荷を背負い自転車でゆく若人のスマホ片手の行く末は何処?
コロナ禍の規制振り切る帰省下の施設幽閉父不在の家
おいしいのよと近づいて摘んでくれたモロヘイヤたらちねの母小便の臭い
渋滞もなく日帰り送りの盆車中ライン通知の妻の病「虫垂偽粘液腫」
世の中はスマート社会へと痩せ細るのか? ウィルス・AI、人削除して
ひとつひとつのエセーに、日付がないので正確ではないが、おそらく時系列で並べられ翻訳されたジジェクの意見には、3度、トーンの変調があるようにうかがえる。当初は、ウィルス自体への不安(ショック)に彩られながらも、世界的に資本が停滞し共産主義的な事態に推移している人々の情勢をポジティブにとらえようとしている姿勢である。次に、翻訳での第9章「人の顔をした野蛮が我々の運命か」から、国家が人々を超えて共産(全体主義)化していく様に疑いを抱き始めて、当初の楽観性が消えていく。そして最後の補遺では、コロナ・ウィルス自体への注視が、その発生以前にあった諸問題に包摂され相対化され、科学的観点から政治的観点への重視へと、途中でおきた共産的現実への疑問が思考の根拠として折り返されて、ある意味ジジェク本来へのスタンスへと冷静に回帰していった、ともいえる思考過程である。
また日本では、「社会的な格差」よりも「人口の収縮」の方が深刻な問題になるだろう、と。だから、ドイツのように使い捨てではなく、移民を受け入れて少しばかりの無秩序を甘受したほうがいい、バランスをとったほうが、となる。となると、コロナ情勢認識と同様、世界と日本との現状の認識の乖離は、そのまま推移する、ということだろうか?
高校生の息子がいる私にとって、労働の問題は間近な現実だ。植木屋の職場でも、私が若かった頃にも若者がでたりはいったりしていたが、ここのとこ、40歳の若社長のもと、20歳前後の若者たちと接することが多くなった。初老が近い私には、若者との接触がメンタル的にはいいものだと、気づかされる。いやちょっと前は、若者がいても若社長の横暴で暗い組織だったのだが、私がコーチとして関わった少年サッカークラブ、若社長が小学生のときに不良対策として形成されたクラブが解散し(子供が逃げていく)、組織がなくなることは現実なんだと認識したのだろう、自分の会社もそうなるかも、と態度が変わってきたような。だから、いまは、けっこう明るくなってきたような。しかしその対策は、トッドが、同じものの反復になりやすい、という長子相続、父権的継承によってだ。トッドは、この家族形態では変化に対応できない、と指摘するわけだが、危機になればなるほど、そこで責任もってやる大変さを引き受けるのはみないやがるから、長男がやる、と逃げ場なく決まっていることと無意識に観念しているところは、当座は強くなるのかもしれない、ともみえる。権力をわたされる長男にも、うまみだけでなく、プレッシャーはものすごい。若社長、寝起きに呼吸困難になって医者にみてもらってもいたという。ストレスなんだろうから、医学的には原因未定だそう。
が、私は次男だからか、長男の発想、責任感がそもそもない、というか、知らなかったし、ゆえに、息子にも、自分のように生きてもらいたいともおもわない。しかしそれでも、最近、教科書とか参考書の類いにすぎないが、自分から本を読んでいる姿をみるのはうれしく感じる。夜に、ランニングとかもはじめたりする。結果現象はなんであれ、自ら考える力と体力を養ってくれたら、というのが私の願いだろうか?
ソ連が崩壊したとき、もと社会主義国の人民は勤勉に教育されているから、資本主義にとっては使い勝手がいいだろう、といわれた。が、いまの、より機械化以上にコンピューティングされた社会、労働形態では、毎日働けるメンタルもった労働者は疎んじられ、むしろ、あまり働きたがらない、テキトーな労働者のほうが重宝される、という傾向が強いだろう。派遣社員には、なお相手となる派遣会社があるが、ひとり親方的なフリーターでは、自らが資本家とされる。自転車もってるだろうが、と。テレワークは、会社員も、よりフリーランスな条件に追い込むのだろう。遠隔設備は自己投資が基本、の資本家にさせられていくのだ。息子が直面していく資本の現実=進行は、トッドが言うように、コロナ下で「加速」された。ジジェクがいうように、階級格差は、「生か死かの問題に直結」していく。生き延びてくれ、考える力と体力で、と私は息子に願うばかりだ。しかしだからこそ、この東京の自粛騒ぎの中での、友達とのバカ騒ぎも、私は否定しない。昨夜は、焼き肉屋だ、今日は、中国人を母にもつ家でのパーティーだとか。そのために、息子がコロナをひきつれて帰ってきて、私に感染させても、それでいい。現実が階層的なら、「連帯」が条件だ。引きこもりの私など、自己免疫でウィルスを撃退していくように、撃退していけばいい。「縊れた親を食い尽くして力を貯える獅子の子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」(有島武郎「小さき者へ」)新しい世界を、仲間といっしょに切り開いていってくれ。おまえは、エリートではないのだから。
テレビのニュースや都知事会見などみずに、直接東京都がだしているWEBサイト(https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/)にいって、データ・グラフをみてみるのがいい。「新規陽性者数」は増加しているが、甚大に増加しているとされるここ最近、「熱等相談件数」は減少し、陽性率は横ばいか減少(マスメディアはこれを増加といっているが、七月にはいってからは横ばい状態といったほうが正確だ)、「重症者数」も20人超えるくらいから、いまは15人にまで減少した。「入院患者数」は顕著に増加しているが、症状なくとも用心のために入るひとも多いだろうから、症状あるなし等の内訳がないかぎり、わからない。また、私が注目しているのに、「救急医療の東京ルールの適用件数」というのがあって、私の理解では、これは自分から症状がでているのではないかと申告し、医療崩壊を防ぐために、保健機関が検査を受けたほうがいいか聞き取り判断し、東京ルールにのっとって検査を受けさせた数、ということだろう。その数は30人くらいと横ばいだったが、7月半ばからは40人ぐらいで推移している(つまり、症状が出ている人は、実際にはそれくらい、ということなのではないか?)。ということは、現在のPCR検査数の多くは、「夜の街」とかターゲットをしぼった半強制的検査か、濃厚接触者への後追い検査数をたしたものなのだろう。海外出張とかで、陰性証明書が必要とかで、自費検査している人もいるだろうが、現在4千人規模の検査の内訳がどういうものなのか、私は知らない。
こうみるかぎり、これからの熱中症対策のほうが深刻だろうが、都政が方針を転回することは、すぐにはできない。小池都知事自身、自分の見方に疑いがでているはず、と私はおもうが、だからといって、では何が真実か、となると、これは不明なままなのだから、用心しながら政策を緩めていくしかないが、たぶん、梅雨明けて熱中症患者が増えて不分明さは増すだろうから、このままの方針でやっていくしかなくなるだろう。しかも、「疑い」に正直になって政治転換しようとなれば、国民の態度を急転回させる大義名分、説得論理が必要になる。状況証拠(データ)しかない状況では、転回は無理だ。ひと昔まえなら、天皇が、「忍び難きを忍び、耐えがたきを耐え…」とかいうと、右から左へと大展開できたわけだが、もうそんなことはできないだろう。だから、「ワクチン神話」を使って、もう大丈夫だから安心、克服をアピールするオリンピックへGO! 外国人をいれなくとも、もともと死者数データ少なく、自然免疫とワクチン免疫で強化された日本人観客+検査がらみ国際選手団だけでもやります! とか、なるんだろうか?
ここ2日の作業だけで、私はどうも熱中症だ。この時期はいつも、発熱気味。もう、コロナだかなんだかわからないが、私がかかっていれば、持病持ちの女房は重症化しているはずだ。カナリアの役割。買い物たのまれてでかけて、マスクもってくのを忘れて、散歩だけして帰ってくる日もつづいた。植木手入れのお客さんでは、マスクなどつけて対応してくる人など皆無なので、当初はアベノマスクを挨拶時だけつけていた私も、いまは何もしていない。だからふだん、マスクのことなど忘れている。が、スーパーとかいくと、みな、マスク顔。とても、ひとり素顔では入れない。(この落差は、考察の対象にもなるだろう。)最近は、遠出できない女房をつれて、車で買い物にいくことが多くなった。が、せっかくすずしい場所にきたのに、マスクをつけて、息苦しい。マスクは、地元群馬の企業支援のつもりで、桐生産のクールマスクをつけているが。しかしその群馬に、お盆に帰れるのか? 道の駅で、東京ナンバーは、落書きされたりする事件もあるという。しかし、車を傷つけられるのと、親の死に目にあえなくなるのとでは、どちらが大切なのか、常識的、人間的に考えてみればいい。いや、おまえのその無分別な帰省行動が親をより早く死なせてしまうのだ、と世の空気はなっている。思いやりをもとうとか。ペストのように、感染してすぐに死んでしまうと明確ならともかく、そうはなっていない、という状況は明確になっている。親が、息子ともうしばらく会えずにいたまま亡くなっていくことを望んでいるのだろうか? そこまでして、自分が、長生きしたいのだろうか? 私には、そうは思えない。カナリアが鳴かないままならば、リスクはあっても、親にあいにいくべきである。私は、そう判断する。
いつもでも、ふざけた、真剣身のない、頭だけで恐れている人たちの言葉にまどわされるべきではない。