲法の問題点』 集英社インターナショナル)
結局、仕事も暇で長い夏休みだったにもかかわらず、旅行などそれらしい過ごしかたもしなかったので、三連休になる昨夜、Jリーグは横浜マリノスvs浦和レッズを日産スタジアムまでみにいってきた。その日中、宿題の漢字ドリルを息子がやるさい、女房と息子とのヒステリー・バトルがはじまる。漢字の書き順や線が出るのでないのと、まさに蹴りあい叩きあい押しくりあいをした怒鳴りあい合戦になる。宿題をおえてやってきた近所の子が、そのやりとりにちょっかいをだす。子どもの宿題など一人でやらせとけばそのうち集中ということを覚えて学習していくだろうに、目先の監視で人間を小さくさせていったら本末転倒だろう、と思うのだが、もうこっちは女房に懲りて、一希の反発・言い返し能力の訓練だとおもいなおしている。があまりにうるさいので、「静にしろ!」と、同じ食卓の端の席に座って本を読みながら、こちらも参入するはめになる。そしてそのまま午前がすぎて昼食時になると、冷やし中華をみて、「こんなの食べない。ごちそさま!」と麺の上のキュウリをちょいとつまんで一希はふてくされる。「食べるものがあるだけいんだよ。食べないと、サッカー見にいけないよ。」と、漢字の書き順よりこっちのほうがよっぽど重要な教育だろ、と思いながらも、飯を食わない食べ残すというわがままだけには子どもを許さずぶんなぐった、という大工の親方の言葉を振り返り、自分はそこまで自信を持って言えないな、ほんとにうまくないしな、と口を濁らした物言いになる。が、一希は「こんちきしょう」とばかりに食いついて食べ始める。それだけ試合を見て見たい、ということかもしれず、また、まわりの子どもたちやその親から一目は置かれるようになってきたサッカー・コーチの発言であるからかもしれない。……「サッカーの経験あるなしは関係ないんですよ。はっきりしてないと、子どもが不安になるんですね。あなたはやったほうがいいですよ。」と、社会人チームでもサッカーを続けている父兄コーチからそう言われている。夏休みのバーベキュー大会でも、べつに教えているわけでもない上級生の親からも、「うちの子はスズキ・コーチを崇拝しているんですよ」とか、下級生の親からも、「いいコーチにめぐりあえてよかった」とかも声をかけられる。たしかに、一希世代の3年生は結果がではじめている。がそれよりも、練習や普段では穏やかな私の、試合中でのエキサインティングな采配、ミーティングでの子どもを説得していく言葉を聞いてそう言うのだろう。だが私の内心は、これは私の教養というよりも、まだ父親と一対一で野球をやっていた自身の子供の頃の習性がでてしまっている傾向が強く、もっと違うようになりたい、と思うのだった。ならば、どんなふうに? 何をめざして?
浦和レッズの応援は面白い。通念イメージ的には滅茶苦茶だ。日の丸とチェ・ゲバラが同列に掲げられている。どちらも”赤”だからか? 旧海軍だかの朝日の出イメージの旗もある、ナチスをイメージさせる横断幕もある。が確か、アメリカのイラク侵攻には反対だと、率先して政治声明をだしたこともあったような。……
しかし私が、日の丸とゲバラの一緒くたに連想したのは、反原発デモと領土問題で喚起されてきつつあるナショナリズムとの一体化だ。最初は辺境の領土問題になど、原発反対者は無関心で結合などありえないのではないのかな、と思ったのだが、通う床屋の奥さんが、一緒くたに反発しているので、これはありえることなのか、と思いなおした。サヨク運動家に近いものたちは、その二つの区別を、教条主義的に、記号的に理解するだろうが、「反」なのか「脱」なのかのためにデモをしているフツーの人たちには、デモ(ゲバラ)と領土(日の丸)が同居することに、なんら葛藤を覚えない、知らないのかもしれない。ならば、やはりスガ氏が指摘しているような、ナショナリズムな、排他的な平和運動という、戦後サヨクの潮流(習性)の繰り返し、という傾向が強くなる、ということだろうか?
日本政府は、「2030年代」での原発ゼロの方針を示したという。といことは、40年まで、ということでもあり、さらに、野田総理は、未来のことは確定的に言えないのだから明確には言わない含みをもたして、と断り書きを述べている。しかし今、問題として突きつけられているのは、未来のことではなく、今、われわれがどんな意志をもつか、ということではかったか。そんな一見冷静もっともな「大局」的観点の話ではない。要するにその態度は、機会主義、これからも都合よくころころ変えていきます、自分の習性を変えないために、ということだ。領土問題で中国、日本という両国家がお互いに呼びかけている「大局」「冷静」とは、<居直り>、といっているだけだ。政府は、外国への核技術の輸出、施工着手した原発の肯定、と現状容認を宣言している。その間に、甲状腺の検査を受けた子どもたち3万8千人のうちの35.8%の1万3千人あまりに嚢胞やしこりがみられたという。医者にいってそんなものが発見されたのなら今後も定期検査で注意していきましょう、という話になるのだが、政府は、それが異常かどうかは事故影響のない地域の健全な子どもたちの診察統計をとらないと比較できないので、結論(態度)は先延ばし、だという。いったい誰が自分の子をそんな検査にボランティアで連れていくというのか? ゆえに結果などいつまでもでない。さらに、そう検査結果が出たということは、異常の潜在・潜伏性が本当にあったとわかってしまったということなので、子どもたちには結婚とうの差別が現実的につきまとうことになる、というのが人文科学的な見解だろう。この科学に、現日本政府は立ち向かっていく意志をもたない。
私は、認識の型では、新しい教科書を作る会に親近していくのかもしれない、冒頭引用の小室氏に賛成である。が、その中身において、私は、うなずくことができない。それはたとえば、私が教育したいのは、戦前の理想像、二宮金次郎ではあるまい、ということである。が、私は何を意志するのか、そのイメージは、父親としてはなさけないながらも、いまだはっきりしないのである。しかしそのイメージは、ゆえに、日の丸とゲバラが同列に置かれる一般大衆の近傍から出てくるのではないか、と予想される。ナショナリズムに回収しきれないものを、綱渡りしながら抽出してくる、生きてみせてみる、ということかもしれない。いや小室氏がその著作で、日本国憲法で一番重要だといった13条にいう「生命」という概念それ自体のうちに、私には釈然としないものがありそうだ。国家主義者のいう生命と、過激サヨクのういう生命とは、どうも出自がちがうような気がしてならない。その生命の腑分け作業が開始だということだろうか? となれば、むろん、いわゆるサヨクが嫌う憲法改正などは前提的である。しかし、そうした原理自体の書き換えこそが、今私たちに問いつけられていることなのではないだろうか?
結局、仕事も暇で長い夏休みだったにもかかわらず、旅行などそれらしい過ごしかたもしなかったので、三連休になる昨夜、Jリーグは横浜マリノスvs浦和レッズを日産スタジアムまでみにいってきた。その日中、宿題の漢字ドリルを息子がやるさい、女房と息子とのヒステリー・バトルがはじまる。漢字の書き順や線が出るのでないのと、まさに蹴りあい叩きあい押しくりあいをした怒鳴りあい合戦になる。宿題をおえてやってきた近所の子が、そのやりとりにちょっかいをだす。子どもの宿題など一人でやらせとけばそのうち集中ということを覚えて学習していくだろうに、目先の監視で人間を小さくさせていったら本末転倒だろう、と思うのだが、もうこっちは女房に懲りて、一希の反発・言い返し能力の訓練だとおもいなおしている。があまりにうるさいので、「静にしろ!」と、同じ食卓の端の席に座って本を読みながら、こちらも参入するはめになる。そしてそのまま午前がすぎて昼食時になると、冷やし中華をみて、「こんなの食べない。ごちそさま!」と麺の上のキュウリをちょいとつまんで一希はふてくされる。「食べるものがあるだけいんだよ。食べないと、サッカー見にいけないよ。」と、漢字の書き順よりこっちのほうがよっぽど重要な教育だろ、と思いながらも、飯を食わない食べ残すというわがままだけには子どもを許さずぶんなぐった、という大工の親方の言葉を振り返り、自分はそこまで自信を持って言えないな、ほんとにうまくないしな、と口を濁らした物言いになる。が、一希は「こんちきしょう」とばかりに食いついて食べ始める。それだけ試合を見て見たい、ということかもしれず、また、まわりの子どもたちやその親から一目は置かれるようになってきたサッカー・コーチの発言であるからかもしれない。……「サッカーの経験あるなしは関係ないんですよ。はっきりしてないと、子どもが不安になるんですね。あなたはやったほうがいいですよ。」と、社会人チームでもサッカーを続けている父兄コーチからそう言われている。夏休みのバーベキュー大会でも、べつに教えているわけでもない上級生の親からも、「うちの子はスズキ・コーチを崇拝しているんですよ」とか、下級生の親からも、「いいコーチにめぐりあえてよかった」とかも声をかけられる。たしかに、一希世代の3年生は結果がではじめている。がそれよりも、練習や普段では穏やかな私の、試合中でのエキサインティングな采配、ミーティングでの子どもを説得していく言葉を聞いてそう言うのだろう。だが私の内心は、これは私の教養というよりも、まだ父親と一対一で野球をやっていた自身の子供の頃の習性がでてしまっている傾向が強く、もっと違うようになりたい、と思うのだった。ならば、どんなふうに? 何をめざして?
浦和レッズの応援は面白い。通念イメージ的には滅茶苦茶だ。日の丸とチェ・ゲバラが同列に掲げられている。どちらも”赤”だからか? 旧海軍だかの朝日の出イメージの旗もある、ナチスをイメージさせる横断幕もある。が確か、アメリカのイラク侵攻には反対だと、率先して政治声明をだしたこともあったような。……
しかし私が、日の丸とゲバラの一緒くたに連想したのは、反原発デモと領土問題で喚起されてきつつあるナショナリズムとの一体化だ。最初は辺境の領土問題になど、原発反対者は無関心で結合などありえないのではないのかな、と思ったのだが、通う床屋の奥さんが、一緒くたに反発しているので、これはありえることなのか、と思いなおした。サヨク運動家に近いものたちは、その二つの区別を、教条主義的に、記号的に理解するだろうが、「反」なのか「脱」なのかのためにデモをしているフツーの人たちには、デモ(ゲバラ)と領土(日の丸)が同居することに、なんら葛藤を覚えない、知らないのかもしれない。ならば、やはりスガ氏が指摘しているような、ナショナリズムな、排他的な平和運動という、戦後サヨクの潮流(習性)の繰り返し、という傾向が強くなる、ということだろうか?
日本政府は、「2030年代」での原発ゼロの方針を示したという。といことは、40年まで、ということでもあり、さらに、野田総理は、未来のことは確定的に言えないのだから明確には言わない含みをもたして、と断り書きを述べている。しかし今、問題として突きつけられているのは、未来のことではなく、今、われわれがどんな意志をもつか、ということではかったか。そんな一見冷静もっともな「大局」的観点の話ではない。要するにその態度は、機会主義、これからも都合よくころころ変えていきます、自分の習性を変えないために、ということだ。領土問題で中国、日本という両国家がお互いに呼びかけている「大局」「冷静」とは、<居直り>、といっているだけだ。政府は、外国への核技術の輸出、施工着手した原発の肯定、と現状容認を宣言している。その間に、甲状腺の検査を受けた子どもたち3万8千人のうちの35.8%の1万3千人あまりに嚢胞やしこりがみられたという。医者にいってそんなものが発見されたのなら今後も定期検査で注意していきましょう、という話になるのだが、政府は、それが異常かどうかは事故影響のない地域の健全な子どもたちの診察統計をとらないと比較できないので、結論(態度)は先延ばし、だという。いったい誰が自分の子をそんな検査にボランティアで連れていくというのか? ゆえに結果などいつまでもでない。さらに、そう検査結果が出たということは、異常の潜在・潜伏性が本当にあったとわかってしまったということなので、子どもたちには結婚とうの差別が現実的につきまとうことになる、というのが人文科学的な見解だろう。この科学に、現日本政府は立ち向かっていく意志をもたない。
私は、認識の型では、新しい教科書を作る会に親近していくのかもしれない、冒頭引用の小室氏に賛成である。が、その中身において、私は、うなずくことができない。それはたとえば、私が教育したいのは、戦前の理想像、二宮金次郎ではあるまい、ということである。が、私は何を意志するのか、そのイメージは、父親としてはなさけないながらも、いまだはっきりしないのである。しかしそのイメージは、ゆえに、日の丸とゲバラが同列に置かれる一般大衆の近傍から出てくるのではないか、と予想される。ナショナリズムに回収しきれないものを、綱渡りしながら抽出してくる、生きてみせてみる、ということかもしれない。いや小室氏がその著作で、日本国憲法で一番重要だといった13条にいう「生命」という概念それ自体のうちに、私には釈然としないものがありそうだ。国家主義者のいう生命と、過激サヨクのういう生命とは、どうも出自がちがうような気がしてならない。その生命の腑分け作業が開始だということだろうか? となれば、むろん、いわゆるサヨクが嫌う憲法改正などは前提的である。しかし、そうした原理自体の書き換えこそが、今私たちに問いつけられていることなのではないだろうか?