佐藤 そうすると、ある意味、大衆の代表なのですね。
副島 そうです。だからジョージ・ブッシュは、アメリカ財界人の愛すべき代表でした。財界人ボンクラ三代目たちと気持ちが通じているわけです。創業者と二代目までは知恵と才覚があって会社を大きくしたけど、ボンクラ三代目さんたちはボーッとしている。「ボクちゃんたちバカなの。でも、頑張っているから」という感じですね。
佐藤 日本でいえば、JC(日本青年会議所)の雰囲気ですね。」(副島隆彦×佐藤優『崩れゆく世界』 日本文芸社)
今期4月に入ってから、勤め先の植木屋さんが変だ。いや,なお変な症状をみせはじめた、といおうか。一つの会社のなかに、二つの会社があるようだ。三代目の息子が、まるきり別個に活動している。だから、親方・復帰した団塊世代職人・私、というグループと、息子(と、最近仕事中のケガで半年ほど労災手当を受けていた3年目になる40歳近くになる新人が復帰)グループに分かれている。役所仕事関連で、息子が何か大きなしくじりをして、それを親からとがめられてすねた、同時に、役所への書類手続等は息子が引き受けているから、敢えて手を引いてみせることで、会社(親)に圧力をかけているのかな、と推論しているのだが、本当の事情はわからない。団塊世代職人などは、そうした人聞きの悪いことは想像もしないので、ただ親方の段取り上そうなっているとしか感じず、息子とまるきりいっしょにやることがないことに、ホッとしている。とくに、息子が参入してくるまでは私が担当していた練馬の会社の仕事を、また私が担当することになり、その現場には、親方の知り合いづてからか、派遣の労働者が一名手伝いにくるのだが、その人たちも団塊世代になるだろういわゆる年増の日雇い労働者たちで、ために、年齢の近いこちらの団塊世代職人さんが教育係みたいになってくる。そのやりとりが面白く、職人さんも、「まるで漫才やってるみたいだね!」と自評するくらいで、生き生きとした感じを回復している。もしこの現場が三代目息子の取り仕切る場だったら、「この使えねえ奴!」と、地べたを這いずり回ってゴミ拾いする年増の人間を貶める中傷を平気で怒鳴り散らしているだろう。職人さんは聞くにもたえず、自分のことのように心を痛め、いたたまれなくなるだろう。
親方だったら、とりあえず、面と向かっては、渋い顔をしながらも、何も言わないだろう。怠けて平然としているような人だったならば、その人を替えてもらうか、断る手続きを会社に対してとるだろう。今回の相手会社名は「しんせん組」といい、派遣されてくる者たちは、生活保護をもらって労働している人たちのようだ。現場についた私が、「まだ相手からなんの連絡もこないんですけど」、と電話をかけると、その組の人は、「あいつらは、人種がちがうんだよ。連絡とれなくても、ずっとそこにいるだろう。夜中になっても、いつまでもな」と、口先では笑っているが暗黙にこちらを脅しているような微妙なニュアンスで伝えてくる。まるきりの差別。親方は、そういう世界があることを肌で知っていて、そこが、利益合理的な考えだけで動いているわけでもない、微妙な、グレーなゾーンであることに敏感である。そこの曖昧さが、社会の接着剤になっているようだということにも、意識的であるかもしれない。が、息子には、そうしたニュアンス、複雑さ、難しい事柄が理解できない。想像も及ばない。
先週の土曜日にも、こんなことがあった。私がトリマというエンジンの刈込機で生垣を刈りこんでいると、団塊職人さんが、やめろといいにくる。どうやら通り過がりの近所の人が、騒音の苦情を言いに来たらしい。私としては、真向いの隣人はもう起きて活動しているし、騒音もこの家だけだろうとよみ、朝も8時すぎたから、と機械を使いだしたのだった。玄関先に行ってみると、初老の、それなりに大きな会社の管理職はしていたのだろうという人が、「それはおまえたちの都合で言っているだけだろう。そんな権利は実際にはないんだよ。」と、建設会社に住民自治を盾にして、民主主義を代表するような答弁を、おまえたちバカに諭している、といった風で説いている。「うん、うん。だけど建設屋と植木屋はちがうんですよね」とか、あくまで穏やかな口調で、一歩も親方はゆずらない。このまま言い負かされると、土曜日はこのお宅で仕事ができず、午後になっても機械が使えない、という慣例になりかねない。しかしこの穏やかさ、板についた心棒強さは年の功で、若いころはまだそこまではいっていなかった。「土曜日にはこういう仕事をしないよう、やりくりを考えればいいだろう!」と、まるでこちらを子ども扱いでもするような発言を相手は繰り返す。家族でやっているような小さな会社に、そんな融通がきくような呑気さがあるわけがない。土曜日じゃなければ在宅していない、という家も多い。「すいません! 僕が時間まちがえました!」と、私が顔をだす。するとなぜか、その初老の男のトーンはだんだんと小さくなって、「いやこうして口をきつくしていったのは……」と、弁解じみたことを言い残して引き揚げていった。たぶん、眼鏡をかけたインテリ風の私のような顔がでてきたので、以外だったのだろう。バカに諭す、という感じではなくなってしまった。そしておそらく、親方は、その客の変化に、敏感だったろう。「機械を使うな、と言っただろう」と私を叱らずに、そのまま受け入れる。自分や団塊職人の顔ではだめだが、こいつの顔には自分たちにはない効果がある、社会がある、それは使える、と、再びなように確認しただろう。
息子だったら、「だから使うな、と言ったでしょ!」との非難になるだろう。普段は、機械でやる方が作業能率がいいから、と強要していることも忘れて。従業員は、自分での判断では手刈りの方がよい、とおもっているのだが、そういう強要習慣にかられて機械を選択してしまう、そういう立場があるのだ、ということを想像もできずに。
大塚家具で親子問題が起きたときにも、何か日本や世界の動きにある一つの潮流を象徴しているかもしれないな、と思ったものだ。何を価値とするのか、という問題。その価値の、利益に還元できない微妙さ、ニュアンス。それを実現、保守するための実践的方策、妥協、斬新、改革……事態は、表面的には、どちらの陣営がいいのか、一概にはいえない。内面的な論理で、本当は何を、どんな価値を志向しているかが重要で、それは目にみえない、しかも紆余曲折した複雑な動きをとるだろう。三代目たちの認識に、真面目な正当性があっとしても、その価値が理解できていないならば、とんでもない突っ走りがおきるだろう。親の世代たちが結果的には、見た目には追求していたことを、文字通り受け止めて学んで、それを成立させていた微妙なものを感じ取ることができない。言っていることはもっともでも、どこかおかしく、それを説明するのは難しい。
親方の奥さんが癌になるまえは、朝7時半の仕事開始まえに、みなで事務所でお茶を飲んだものだった。そこにあった価値を、それを感得することのない者に、どうやって説明するのだろう? そんな意味もないような慣習を改革するのはいい、しかしそのことでひきうけなくてはならない微妙なものに気づかないで、単に目に見える現場や金銭的な合理性だけで処理するのなら、その改革は、のちに人間や自然の落とし前をつけさせられることになるのだ。そういう感覚。真の価値は、逆襲してくる。その畏れ在る態度を、もっともな理屈で傲慢に振る舞う青年たちに、どう伝えられるだろうか?
親方の奥さんが癌になるまえは、朝7時半の仕事開始まえに、みなで事務所でお茶を飲んだものだった。そこにあった価値を、それを感得することのない者に、どうやって説明するのだろう? そんな意味もないような慣習を改革するのはいい、しかしそのことでひきうけなくてはならない微妙なものに気づかないで、単に目に見える現場や金銭的な合理性だけで処理するのなら、その改革は、のちに人間や自然の落とし前をつけさせられることになるのだ。そういう感覚。真の価値は、逆襲してくる。その畏れ在る態度を、もっともな理屈で傲慢に振る舞う青年たちに、どう伝えられるだろうか?