映画『渇水』の脚本を担当した及川章太郎とは、早稲田大二文の同級生だ。私の学生時代は、人とまもとに話ができるような精神状態ではなかったが、それでも、よく話した友人ともいえる者が二人いて、及川はそのうちの一人だった。卒業後は、その誰とも付き合いはない。
がもう10年くらい前になるのか、別のもう一人と、ピナ・ヴァウシュのダンス公演の会場でたまたまあって、彼から、及川が脚本家として名前が売れてきている、と知らされたのである。がまた、いつしか忘れてしまった。
思い出したのは、ウクライナでの戦争がはじまったからだ。その周辺域のことを書いた文学作品を何か読んでみたくなって、何があるだろう、と思いめぐらしているとき、ふと、及川から『ブリキの太鼓』が面白いからと薦められていて、未だ読んでいないのを思い出したのだ。たしかギュンター・グラスはドイツ作家となっているけれど、ポーランド出で、当時つまり二次大戦時まではキエフもポーランド領域に入っていたはずだ。そこで、30年以上まえの話に従い、キエフの描写から始められるその作品を読んでみたのだった。
同時に、スマホで及川は今なにしているのだろう、と検索してみたのが去年の秋くらいだったろう。そこで、今年上映という『渇水』という映画の脚本を書いて評判になっていると知ったのである。学生中の及川は、授業中、ノートにポケモンみたいな不思議生物の絵をたくさん描きながら、ひとりほくそ笑んでいたものだが。
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予定よりいくぶん遅れて上映となったこの映画は、カンヌ映画祭で、脚本賞をとった是枝監督の『怪物』の上映と重なった。おそらく、この両映画は、だいぶ時代性やテーマとして重なってくるところがあるだろうと予測されたので、ともに観て、論じてみたいと思った。
両映画には、まず原作がある。『渇水』は芥川賞候補作となった同名小説、『怪物』は脚本家が自ら筆をとっているもの。そしてともに、映画の方は結末を変えている。『渇水』での姉妹二人、『怪物』での兄弟のような友人二人は、原作では大人社会に絶望するように自殺することになるが、映画では、どこか希望をもたせるような結末になっている。この変更は、小説という個人の頭で読み終えるものと、映画という大衆看視を前提にしているものとの、形式的な差異から要請されてくるともいえるが、それ以上に、作品のテーマや意味をより鮮明にしていく必要性として脚色された、と読解できる。どちらも、この今の時代をどう解釈し切り取っているか、という観点において、同じ認識を提示している。ひとことでいえば、日本における父性の不在あるいは卑小化、という認識を前提としているのだ。
最初に観たのは『渇水』からだが、まず『怪物』からはじめよう。
この映画は、新聞などの紹介では、黒澤明の『羅生門』に似て、事実が一義的にならないよう多角的な視点をとっている、とされている。が、おそらく見れば誰でもわかるように、事実は特定できる。最初は子供の母の視点、次に小学校の先生の視点、そして女性校長の視点、最後に子供の視点、と世界や社会を見ていく方向性は変わるが、下敷きになる事件の真相は特定できる。父親から虐待されていた子供が、ガールズバーで遊んでいる妻と別居中の父親を殺すために、その風俗店が入ったビルに火をつけたのだと。この父親は、エリート大学を出ていることを鼻にかけていて、自分の背の小さな息子が女の子のようなのが気に食わなく、普通の人、つまり「男らしい」人間に変える、もどしていくために、子供に「お仕置き」をしているのだ。「男」らしくない息子は「豚の脳みそ」が入っているからで、つまり人間ではなく「怪物」なのだと。映画タイトルは、直接的にはこのエピソードによるのだろうが、そこから色々な含みが加わり、より広い多義的な意味が重なるようになっている。
父親がおかしいのは、もう一人の背の大きな子供、最初の視点を持つ母の子供の家族においてもそうである。その子の父はすでに死んでいるのだが、ラガーマンであり、母(妻)は、愛人と事故死するような大した夫ではなかったが、息子にもそんな「普通」な人になればいいのだと願う。が、そう母が言ったのは、息子が、「僕はお父さんのようにはなれない」と呟いたその言葉を聞き取れなかったからなのだ。息子は、そしてその学校で女の子と仲が良くて女の子のような背の小さな友人も、実はお互いが性的に惹かれあう同性愛者なのだ。
しかし、同性愛者であるからといって、男性的な決然さの必要性から逃れられるわけではない。背の大きな子は、いじめられる背の小さな子と本当は友人であることをいじめっ子たちに見破れられないように、学校では話を交わさないようにしている。女子にはそれが見透かされていて、その情けなさを叱咤されるように、彼はクラスの優等生的な女の子から雑巾を投げつけられたりするのである。
そうした「普通」への同調圧力、事なかれ主義が横行しているのは、まずもって大人たち、学校の先生方の体制だった。赴任したばかりの担任の男性教師は、権威的な先生というよりも、学校で恋人とライン連絡しあう、ある意味子供とフェアな関係に近い、権威性が希薄な人物である。権威的であるはずの女性校長はじめ、すべての大人たちが、自分の立場や生活を守るために卑小になっている。校長は、自宅の車庫入れで孫をひき殺してしまったのだが、自分が刑務所に入れば生活がままならなくなるので、すでに退職している夫に肩代わりさせているのである。背の大きな男の子が、自分が秘密(同性愛者であること)を隠すために嘘をついて担任の先生を辞職に追い込んでしまったのだと告白したとき、校長は「いっしょだ」とつぶやく。罪(恥)の共有のような、大人も、子供も、弱い者として仕方がないのだ、と表明しているのである。
これは、どんな社会だろうか?
ひと言でいえば、社会学者の宮台真司が日本批判として言うように、ポジション取りしか頭がないようなクソ社会だ、ということになる。日本の文学史、あるいは思想史において、そう陥るまでには段階がある。ひとつは、敗戦後混乱期から高度成長期までの、<荒くれとしての父>、成長後の安定社会での、<規範(理念)としての父>、東西冷戦が崩れてからバブル崩壊を通して大まかにはアメリカWTCへのテロ攻撃までの、<享楽としての父>、である。
*以上の要約は、河中郁男著『中上健次論』(鳥影社)三巻本による。これは、日本の戦後思想を、中上健次と言う作家の作品を読解することによって批判した教科書的な哲学・文学書である。
アメリカの9.11からすでに20年以上が経っていて、さらに二節くらいの時代の変わり目が世界ではあるのだが、日本ではなお、資本主義の経済合理性の主要イデオロギーとなる<汝享楽すべし>のままだとみなしていい。というか、映画は、それを前提としているだろう。
父親や教師が、どれほど権威的に振る舞っても、それはもう機能しない。映画での子供たちがそうであるように、スマホを通して、彼らは「汝享楽すべし」という声を世界の父からの諭しのように聞き、従うのだ。そう同調圧力が、子供にも、大人にも、全面的に降りかかるのである。
では、そうした時代に、この映画は、どう対応すべき、と意味(方向)づけているのか?
原作では、単に絶望、であったろう。が、映画は、そうしなかった。むしろ、その宮台の言うクソ社会を、肯定してみせたのである。いわば、マッチョになるよりはいいだろうと。子供と「いっしょ」に、大人たちも苦しんでいるのだ、この父性的原理を欠いた煉獄のような世界を生きていくほかないのだ、と。
最後の、洪水後の山中を陽の光へ向けて走り抜けていった二人の子供の会話が象徴的だ。「生まれ変わったのかな?」「そういうのはないと思うよ」「ないか」「ないよ。もとのままだよ」「そっか。良かった」
では、同じ時代認識にたっている『渇水』では、どう意味(方向)を見出そうとしているか? 結論からいえば、私には、この作品の方が先進的であり、戦闘的であるように見える。
原作では、水道局に務める会社員の子供は娘であるが、それを映画では息子に変えている。その変更からも、この映画が、父性というテーマ、父と子という主題性を引き継ごうとしていることが知れる。「岩切」という会社員自身、母子家庭に近い環境で育った。停水執行することになった姉妹も、父は不在であり、母ひとりが水商売をしながら育てている。がそれでも行き詰まり、子供を捨てて家を出ていくことになった。原作では、この母は登場してこないが、映画では、どこか巫女的存在として中心的人物として顔を出す。岩切から「水」の匂いがすることで、彼が妻を大事にしていないことを予見するのだ。おそらく、彼が家庭や家族関係を大切にできないのは、すでに自身がそう育ってきているからである。後輩の同僚と街で飲んだ帰り道、向こうからやってきた男の子に水鉄砲で水をかけられる。男の子はすぐに消えてしまって、まるで幻覚だったかのようである。その子は、自身の息子、に似ていた(同じ子役なのではないかと思うが)。つまり、『怪物』同様、父殺しのエピソードが導入される。岩切は葛藤する。停水してしまった姉妹との出会いが、それをより大きくする。ここには、「享楽する父」よりかは、それとの間で、「規範(理念)としての父」が悩みはじめるのだ。というのは、すでに父不在で育った岩切には、そのモデルが、規範がなく、理念がわからなくなっているからである。だから、上からの指示を受け容れ、従属していくしかない。がこの父の不在の「流れ」を、なんとか変えられないのか、という思いもでてくる。父殺しの幻覚らしきものを見たあとで、岩切は、東京の水を全て停止し、それを脅迫に社会を変えようとする「テロ」のことを口にしたりするようになる。妻の実家をおとずれ、子供たちと「海」にいかないかと孤独な思いを改めて誘い、妻から断られたりする。
そんな葛藤の中で、岩切は、山中をさかのぼり、さまよい、源流に近い場所にある滝にでくわした。そのしぶきを浴び、見ているうちに、彼の内部に変革が起きた。彼は姉妹を誘い、節水のため取水停止中の公園にゆき、水道の元栓を開け、子供たちとホースの水を気が狂ったようにかけあう。止めに来た水道局の人たちに取り押さえられ、警察沙汰となり、辞職することになる。「しょぼいテロ」だったと、後輩の同僚との別れ際、口にしてみせる。が、そんな行き場のなくなった岩切のところに、妻から電話がはいる。スマホに出ると、息子からの声だった。「海」に行きたい。岩切の笑みで、映画は終わった。
岩切の内部を変えていった「滝」は、「しょぼい」滝である。それは、決してヒューマンスケールを超越した、<崇高>なる自然ではなかった。世界哲学上、この超絶した崇高さが、人に規範(理念)を与え、命を投げ出しての価値、いわば、宗教に代わる国家主義になっていったとされた。が、この「滝」はしょぼく、そこから起きた変革も、「しょぼいテロ」になった。が、それが重要なのだ、とまず映画は暗示させるのだ。「岩切」、という、その名前を喚起させることによって。何が、岩を穿つのか? 一滴の水、である。水滴岩を穿つ。つまり、われわれの「しょぼい」一滴一滴が、堅牢な岩を切っていくのだ、とメッセージを送っている。が、どんな岩なのだ?
この映画の場所は、群馬県である。原作では、東京の西部の、多摩あたりの設定である。海のない群馬県民にとって(私もそうである)、「海」とは、千葉や茨城の太平洋を指示しない。それは、新潟を意味する。山を越えた向こうの、日本海に向かう方が近い、というか、親しいのである。とくにはそこの、鯨波が、定番だったような気がする。文学作品において、海とは、憧憬であって、その向こうの、桃源郷としての大陸が夢見られる。日本海の向こうにあるのは、なんだ? それは、中国なのである。失業し、今後の生活の不安を引き受けながら、岩切は、実は、海の向こうの中国を直視しているのだ。作品的にも、一見リアリズムにみえながら、神話的な女性の役割が導入されたりして、思考抽象的な位相が志向されているのである。最後の彼の笑みは、どこか不敵である。ナショナリズムにならない、父不在なわれわれの、一滴一滴の雫によって、その堅牢な父権原理の文明に挑戦する、と言っていることになるのだから。
先に、私は、日本の思想史上において、父性的なものの役割(機能)の変遷について言及した。混乱期を乗り切るための<荒くれの父>、安定した社会を導いていくための<規範(理念)としての父>、そして子供たちと一緒のように遊ぶ<享楽する父>、という三段階である。がそのあとにも、二段階があった、と述べた。ひとつは、バブル崩壊で、資本の自由に任せきりなのはよくないと国家規制が強化された段階、そしてもう一つが、コロナ禍とウクライナ戦争によって露呈した、国家原理を超えた強権の存在である。つまり、かつての帝国的な文明としての、中国、ロシア、等、ユーラシア世界の台頭である。
この時点から見たら、資本主義が共同体を破壊できたのは、結局は大陸の西端(ヨーロッパ)と東端(東アジア)、だけで、文明の中心地はむしろ資本こそを食い物に、その父性原理は、マッチョさは、びくともしていなかったのではないか、と思わざるを得ない。去年、哲学のノーベル賞と呼ばれるものを受賞した柄谷行人の『力と交換様式』なども、資本一点張りの考え方を相対化するための論考になるのだ。
映画『渇水』は、この時代転換に対応している。『怪物』は、できていない、ということを、職人芸的な技術によって昇華させてしまっている。その趣向はどこか、東京オリンピックの開会式などを電通などともに芸術化させた、クールジャパンなる内向きのイデオロギーに従属しているように見える。
*河中郁男の『中上健次論』も、1980年代のバブル期までが射程なのだが、その指摘をひきついだ論考を、このブログでの「中上健次ノート」として書き込み中である。