2015年2月18日水曜日

イスラム国の人質(3)


「まず、理屈だけからいえば、現状でも日本が「テロリスト掃討作戦」に参加することは、「憲法違反」とならない場合がありえます。憲法第九条が禁じているのは「国または国に準ずる組織」への武力行使であり、「国際紛争の解決の手段」としての武力行使です。テロリストは「国または国に準ずる組織」ではありませんし、テロリストとの戦いは「国際紛争」とは別物です。したがって、憲法がこれを禁じているわけではない、ということになります。…(略)…
 仮に日本人がテロの被害に遭ったとして、「許せない。報復せよ。相手を殺せ」とはなかなかならないのではないでしょうか。現に、9.11テロの際にも二五名の日本人の犠牲者がありましたが、この時にそのような声は国内からはほとんど上がりませんでした。」(石破茂著『日本人のための「集団的自衛権」入門』 新潮新書)

たしかに石破氏が言うように、「許せない。報復せよ。相手を殺せ」とはなかなかならない、のが日本人の集団的な心性であるかもしれない。がゆえにこそ、安倍総理が「許せない。その罪を償わせてやる」と売られた喧嘩を買うように主張したときには、日本人の心からは乖離したぞっとするような違和感を、多くの日本人が抱いたかもしれない。が同時に、たとえば自分の子どもや肉親が殺された親が、その犯人へ「死刑」という復讐を望むのも一般的なようである。ならば、一見忍耐強い日本人の集団的心性というものが、その実は、本心を隠したものであるか、他人のことには無関心でいたいという、消極的な対応表現でしかないのかもしれない。身内の事件でなくてよかった、あとは我関せずでいこう、が大勢であれば、「報復」してやりたい個人の気持ちは孤立する、だからこそ、その一般的ではあるがバラバラなままの気持ちを集約していくためにも、総理大臣の強気な発言が人為的に必要となってくる、という構造というか成り行きなのかもしれない。

湯川氏や後藤氏の振る舞いをめぐって、10年ほどまえに騒がれたような「自己責任」批判の風潮は盛り上がっていないようにうかがえる。もう若い者というよりも、大人がやったことだから当然と冷静になっているというよりも、そういう風潮にもっていかせたくない別の風潮の方が強い、という印象をメディアから受ける。上いった日本人の集団心性が本当に近いなら、もともと「自己責任」論議のほうが日本人にはあうことだろう。むろん、それは西洋的な文化圏の考えとは出自も結果もちがって、欧米の人権が責任をもって行う個人への連帯という集団性をもって生起してくるとすれば、我々のそれは、無関心なバラバラなままの現状を追認するように揚げ足取り的・野次馬的な掛け声で終始してしまうだろう。だから、その日本文化的な自然(=風潮)にあらがって、なんとか個人の責任問題においやってしまわせない、集団的な動員の風潮を形成していかせようとする政治的な作為が、だいぶ発動されている、ということか? アメリカ経由の新自由主義的なイデオロギーに親和した日本人の集団心性の「構造」をそのままにした「成り行き」で、そこに一般的に潜在している「報復」につながる強い気持ちを生け捕りにしようと。

安倍総理の報復発言は、そうした作為の一環なのかもしれない。だとしたら、形としては、それは間違ってはいないのではないか? 我々は、自然なままに、無関心なままでいるわけにもいかないのは本当であろうから。だから、とりあえず見えている方向性は二つということになる。その無関心を、欧米人権的な責任論の集団行動性へと、つまりはより一層の近代化へと自己陶冶するか。あるいは、安倍とは違う集団を対峙させてゆかせるか。少なくとも私は、いま「表現の自由」をめぐって世界連帯的な動きが発生しているような、その近代的な価値観に便乗してみたいとはおもわない。私は北朝鮮といえど人をバカにしたような映画などみたくもないし、風刺とはまずは自己批判の延長だとおもうので、自分の所属集団を離れたものへの批評は慎重にやるのが道理だと感ずる。やはりこちらの自己責任実践も、私には「日本人の心からは乖離したぞっとするような違和感」をもつ。そして安倍総理の発言も、むしろそうした欧米エリートの口真似のようでぞっとしたのではなかったか?

私は、もっと自然な作為を欲する。もっとうまくやってくれ。あるいは、もっとうまい手だてはないのか?

2015年2月1日日曜日

イスラム国の人質(2)



「 私を焼き殺そうとした男のことなど、感情の隅にも入れたくなかった。その私がテレビのスイッチをなぜ切らなかったのだろう。一時間近いその番組が終わったとき、凶悪な男と思っていた加害者のあまりにかわいそうな人生に、私は涙があふれた。その時、その男への憎しみは消えてしまった。退院した私は事件に関する記事を集めて調べ始めた。そこから知った男の人生は、やはりあまりにも悲惨だった。加害者となってしまったその運命が、「荷物」となって生きていかなければならない自分の悲しさに重なった。
「加害者を憎んではいない」と言った私の言葉に、家族の者たちは唖然とした。その顔が怒りに変わっていった。
「あんな奴は、焼き殺してやる」
「あんな奴を放置しておくからこんな目に遭うんだ」
「憎むべき、だ」
家族の者たちの言葉を「つぶて」のごとくに聞いていた。
 私には、「加害者」を「憎めない」という自由もないのか。こうして人に厄介をかけて生きていかなければならなくなった人間は、ただ言いなりになっていくことしか許されないのか。「自分」を剥奪され、行き場を失って叫び声を上げてしまった加害者Mと、私も同じ……。
 悪いのは、「加害者」だけだったのか……。
 晩夏の庭には柿が実のっている。私は家族の会話を耳にしながら無表情を装い柿を見つめていた。柿はまだ、青い。
 ――大丈夫。いつまでも生きてはいないよ。大丈夫だよ。今だけ。今だけのこと。柿が赤くなる頃には私は死んでいる。」(杉原美津子著『炎を越えて 新宿西口バス放火事件後三十四年の軌跡』 文芸春秋)

後藤さんが殺されてしまったようだ。ビデオに映る後藤さんの毅然とした表情から、私は彼らの友情が発動されるのではないかと希望していた。交渉が可能な相手ではないと世間は言うが、私は、彼らはそれ、友情を理解したとおもう。ただその心の動きに従うには、世界に動かされているそのことの情動に駆られるのが大なのだろう。心の芽吹きに耳を傾けさせる余地をあたえまいと、世界が、国家群が、より大きなうねりをひねり出して、人々を、後藤氏を殺した彼らのように、押し流してしまうのではないかとおそれる。戦争を抑止するために意図した同盟関係が、たった一人の殺害を契機に、意図しない拡大を招いて世界大戦になってしまった、という現代史の警告を紹介しているのが佐藤優氏と手嶋龍一氏の最近の対談である(『賢者の戦略』新潮新書)

かつて、私の女房のダンス公演を論じたものをおもいだした。――2003年「テロリストになる代わりに
また、チェチェンの紛争の犠牲者になった子供たちの映画に言及したものを、自分のHPから再引用、再確認したくなった。