先週の22日夕刻、夫の私や息子、そして妹に見守られながら、いく子は亡くなった。
前日の土曜夕刻、持病とは別の、脳内出血によるものだった。
一昨日27日、身内や、娘時代のいく子を知っている近所の人たち、ダンス仲間やその先生、東京中野区在住時の地域活動仲間、いく子を慕っていた息子の小・中学時代の友人たち、そして息子の職場の警視庁の方々等によって見送られた。
葬儀は、無宗教形式と呼ばれるものでおこなった。
子供の頃からこれまでの、アルバム編集のDVDスライド、献花のあと、「あいさつ」とタイトルされたいく子の公演動画上映後、ひきつづき、喪主のあいさつとして、私が彼女と共演した。
……
今日は、いく子のためにお集まりいただき、ありがとうございます。
私は、おばさんになってからのいく子しかしりません。彼女が四十、私が三十すぎに、出会いました。葬儀のサービスとして、アルバムスライドを編集してくれるというので、まだ彼女の実家へと引っ越して一年あまりにしかならない家の押し入れから、積みおかれたままのアルバムを取り出してみていますと、可愛いというか、彼女は、クラスの華だったのではないかと思います。活発で、外交的で、優秀でもあったでしょう。しかしそんな彼女は、四十まで結婚しなかった。私と写ったスライドでは美人に見えるところもありましたが、あれは写真うつりがいいので、実際は、おばさんです。彼女は、良家のお嬢さんでもあったから、お見合いもあったでしょう。が、彼女はそれをこばんだ。そして、ダンスを選んだ。
配布された案内のカードには、私と彼女は、芸術のグループで出会ったと書いてありますが、そのグループはそのまえに、世の中を変えていこうという、社会運動のなかの芸術部門でした。その創立者は、去年だったか、アメリカの研究所がだしている「哲学のノーベル賞」と呼ばれるものを、アジア人としてはじめて受賞しています。運動は2年で解散しました。
結婚前だったか、あとだったか、彼女の公演をはじめてみたそのタイトルは、「テロリストになる代わりに」、というものでした。クラスの華だった女の子に、何がおこったのでしょう? 私は、その組織の中で、彼女のことを、遅れてきた永田洋子かとおもいました。おそらく、世の中にでていくにあたって、彼女は、何か認識を、普通にはいけない認識をもったのだとおもいます。
息子が、警察官になりました。最初の勤務地が、銀座あたりだったので、勤務早々、あの息子と同年代ぐらいの若者たちがおこした、銀座の強盗事件に出くわし、現場にかけつけました。話によると、その主犯格の18歳の若者には、家族がなかったそうです。まさに「家なき子」たちが借家にあつまって、電気も、ガスも、水道も止められ、寝るだけのために集まっていたそうです。是枝監督の『万引き家族』も、まさに「家なき子」たちが同居して万引きによって生計をたてているというものでしたね。そして『家なき子』という映画は、二十年以上も前ですか、アダチなんとかいう女優で、「同情するなら金をくれ」というセリフがはやりましたね。それから、何もかわっていない! 犯罪は、起きたものは、とりしまることができます。しかしその発生を、どうやって防ぐことができるのか? 私はいま、テロや犯罪を呼び込むような新興の宗教につけこまれるスキだらけですよ! この悲しみは、防ぐことができない。だから、犯罪やテロが発生する「代わりに」、彼女はダンサーになった。
しかし、子供が成長し、彼女は踊らなくなった。視聴していただいた先ほどの公演が、最後だったようにおもいます。
人間は、考える葦である、という言葉があります。つまり、考えることをやめたら、人は葦のように枯れてしまう。物書きは物を書くことで考え、絵描きは絵を描くことで考え、ダンサーは踊ることで考える。書くことを、描くことを、踊ることをやめてしまえば、死んでしまう。だけど、おまえは生きているじゃないか? ダンサーなのか? 生きてるじゃねえか? 私は、そう問い詰めたこともあったかもしれません。が、私は間違っていた。
いく子の最後の日です。ちょうど夕食を作っていた時でした。近所のアパートに住んでいるお年寄りが、道に落ちていたといって、財布を家に届けにきたのです。班長の看板が門にかかっているので、こちらに持ってきたということでした。いく子が対応し、彼女は交番にゆくことにした。私はその夜、夜回り隊の当番でした。が雨が降ってきたようで、中止になって、家にいたのです。帰りがちょっと遅くなってるような気がしたので、迎えに行こうかとおもいました。がそのうちに、玄関の鍵の音がガチャガチャし、ほっとしました。いく子は、靴が濡れたのでしょう、靴をもって台所にまでやってきて、台所のドアを開けて、外に靴を干そうとしたようでした。まるで幽霊のように歩いてくるので、変な気がしました。ドアを開け放したまま、靴を持ったままもどって、台所の椅子に腰かけました。そのときはじめて私は(テレビから)顔をあげていく子の顔をみました。みてすぐに、認知症になっているというか、おかしくなっていると気づきました。「交番いってきたんだよね?」「俺のことわかる?」「自分の名前がわかる?」いく子は、何も答えませんでした。目を見開いたまま、私をみている。医師の話によると、言葉をつかさどる領域近くから出血したということですので、何を言っているかわからなかったのでしょう。だけど、視覚はあって、私のことを認識できていたのかもしれません。私はかけつけて、頭をなぜた。そのうち、脱力したように私の腕の中に倒れてきたので、床に寝かせました。途中で転んで頭をぶつけたのかもしれないとおもって、その近所の交番に電話をかけました。こちらの住所をいうと、最近の何丁目のものでなく、昔の千何番とかの住所を書いていたことがわかった。交番のおまわりさんもすぐに察して、電話はこれで間違いないですか、と確認してくる。電話は新しいものでした。つまり、古い記憶と新しい記憶がごっちゃになっている。帰ってこれなかったら、行方不明だった。気力で、帰ってきてくれた。私のいるところまで、もどってきてくれた。そして崩れた。それが、彼女のダンスだったのです。私は、間違っていた。彼女は、私に、身を以って、何かを伝えた。人として、大切なものがあるのではないかと、自分の体を使って、私に、私たちに、伝えてきたのだとおもいます。彼女は、最後まで、ダンサーだった。
これが、二人の最後の共演になりました。どうも、ご視聴、ありがとうございます。