にわ、と『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』(六曜社)では、ひらがなで表記されている。しかし二人の談議を読んでいると、むしろ、「庭」、つまり朝廷に通じるテイへの当て字としての「にわ」、という趣が強いと感じる。そのことは、談議の第一章「自然信仰と「にわ」 日本古代の儀式と神遊び」において、天皇の「国見」への言及からはじめられていることからも、知れてくる。
<磯崎 …『古事記』などの時代には、天皇は国見をやっていますね。国見というのは、どこか高いところに立ってあたりを見晴らすわけじゃないですか。
藤森 山の上へ立って、民のかまどを見るんですね。
磯崎 おそらく自ら統治する国はどの範囲かなんて考えているのでしょうが、そのついでに、かまどの煙が出ているのを見る。その煙が、そこに家があるという目印になる。つまり。火をそこで使っているという認識ですね。家はおそらく藁屋根ですが、生活がある。国見は見晴らすという行為がまず基本にあって、そこで何がおこっているのかというイメージは、その次に出てくるのではないかなという感じがするんです。国見の意味は、今の解釈だと「ここまでが俺の領地だ」という確認だけれど、本来はもうちょっと本質的な我々のものの見方の始まりであって、その場所に住めるか住めないか、人間の生きている場所はいったい何なのかということを感じることから始まっているのではないかと思います。そう考えると、藤森さんが言うように、建築というのは、お据えものですよね。その建築が一個ではなくて、いくつかの家から煙が出ているということがすごく重要だと僕は思うんです。
藤森 むしろ古代的な宇宙観というか、世界観というか空間観ですね。その中に点々と建つ火のある場所に人間は閉じこもって暮らすのだけれど、たしかにそこにいる人たちにとっても、自分たちの住んでいる外界を眺めることは、古い時代では、重要な行いというか喜びだったかもしれませんね。
磯崎 『海上の道』(一九六一)で、柳田国男は潮の流れに乗っかって「漂着」することで、人はまず、その地に住みこむのだと言っています。おそらく、高台や山頂に登って、まずは見晴らしたのでしょうね。
藤森 そもそも美とは何かということを考えたことがあるんですが、それを今の話からも考えることができる。国見や狩りに行くと、新しい原野を見るなど、必ず新天地を見る機会がありますね。そのときに彼らは、その場所がいい場所か悪い場所かということを、直感的に認識したんじゃないかと思います。おそらく、今だと調査をして判断するけれど、そうではなく直感的に見るというのは、たとえばどこかが崩れているとか、あるいは木が倒れているとか、何かわけのわからないものがあるとか、そういう場所はきっと避けたでしょう。つまり、視覚的な統一がそこにあるのをよしとして、その統一感を、今の言葉で言うと「美しい」と感じたんじゃないかと私は思っています。…>
にわ、が和語として、「日和」と漢字表記されもしたのは、これから漁場に向かうものが、天気をみようとしたからである。その「見晴らす」行為は、つまり「にわ」は、あくまで朝廷の「国見」から来るものではなく、庶民が生死のかかる場所を見計らい、そこで交流(交通)する=生計を立てることを願う行為(呪術)からくるのだ――という推論を、植木職人をし始めた私はエセーとして残した。
<進士五十八氏は庭の「基本構造」を語源的に探って次にようにのべている。(『日本庭園の特質』)──「ところで、庭(garden site)は建物と一体となって住生活の基本単位となっている。周囲を垣などで囲む構成が様の東西、時代にかわりなくみられるのは、敵の侵入や強風から家を保護するのが、庭の基本機能だからである。庭園を意味する東西の語源に「enclosed space」があるのもこのためである。たとえば東洋では、庭〈テイ〉─建物で囲まれた場所、園〈ソノ〉─果樹の植えられた囲まれた土地。西洋では、Garden─ヘブライ語のgun( protect and defendの意味)と、eden( pleasure and delightの意味)の合成語、Yard─アングロサクソンのgeardすなわちhedge,enclosureから由来したもの、である。」そして以上の考察から庭の「本質」には「囲い」があり、その囲われた内部に理想環境のイメージ、楽園やユートピアの表現がおこなわれるのだと。それは、「庭─囲われ閉じられた空間─楽園・ユートピア─田園─自然─風景・景観─ランドスケープ」といったイメージ連鎖の支柱になるだろう。おおまかには、庭を自然と結び付けてしまう思考である。
しかしそれは本当のことだろうか? 語源的な考察は、自然主義の一変種たるロマン派によくみられる傾向だが、それはわたしたちの生きた系譜を見失わせてしまいがちである。自分の遊び場のことをニワといい、ヤクザ者がここは俺のニワ(シマ)だ、と言う時、その用法には明確な囲いという常態的な安定ではなく、境界地がいつ塗り替えられるかもしれない動態的な不安定さを、あるいは生き生きとしたものを提示していないだろうか?
ニワとは、古語として「日和」とも表記されたりもした。(*)それは陸上の広々とした空間にたいしても用語されたが、おおくは海上の空間を意味し、また天候の善し悪しにも言われた。どういうことだろうか? それはこれから海へ、陸の何処かへと航海や旅にでるものが、その日の空模様と海の様を注視するにあたってでてきた語意ではないか、つまり、庭とは交通の、交易の空間としての意味が内包されているのではないのだろうか。(――おそらく漁場(天気)としての日和が、「島(シマ)」という造園作りの古語と結びつきながら、庶民的な営みの場で、「庭(ニワ)」として概念創造されていったのではないか――)だから、中世においては、モノとモノとが集積し、交換され、売買される空間のことを、「市庭( イ チ ハ ゙)」というだろう。あるいは関所などで払う交通税のことを、「庭銭( ニ ワ セ ン)」とも呼ぶだろう。また手習のための教科書として使われた冊子には、「庭訓往来」といったものもある。これは書簡体で書かれたものだが、もちろん文通という交通の意味があるからだろう。また江戸時代にもなれば、「庭銭」とは、荷物を宿や倉庫に預けるさいに支払う金のことであり、あるいは祝日などに客が遊女にあたえる金、その逆に遊女が置き屋の主人や奉公人にあたえた金のことをさすようになるだろう。それは遊女が異界との交通空間にいる者だからではないのか。あるいは庭番とは、各地にもぐりこみ情報を集めてくる忍者であり、あるいは共同体とその外との境界にある高木に登りもしやの敵を監視している者である。要するに、庭とは交通の、交易の場所といった意味をもたされているのであり、寺社の境内に庭が多く造られるようになったのは、そこが異界との境界としての、交通としての場所であり、また実際そこは市場=市庭であった。金融の発生が寺社とその僧たちではないか、しかも彼等が造営資金を捻出するためにあみだしていったのではないかという考証は、歴史学上あきらかにされつつある(網野善彦氏などによる研究)。
* 岩波古語辞典によれば、「庭」における「漁場」としての意味が転じて、「日和」となり、「風がなく、海面の静かなさま」をさすようになったとされる。小学館の古語大辞典の「庭」の「語誌」には、「家屋の周りの平らな土地や地面が原義であるが、これは同時に宗教的に神聖な場であり、農業のための生活の場であったと考えられる。やがてそこに草木が植えられ、池や島などが造られると、それはもう美観を主目的とする園(その)であり、山斎(しま)であって、「には」とは区別されていた。」と解説されている。学研の国語大辞典では、「庭」の「水面。海面」を意味する万葉集での用例も、「海全体を指すウミやワタツミとは異なり、眼前の一部の海面であり、海人にとっての生活の場・作業場・漁場としての意味と解される。」とされている。以上の慣用の考察からは、進士氏の語源に返った理解の方が、少なくとも日本(語)の文脈では、自明的であるとはいえないのではないか?>(ブログ「庭から森」/HP「庭へ向けてのエセー」)>
しかしそれは本当のことだろうか? 語源的な考察は、自然主義の一変種たるロマン派によくみられる傾向だが、それはわたしたちの生きた系譜を見失わせてしまいがちである。自分の遊び場のことをニワといい、ヤクザ者がここは俺のニワ(シマ)だ、と言う時、その用法には明確な囲いという常態的な安定ではなく、境界地がいつ塗り替えられるかもしれない動態的な不安定さを、あるいは生き生きとしたものを提示していないだろうか?
ニワとは、古語として「日和」とも表記されたりもした。(*)それは陸上の広々とした空間にたいしても用語されたが、おおくは海上の空間を意味し、また天候の善し悪しにも言われた。どういうことだろうか? それはこれから海へ、陸の何処かへと航海や旅にでるものが、その日の空模様と海の様を注視するにあたってでてきた語意ではないか、つまり、庭とは交通の、交易の空間としての意味が内包されているのではないのだろうか。(――おそらく漁場(天気)としての日和が、「島(シマ)」という造園作りの古語と結びつきながら、庶民的な営みの場で、「庭(ニワ)」として概念創造されていったのではないか――)だから、中世においては、モノとモノとが集積し、交換され、売買される空間のことを、「市庭( イ チ ハ ゙)」というだろう。あるいは関所などで払う交通税のことを、「庭銭( ニ ワ セ ン)」とも呼ぶだろう。また手習のための教科書として使われた冊子には、「庭訓往来」といったものもある。これは書簡体で書かれたものだが、もちろん文通という交通の意味があるからだろう。また江戸時代にもなれば、「庭銭」とは、荷物を宿や倉庫に預けるさいに支払う金のことであり、あるいは祝日などに客が遊女にあたえる金、その逆に遊女が置き屋の主人や奉公人にあたえた金のことをさすようになるだろう。それは遊女が異界との交通空間にいる者だからではないのか。あるいは庭番とは、各地にもぐりこみ情報を集めてくる忍者であり、あるいは共同体とその外との境界にある高木に登りもしやの敵を監視している者である。要するに、庭とは交通の、交易の場所といった意味をもたされているのであり、寺社の境内に庭が多く造られるようになったのは、そこが異界との境界としての、交通としての場所であり、また実際そこは市場=市庭であった。金融の発生が寺社とその僧たちではないか、しかも彼等が造営資金を捻出するためにあみだしていったのではないかという考証は、歴史学上あきらかにされつつある(網野善彦氏などによる研究)。
* 岩波古語辞典によれば、「庭」における「漁場」としての意味が転じて、「日和」となり、「風がなく、海面の静かなさま」をさすようになったとされる。小学館の古語大辞典の「庭」の「語誌」には、「家屋の周りの平らな土地や地面が原義であるが、これは同時に宗教的に神聖な場であり、農業のための生活の場であったと考えられる。やがてそこに草木が植えられ、池や島などが造られると、それはもう美観を主目的とする園(その)であり、山斎(しま)であって、「には」とは区別されていた。」と解説されている。学研の国語大辞典では、「庭」の「水面。海面」を意味する万葉集での用例も、「海全体を指すウミやワタツミとは異なり、眼前の一部の海面であり、海人にとっての生活の場・作業場・漁場としての意味と解される。」とされている。以上の慣用の考察からは、進士氏の語源に返った理解の方が、少なくとも日本(語)の文脈では、自明的であるとはいえないのではないか?>(ブログ「庭から森」/HP「庭へ向けてのエセー」)>
あちらとこちらの境界としての漁場は、陸地にあっては、住居と外との境界としての「土間」であり、そこは作業場でもあって、また「かまど」がおかれ煙があがっていたことだろう。そういう営みの延長として、「にわ」という音韻が「庭」という文字を受け入れる意味的余地を孕ませていたのだ。
公的建築にたつ磯崎氏の発言に、藤森氏が「そこにいるひとたち」と庶民的な異化を導入しようとし、その自分を異化してくれる藤森氏の建築立場を磯崎氏は意識的に挿入・操作しようとしている対談なのだろうが、私には、やはり公的談議に聞こえてしまう――のは、やはり私が「にわ」という語について、職人立場から考えてきたことがあったからだろうか?
とはいえ、私はその「庭へ向けてのエセー」(たぶん20年近くまえに初稿)を、磯崎氏の建築史論からの引用で作っていったのだった。今回の二人の建築談義で、「にわ」を注視するさいの中心の要因は、「石を立てる」、という行為と形象の問題であろう。私の「庭へ向けてのエセー」でも、中心軸は、「石を立てる」という批評行為にある。それは、テイとしての「庭」に対する、「にわ」からの反逆なのだ。
以下、二人の対談から、参考になる主なものを抜粋して、メモとしておく。
***** ***** *****
<藤森 なぜ人は石を立てるのか。人類はうんと早い時代にスタンディング・ストーンを立てますけれど、あれが太陽信仰と関係しているのは間違いがなくていろいろと世界中で実証されている。私がそれを実感したのは、イギリスの中部に、サークル状のスタンディング・ストーンがあって、そこに夕方遅くなってから行った。そうしたら、岩に触ると昼間の熱でほのかに温かい。いい気持なんです。太陽がこもっているように感ずる。立石が太陽信仰というのは考古学的に間違いない。石を立てると、地上の垂直軸として太陽とつながる。加えて、石がほのかに温かくなり、太陽がしみ込んだように体感される。そのことにイサムさんは理論的に気づいていたかはわかりませんけれど、看取しただろうと思う。
それともう一つ、日本の庭には夢窓疎石の問題がありますよね。岩にこだわり続けたが、おそらく地上の垂直軸としての立石という意識はなかったんじゃないかと思った。禅宗の面壁九年から来ていますから。
磯崎 大げさに言うと岩の中に入るとか上に乗るとか、そういう自然の中に入りこんでいくという感覚ですね。
藤森 岩とは、石とは何かを、ちゃんと論ずる必要がある。現代において庭を論じようと思ったら三つのことを論じないといけない。庭と建築との関係、庭そのものの意味、それともう一つは、庭で使われている土、石、水、緑が、人間や社会にとってどういう意味があるのか。…>
<藤森 独歩は雑木林が美しいとはじめて言った。それまでの日本人は、そうした自然を味わってはいたけれど、美しいと意識化していない。大きな自然についてはヨーロッパのアルピニズムが入ってきて、志賀重昂が『日本風景論』(一八九四年)を書く。信仰の対象だった山を景観として見て、登山を楽しむ道を開く。江戸時代まで自然観から脱することで、小川治兵衛のああいう平明な庭ができた。その後が問題で、よくわからない。その後、日本の庭は何を求めて彷徨っているのだろう。
磯崎 僕もまったく同じことを思いますね。たとえば夢窓疎石が一つの型をつくった。これを大名庭園風に組み替えたのが遠州たち。疎石がいて遠州がいて、あとは小川治兵衛しかないわけです。そうするとこの三人の庭を見れば日本の庭は全部なんだというくらいに考えられる。その後に我々は何をつくったらいいかといったら、もう虚構しかないんですよ。その虚構を、何を手がかりに虚構にするかということもそれぞれ問題が起こる。だから小川治兵衛の場合は田園的なもの、だから武蔵野であるとか田園のいろいろなもので、佐藤春夫、国木田独歩というように、あの時代の好みはみんなつながっていますよね。…>
<藤森 もともと石というのは寝ていて、寝た石を起こすことで人類の構築的表現が始まる。日本の歴史で言うと夢窓疎石です。それが小川治兵衛は嫌だった。石をもう一度寝かす。
磯崎 寝かしたままですね。
藤森 小川治兵衛の庭に行くと石は立っていない。この問題に意識的だったのは何度も触れますが、イサム・ノグチだった。イサム・ノグチ庭園美術館には自分の遺骨が入っている丸い石があって、立てて二つに割って中に自分の骨が入っている。人間がやる表現は、寝ていたものを起こすことだと、イサム・ノグチは身をもって表現した。
磯崎 それが立石そのものですね。庭づくり、庭の基本に戻ったということかもしれないですね。>
<藤森 人間の体は食べたものでつくられている。食べたもの以外ではできていない。私は人間の脳の中の画像処理能力は基本的に見たものでつくられているんじゃないかと思っている。見たものがいろいろな形で抽象化されて一種の銀塩写真じゃないけれど、外からの刺激に反応する視覚の粒子みたいなものがある。人間は見たものの中から何かをつくっているのではないかと思います。>――この発言は、私の「夢」分析と似ている。