「しかし柳田の学問は普通の人々が学問の主体である。柳田学は「常民を研究する」のではなく、「常民が研究する」学問として設計されている。そこが柳田論では常にスルーされる。このことはアカデミズムの人たちは決して認めたくないのであり、こういう体質はばかばかしいが今もアカデミズム全体にある。
そもそも柳田のアカデミズムへの批判は、「民俗学」と仕方なく彼が呼ぶものは観察と記録に基づく「社会」構築の方法そのものをいう。学問の目的そのものの違いに根差す。言うなればそれは、「日常の技術」なのである。
例えばWEBの出現で、表現することや発信することの「民主化」が少なくともインフラの上では実現している。柳田が考える「民俗学」とは、そういう状況でこそ本当は意味を持つ「学問の民主化」に他ならない。そのためには民俗資料という研究者が抱え込みたいものをデータベース化しようと昭和の初めの時点で考えていたのだから、アカデミシャンから見れば何を言っているのかわからないのは当然ではあった。」(大塚英志著『殺生と戦争の民俗学』 角川選書)
去年のことだ。
父は、まだ夜半と言える早朝、切り倒した庭木の幹を、両の手に一本づつ持って、家庭ごみの捨て置き場へと運んでいた。幹は成人にとっても重いもので、八十も半ばになる父は途中、前のめりに倒れてしまった。両手がふさがっていたので、顔が道路にあたるのを防ぐこともままならず、そのまま強打した。運よくか、通りがかりの人が救急車を呼んでくれて、間もなく病院へと運ばれたようだ。その見舞いには、父の兄弟が、もう会うのも最後かもしれないと、やってきたそうだ。私は、兄からメールを受け、弟に確認をとったが、見舞いには行かなかった。まだ私が若いといえる時分にも、父が交通事故にあって入院したことがあったが、その時も行かなかった。どちらの時も、「だいじょうぶだから」という返事が、身内からあったとおもう。その字義通りの応答以外の感情が私には希薄で、イトコが見舞いに行くのに実の息子が来ないのか、という親戚の話もあったときく。
そもそも、上京した19の歳いらい、年に一度か二度、お盆や正月の時に帰省するだけだった。地元のかつての野球仲間などにも、母は、行方知れずだから、というように吹聴していたらしい。子どもの頃の友人とは、子どもの時いらい、まったく会っていない。
そんな自分が結婚して子どもができて、帰省する機会も増えた。息子の小学校の入学式には、父も東京までやってきたぐらいだから、なお丈夫だった。が、息子が上級生になった頃から、年ごとに、ボケの症状が深刻になっていくようだ、ということが、家の者の話から知れてくる。そういうこともあるし、息子ももう中学生にもなったので、実家には、私一人で帰ることが多くなった。
が、私には、ボケてきているのはわかるけれども、いわば認知症と呼ばれる高齢者の病気に父が本当になっているのか、わからないのだった。私の名前を間違えて、弟の名前で呼ぶときはある。というか、それが帰省した当日などはいつもなような感じである。さらに、自分が名前を間違えたことを父は自覚できるようなのだが、では私がなんていう名前なのかは、すぐには出てこないらしい。名前を呼ばれるのは、二、三日たってからであったりする。いや今回ゴールデンウィークに帰って、やはり名前は数日後に出てきたのだが、それでも、私が誰なのか、本当に次男坊のマサキなのか、腑に落ちていないのではないか、という気が私にはしてきた。が、私はそうしたことどもも、父が病気だから、という気がしない。たんに、老人になれば細胞がたくさん死んでいくのだから、当たり前なことだ、ぐらいにしか気にならない。帰省したその日、父の近くによると、小便の臭いがした。その夜、家の皆が寝静まった時刻に、代替の宅配便で、オムツをかねた新式のパンツがとどいて、私が支払った。翌日にもそれを穿いてと母から言われたからか、以後そんな臭いは漏れてこないのだったが、兄も、弟も、母も、父が糞尿をもらさず、怒鳴り散らすこともせず、大人しくしているのは、どうもマサキがいるらしいからだ、という。よそよそしい者が、家にいる、それが父を行儀よくさせるのか。弟が介護疲れで倒れた母を病院に連れて行っている間、糖尿病でもある父は、私の女房が作ってもたせたおかずをむしゃむしゃと食べ始め、さらに母が私にと出してくれたお菓子まで食べはじめたのだけど、私には、腹が減っているんだな、ことぐらいしかわからない。兄にいわせると、満腹感がもうわからなくなっているのだ、という。しかしそれが歳をとるということなら、そのまま病気をこじらせて死んでいっても、別に自然なことなのだから、なんでそれを病気として騒ぎ立てるのか、そうした家族の事態を目の当たりにしても、やはり私にはわからないのだった。
そんなあと、近所の家庭菜園の畑へと水やりにいった父は、そのまま徘徊してしまったようなのだが、もし私が家族から認知症という言葉を知らされておらず、それで家の者が困っているという話を知っていなかったら、探しにいくということもなかったろう。夕刻遅くに戻らなかったのならば考えるし、たとえその父の放浪が、近所の住民や公共機関への事故とうで迷惑や損害を与えたとしても、老人とはそういうものだという寛容さで、あまり騒ぎ立てることもせず、静かなわがままを皆で弔ってやることのほうが、ずっといい社会ということになるのではないか、と今の私は思い込む。それはしかし、介護がいる現場から、私がまだ遠いところにいるひとごとな立場でものを見ているからだろうか。
しかしそんな私でも、老化した父を、注目して見ていることがある。
父が、早朝に庭のゴミを運んでいるのも、それが父の特化した行動になっているからだった。今年の正月、父の散歩に息子と一緒に後ろからついていくと、道端に落ちている吸殻、紙くずなどを、たとえ小さなものでも、しゃがみこんで拾い上げて、服のポケットへと片付けてゆく。いやゴミだけではない、石ころが落ちていても、それを手に取って、道路の外の空き地へとぽいっと下投げに放り投げるのだった。そんなものだから、なかなか前に進まない。息子と私は、そんな父の行動を不思議そうに見て後追いしていたのだが、と、石ころがいくつも落ちている道端に出くわしたのだった。これをひとつひとつ処理していたら、大変だぞ、と息子も思ったことが感じられた。すると、父は、なんと足でその石ころを蹴とばして道の脇へとどけはじめたのだ。さらに、ちょっと道の中ほどにあった石ころを、インサイドキックで強めに蹴ると、それはころころと長めに転がって、側溝の蓋のつなぎ目の小さな穴に入って消えていったのだった。「おじいちゃん、すげえ」と、息子はつぶやいて、私と目を見合わせた。
外だけではなかった。家の中でも、ゴミ拾いに忙しかった。私が居間のゴミ箱に紙くずひとつ捨てても、それを炬燵からやおら起き上がってゴミ箱までよちよちと歩き、手を突っ込み、拾い上げ、洗面所にあるゴミ箱へとまとめていき、それが一杯になるまでもなく、いくばくかの時間がたつと、ゴミ箱に挿入されゴミをまとめているビニール袋をとりあげて、庭の隅においてあるゴミバケツに捨てにいくのだった。そして収集車がやってくるゴミの日になれば、まだ夜ともいえる早朝に、ひとりゴミ袋を運んでゆくのである。
私が、父といえば思い出す光景といえば、野球グランドにうずくまって、カマをふるい草刈りをしている姿だった。
この、どこか昇華してゆくような記憶の作用には、何か意味があるのではないだろうか? 余分なものが削除されていって、コアな何かが残って行く。父にとって、ゴミ拾い、雑草取り、これらは、何を意味しているのだろうか? 老年になって、強迫観念、反復にもなっているこの作法には、父にとっての意味と、その意味をもたせようとする形式があって、そこに、より普遍的な意義があるのであろうか?
(私はこの父の認知症を、私の不眠・夢の作法と関連しているのではないかと推察している。私事を超えた、一般的な関係があるのではないかと思っている。)
*以上の材料をブログに記入しておこうと思った昨日から、今日、冒頭引用した大塚氏の著作を読んで、面白く感じた。そしてさっきの夕食前、朝日新聞に、柄谷行人氏が、その大塚氏の著作の書評を書いているのを知った。柄谷氏は、氏の柳田読解を、大塚氏から批判されているのだが、書評中、その著作の内容紹介に終始しながら、最後にこう暗示的に付記する。<柳田―千葉―大塚という流れには、柳田にあった一つの面が抜けている。それは、柳田の学問の根底に、平田派神道の神官となった父親が存在する、ということだ。柳田が先祖信仰にこだわったのは、そのためである。>――柄谷氏の柳田論(「遊動論」)は、「世界史の構造」や、さらにトッドの家族人類学「世界システム」との文脈の重なり合いを踏まえて読み込まないと意味(方向)が指示されてこないと私は理解しているが、おそらく、その柄谷氏の読解を批判的にとらえようと、絓 秀実 /木藤亮太 著『アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男』 (筑摩選書)という柳田論も出版されている。それをも読んで、総体的な視点に触れることができて、このブログに記入できれば、と思っている。
2017年5月10日水曜日
「戦闘」をめぐって(5)
「五年間日本に駐屯していた米軍は、戦闘部隊としての士気を失っていた。頼みになるのは制空権だが、韓国軍の遁走はとどまるところを知らない。一九五〇年の夏、戦争は重大な局面にはいる。国連軍は釜山の周辺地域に追い込まれ、あわやダンケルクの二の舞になりそうにみえた。マッカーサーは、米韓両軍に釜山を死守するように命令した。
この時である。米国側がある噂を流布しはじめた。この噂は朝鮮で苦戦していた米軍の兵士の間でまことしやかに伝えられていた。これはダレスと国務省の観測気球が火元だったのであろう。
その噂とは日本陸軍の精鋭部隊が応援に駆けつけて、北朝鮮の軍隊をやっつける、というのである。日本国会でも質疑応答があり、韓国大統領李承晩も、これをとりあげた。もし日本軍が投入されたら、韓国軍は北朝鮮と一緒になって、日本軍に抵抗するというのである。」(片岡鉄哉著『さらば吉田茂』 文芸春秋)
ゴールデンウィーク、予定どおりの帰省の前夜に、実家に電話しても誰もでない。まだ夜の8時だが、認知症の父も、統合失調症の兄も、すでに薬を飲んで寝ているのが習慣だ。母が起きているはずだが、でない。「腰痛になったというから、寝込んでるかい? とにかく朝早く帰るからね」と留守電をいれておく。そうしたら案の定、奥の納戸と化したような日本間の、家具の隙間に倒れていたのだった。いったん起きておかゆを作って食べたが、みんなもどしてしまったという。腰よりも、胃が気持ち悪いという。父と兄は、腹が減っていたのか、私の女房が作ってもたせたサバの味噌煮やイクラの煮込みなどのオカズをむしゃむしゃと食べ始める。私は、こんなにも衰弱した母をみるのは初めてだった。乏しくなった長髪をまばらに乱して、苦痛に顔をゆがめてお岩さんのような幽霊表情だったが、哀れという感情に襲われた。小さきものへの労りを、母と感じ捉えることとは、こういう体験なのか、と私は合点したような気になった。日常的に出会わしている兄には、もうそんな感性はないのか? 夫としての父は、もっと複雑になるのかもしれないが、両者とも、もうアパシーという風だった。母はまた寝入ったので、とりあえず午前中は様子をみることにしたと、弟にメールを送る。「祭日の当番医が新聞の地元欄に書いてあるはずだから調べておいて」と返信がくる。老人ホームの夜勤中だそうだが、ほどなくして、家に弟は現れた。「明日からは早番で病院には連れていけなくなるから、今から行くから。脱水症状なったら大事だから、点滴打ってもらうだけでもちがうよ。」と、気の進まない母を起こして、車に乗せた。「お父さんが徘徊するかもしれないから、留守番たのむよ」と私に。「疲労からくるウィールス性の胃腸炎」と昼過ぎにメールが届いた。私が庭の植木を手入れしている間、父は畑に水をやってくると、家の前の道路を50メートルほどいったところにある家庭菜園の所へと、ペットボトルを両手にして出ていっていた。刈り込んだ枝葉の掃除を終えてふと、まだ父が戻っていないと気付いて畑までみにいくと、いない。国道まで出向いて、セブンイレブンで何か買い食いでもしているかと、迎えにいってみると、ちょうどレジで菓子パンを買っている爺さんがいたので、「お父さん!」と声をかけると、ちらとこちらを一瞥しただけで反応が鈍いので変だと思って後追いしてすぐに、人違いだと気づいた。よろよろして顔つきも似ているのだが、あんなにしっかり歩けないなと。家に電話で確認すると、まだ戻っていないと兄は言う。今度は国道とは反対側の、土手沿いの散歩コースを捜してみることにした。こういうふうに、親を捜してあるく家の人たちが、いまいっぱいいるのだな、と、丈の高くなった雑草の濃いグリーンを揺らしてゆくそよ風を気持ちよく眺めながら、私は確認していた。これはやはり、深刻だな、と、あの母の姿を目にしたときにぞっとした認識を、眩しい日の光の中で再確認しながら、そして、自殺を思い詰めていた青春時、よくこの土手から川沿いの林の中をさまよった当時の自分をも思い起こしながら、私自身が認知症の父になってさまよっている気がしてくるのだった。河川敷に設けた菜園まで行ってみようか、まだ父も健康で、幼い息子の一希と一緒に犬の散歩によく行った場所。父がもう行けなくなったから、どうなっているだろう、あの犬のお墓は、まだ草むらに見えるだろうか……「戻って来た」と兄から携帯が入り、私は途中で土手を降りた。……「おまえの旦那は、歩ってるじゃないか」と、地区の班長負担は後回しにしてくれと頼むと、そう言ってくる人もいるんだよ、と少し気分が回復した母は言う。「いまに覚えてろよ」とも。菜園が荒らされたときもある。夜に、庭に保管してあった肥料が盗まれたりした。すでに近所の家庭では、どこもかしこも、認知症の両親を抱えたり、独り身になっていたり、子どもはよりつかなかったり、親が施設に入ったきりだったりしている。それでも、誰もが助け合いみたいにはならないらしい。生活レベルが似ているので、あるいは似ているように見えるレベルなので、疑心暗鬼になるのだろう。落差が見え過ぎるくらいだったら、足の引っ張り合いはしようもないのではないか。
そうしたで下世話な世間から世界をみると、世界情勢もそれに似ている、ことに気づく。その卑俗な世界での現実主義、政治的リアルとは、次のような意識によっているのであろう。
<ましてアメリカは、冷戦時代は戦略的に重要な日本を手放すわけにはいかないから、多少、日本のすることに不満でも大事の前の小事として目をつむっていてくれたが、これからはもう少し気をつける必要があろう。イギリスもスペインの脅威がある間は、オランダが滅びれば次は英国が同じ運命と思って庇ってくれたが、スペインの脅威が去った途端に、過去の同盟義務不履行までむし返してオランダを叩いている。…(略)…「あいつはどうせつき合わないのだから誘わないでおこう」と思われた時こそ、同盟の黄信号灯った時である。それを、「やっとアメリカは日本の平和主義を理解してくれた」とほっとなどしていることこそ、日米同盟の基礎を揺るがし、ひいては現在の平和主義体制自体の墓穴を掘り、軍国主義への道を開いているのである。>(岡崎久彦著『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』 土曜出版)
スペインやアメリカといった落差を感じさせる支配者が失墜して、誰もが揚げ足をとれるようになった。
で、そんな田舎世界で、平和を志向するとは、それをこの著者の元外務官僚にも説得提示できる論理とは、どんなものでありうるのだろう?
この時である。米国側がある噂を流布しはじめた。この噂は朝鮮で苦戦していた米軍の兵士の間でまことしやかに伝えられていた。これはダレスと国務省の観測気球が火元だったのであろう。
その噂とは日本陸軍の精鋭部隊が応援に駆けつけて、北朝鮮の軍隊をやっつける、というのである。日本国会でも質疑応答があり、韓国大統領李承晩も、これをとりあげた。もし日本軍が投入されたら、韓国軍は北朝鮮と一緒になって、日本軍に抵抗するというのである。」(片岡鉄哉著『さらば吉田茂』 文芸春秋)
ゴールデンウィーク、予定どおりの帰省の前夜に、実家に電話しても誰もでない。まだ夜の8時だが、認知症の父も、統合失調症の兄も、すでに薬を飲んで寝ているのが習慣だ。母が起きているはずだが、でない。「腰痛になったというから、寝込んでるかい? とにかく朝早く帰るからね」と留守電をいれておく。そうしたら案の定、奥の納戸と化したような日本間の、家具の隙間に倒れていたのだった。いったん起きておかゆを作って食べたが、みんなもどしてしまったという。腰よりも、胃が気持ち悪いという。父と兄は、腹が減っていたのか、私の女房が作ってもたせたサバの味噌煮やイクラの煮込みなどのオカズをむしゃむしゃと食べ始める。私は、こんなにも衰弱した母をみるのは初めてだった。乏しくなった長髪をまばらに乱して、苦痛に顔をゆがめてお岩さんのような幽霊表情だったが、哀れという感情に襲われた。小さきものへの労りを、母と感じ捉えることとは、こういう体験なのか、と私は合点したような気になった。日常的に出会わしている兄には、もうそんな感性はないのか? 夫としての父は、もっと複雑になるのかもしれないが、両者とも、もうアパシーという風だった。母はまた寝入ったので、とりあえず午前中は様子をみることにしたと、弟にメールを送る。「祭日の当番医が新聞の地元欄に書いてあるはずだから調べておいて」と返信がくる。老人ホームの夜勤中だそうだが、ほどなくして、家に弟は現れた。「明日からは早番で病院には連れていけなくなるから、今から行くから。脱水症状なったら大事だから、点滴打ってもらうだけでもちがうよ。」と、気の進まない母を起こして、車に乗せた。「お父さんが徘徊するかもしれないから、留守番たのむよ」と私に。「疲労からくるウィールス性の胃腸炎」と昼過ぎにメールが届いた。私が庭の植木を手入れしている間、父は畑に水をやってくると、家の前の道路を50メートルほどいったところにある家庭菜園の所へと、ペットボトルを両手にして出ていっていた。刈り込んだ枝葉の掃除を終えてふと、まだ父が戻っていないと気付いて畑までみにいくと、いない。国道まで出向いて、セブンイレブンで何か買い食いでもしているかと、迎えにいってみると、ちょうどレジで菓子パンを買っている爺さんがいたので、「お父さん!」と声をかけると、ちらとこちらを一瞥しただけで反応が鈍いので変だと思って後追いしてすぐに、人違いだと気づいた。よろよろして顔つきも似ているのだが、あんなにしっかり歩けないなと。家に電話で確認すると、まだ戻っていないと兄は言う。今度は国道とは反対側の、土手沿いの散歩コースを捜してみることにした。こういうふうに、親を捜してあるく家の人たちが、いまいっぱいいるのだな、と、丈の高くなった雑草の濃いグリーンを揺らしてゆくそよ風を気持ちよく眺めながら、私は確認していた。これはやはり、深刻だな、と、あの母の姿を目にしたときにぞっとした認識を、眩しい日の光の中で再確認しながら、そして、自殺を思い詰めていた青春時、よくこの土手から川沿いの林の中をさまよった当時の自分をも思い起こしながら、私自身が認知症の父になってさまよっている気がしてくるのだった。河川敷に設けた菜園まで行ってみようか、まだ父も健康で、幼い息子の一希と一緒に犬の散歩によく行った場所。父がもう行けなくなったから、どうなっているだろう、あの犬のお墓は、まだ草むらに見えるだろうか……「戻って来た」と兄から携帯が入り、私は途中で土手を降りた。……「おまえの旦那は、歩ってるじゃないか」と、地区の班長負担は後回しにしてくれと頼むと、そう言ってくる人もいるんだよ、と少し気分が回復した母は言う。「いまに覚えてろよ」とも。菜園が荒らされたときもある。夜に、庭に保管してあった肥料が盗まれたりした。すでに近所の家庭では、どこもかしこも、認知症の両親を抱えたり、独り身になっていたり、子どもはよりつかなかったり、親が施設に入ったきりだったりしている。それでも、誰もが助け合いみたいにはならないらしい。生活レベルが似ているので、あるいは似ているように見えるレベルなので、疑心暗鬼になるのだろう。落差が見え過ぎるくらいだったら、足の引っ張り合いはしようもないのではないか。
そうしたで下世話な世間から世界をみると、世界情勢もそれに似ている、ことに気づく。その卑俗な世界での現実主義、政治的リアルとは、次のような意識によっているのであろう。
<ましてアメリカは、冷戦時代は戦略的に重要な日本を手放すわけにはいかないから、多少、日本のすることに不満でも大事の前の小事として目をつむっていてくれたが、これからはもう少し気をつける必要があろう。イギリスもスペインの脅威がある間は、オランダが滅びれば次は英国が同じ運命と思って庇ってくれたが、スペインの脅威が去った途端に、過去の同盟義務不履行までむし返してオランダを叩いている。…(略)…「あいつはどうせつき合わないのだから誘わないでおこう」と思われた時こそ、同盟の黄信号灯った時である。それを、「やっとアメリカは日本の平和主義を理解してくれた」とほっとなどしていることこそ、日米同盟の基礎を揺るがし、ひいては現在の平和主義体制自体の墓穴を掘り、軍国主義への道を開いているのである。>(岡崎久彦著『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』 土曜出版)
スペインやアメリカといった落差を感じさせる支配者が失墜して、誰もが揚げ足をとれるようになった。
で、そんな田舎世界で、平和を志向するとは、それをこの著者の元外務官僚にも説得提示できる論理とは、どんなものでありうるのだろう?