2014年8月9日土曜日

弱いまま勝つ

「馬庭念流を百姓剣法と云うのは、半分は当っているが、半分は当らない。むしろ源氏の剣法だ。諸国の源氏が野良を耕しながら武をみがき、時の至るを待っていたころの姿がそっくりこうだったに相違ない。違っている一事といえば、馬庭ではもう時の至るを待っていないだけだ。それだけに、畑に同化するように、剣にも同化し、それを実用の武技としてでなく天命的な生活として同化しきった安らぎがある。一撃必殺を狙う怖るべき実用剣を平和な日々の心からの友としているだけなのだ。全身にみなぎりたつ殺気はあるが、それはまたこの上もなく無邪気なものでもある。終戦後は村の定めも実行されなくなって、寒稽古にでる若者の姿が甚しく少くなってしまった。
「みんなスケートやスキーを面白がりまして、そっちへ行きたがりますな」
四天王はこれも天然自然の理だというような素直な笑顔で云った。馬庭の剣客は剣を握って立つとき以外は温和でただ天命に服している百姓以外の何者でもない。まったく夢の村である。現代に存することが奇蹟的な村だ。この村の伝統の絶えざらんことを心から祈らずにいられない。(坂口安吾著 「安吾武者修行 馬庭念流訪問記」)

「弱いまま勝つ」、というようなタイトルの、高校野球もののテレビドラマを最近までやっていて、子供が録画してよくみていた。その一希のなかなか勝てないサッカーチームの現状を評して、コーチをしている俺が悪いからだと女房はなじってくるし、息子も負け癖がついてひねくれてくるので、「そのうちわかる、弱いまま勝ってやる、俺がそれを証明してやる」――と言いかえしていたのが一月ほどまえ。そしてどうにか、この夏のフットサルの地域大会で準優勝して、その証明を果たすことができた。まさに、普段の中心選手も欠いた弱いままの勝利だった。他のチームのコーチからも、「サッカーが必ずしも技量だけではない、ということが体現されているような試合」と評価された。ひとりひとりが、暑さにまけず、最大のモチベーションでのぞんでくれた。コーチの一番の難仕事は、技術の教え以前に、まずは子供から信頼を得ること、そしてその心をつかんだら、こっちからこっちへと、まだ子供たちにとって未知の世界へともってくる腕力である、と私はおもっている。はじめて準優勝のカップを手にして、子供たちは、やれば新しくみえてくるものがある、という感覚を覚えただろうか?
 しかし目指しているのは、ミニゲームではなく、あくまでサッカーだ。小さいコートでの、反射神経中心の試合なら、ハアハアいう我慢でなんとかなるところがある。が、大きなフルコートでは、それだけでは無理になる。違った我慢が必要になる。慎重にやること、ミスを小さくするような丁寧さ、判断することの持続、つまりは、肉体的だけではなく、神経・精神的な静かな我慢を身につけなくてはならない。そのための練習方法、アイデアはあるけれど、果たして、子供たちは練習にきてくれるのだろうか? くるようになるだろうか?