2008年8月26日火曜日
日本プロ野球と中国オリンピック
「封建的」と「アジア的」という対概念をなすこれらの言葉は、マルクス主義の歴史理論において世界認識を左右してしまうほどのきわめて大きな意味合いを持っているにもかかわらず、そのような問題意識はいまだに一般的なものとなってはいない。ここで「封建制」=前近代とされる図式は、いうまでもなくスターリンによる史的唯物論のいわゆる「五段階発展説」からアジア的生産様式が排除されたことに由来しており、いいかえればその悪しきスターリニズムの影響力は、今日の世界でもなお深く影を落としているといわざるを得ない。本来的にはこの「封建制」こそが、商業ギルドや職人団体などの独立した「政治的市民共同体」を自由都市において育み、その結果としてトータルな西欧近代市民社会を開花させることとなったにもかかわらず、正統派マルクス主義はそれとはまったく逆に、「封建制」を前近代と見なし、例えば本来「アジア的」社会であるはずのロシアも中国も、この「封建制」のカテゴリーで理解してきたのである。この問題性についての最近の論考としては、柄谷行人の「革命と反復:第三章 封建的とアジア的と」……(石井知章著『K・Aウィットフォーゲルの東洋的社会論』社会評論者)
中国でのオリンピックで惨敗してきた日本代表の主将宮本選手は、韓国戦での最後の球を韓国人右翼手が倒れるようにして捕球した様をみて、「思い」の強さが違った、と涙まじりに告白していた。技術的に日本の選手が劣るということはないのだから、精神面が反省の対象とされてくる、のだろう。というか、私は要は、やる気がおきなかっただろうとおもう。無理やりモチベーションをあげようとしたが、どうも無理だった、ということだ。そしてそれは、プロとして、あるいは人並みなプロとして、当たり前なのではなかろうか? アメリカでのメジャー選手がこないのはむろん、そこに仕事をしにいっている日本選手も同様、仕事を休んでまでお国のために時間を犠牲にすることが、どれだけ自分をして失業の憂き目を惹起させてくるのか……いまや日本のプロ野球選手はそうした世界市場的な競争の中に放り込まれているのだ。サッカーのワールドカップでさえ、もはや国別対抗の大会には意義が薄れ、選手も乗り気にならなくなっているというのに。当初は辞退していたジダンはどうしてもとフランスに呼ばれ、あげくフィールド上でおまえのアルジェリアの姉ちゃんは売春婦だろうとか言われて退場のはめになる。なんで、自分の仲間(移民)たちを抑圧排除しようとする国家のために働かなくてはならないのだろう? 韓国人選手は、オリンピックで金メダルをとれば徴兵制が免除されるから動機の強さが違うのだというが、そもそも、オリンピックに誘致されること自体が徴兵制なのだ。それは、自分の仕事を台無しにする、そういう現実的な情勢の中に各個人が放り投げられているのが歴史の先端なのだ。いつから、いやどうしてアマチュアの大会に日本のプロ野球選手が全面的に協力させられるようになったのだろう? おそらくは、官僚的になった2流の元選手たちが暗躍しはじめたのだろう。東京にオリンピックをもう一度などと、先端の切っ先が見えないお偉いご老人方が線香花火を打ち上げようとする政治的動きと連動して。私は、オリンピック帰りの野球選手には、負けを恥に変えようとする国民世論に対し、もっと常識的に憤ってほしいとおもう。泣いているほうが恥である(「世間に申し訳ない」、ということか?)。自分が仕えているのは誰=何なのか、はっきりとした自覚をもっていれば、こんな転倒した事態は生じない。公共工事だからといって、素直に赤字を引き受けて受注する会社があるだろうか? そのことが会社の体力を奪ってしまうとわかっているのに。……しかしオリンピックの成功に必死な中国ではどうだろう? (近代)国家としてのまとまりの実現を証してみせなくてはならなかった中国では? 韓国が朴政権下、ソウルから釜山までの高速道路を建設したときには、国のためにとやらされたいくつもの企業が倒産したそうだ。
オリンピック騒ぎあとの雨つづきで仕事を休み、中国関連の映画を二つみてみた。『天安門、恋人たち』と、『いま、ここにある風景』。どちらも相当解釈的な邦題らしく、原題は『頤和園』、『Edward Burtynsky; Manufactured Landscapes』。中国での民主化の動き、と産業化の生態、とでもいおうか。そしておそらく、原題が上のように意訳されていること自体が、根本的なところでわからないから、鑑賞者の日本人にはわからないだろう、と忖度されたからではなかろうか? 前者の映画をみて、いったいなんで「天安門(民主化)」がおき、おこした(参加した)若者たちが何を望んでいたのかは不明のままであるだろう。それは、始め(動機)も終わり(結末)もないような断片の提示であり、断片的な時間(流れ)の羅列である。後者をみて、なんでそこまで大規模的な開発がおこなわれ、世界の(リサイクル)ゴミが山というより山脈として積まれているのかわからない。まさに、「いまここにある」ものとして、理由もなく圧倒されるだけだ。しかし最近、「アジア」観点にかかわるものを読んでいた私には、わかるかも、という期待=読解が想念されてきた。たとえば、前作で、ベルリンにいった天安門参加者の中国の女性は、なんで民主的な友(欧米人との交流)の目前で、突然屋上から飛び降り自殺したのだろう?(そしてこの問いは、どうして中国にとどまった主人公の女性がセックスを安易に繰り返すのだろう、という疑問とパラレルになる。)映画監督自身、あの事件後を生きるあの世代の精神の混乱を描きたかった、というくらいだから、映画自体からは、その動機を推し量ることはできない。そこにあるものとして投げ出されているだけだ。が、そこで私に見えてきたのは、民主的なデモが繰り広げられるベルリンという都市の中で、あの中国の女学生を死へと追いやったものとは、自身に流れる民主の時間と、ヨーロッパに流れる民主の時間との差異のせり上がり、だったのではないか、ということである。ヨーロッパ近代文学的な、といおうか、男との三角関係、などではない、ということは、映画からもはっきり推し量られる。セックスは、個人の自由=欲望を発現させてくれるものではないのだ。同様、中国にとどまった主人公も、個の実現、としてセックスを実践しているわけではない、そのようには全くみえない。ゆえに、全裸のセックス描写が中国では初だとされても、チャタレイ婦人のようなスキャンダラスにはなれない。この映画が中国権力側から問題視され、監督が5年の活動禁止を受けたのは、まさに「天安門」という民主化の題材に触れているからであり、それが、中国の現今の不安定をリアリズム的に露呈させてしまう可能性があるからだろう。そしてそのように、この主人公=女が描写されている、ということなのだ。つまり、本来中国とは、男など何人も受け入れようが揺るがない悠久な女帝の庭=頤和園(…これは清末の西太后の避暑地の庭園のこと)であるはずなのに、もはや揺らいでいる、その帝国としてのバランスを欠いて混乱している、という表明になっているからである。(――西太后の庭園建設=奔放によって清が滅んだともいえるように、今の中国もオリンピックの開催によって云々という寓意もが成立するだろう)。そしてなお推論的にいえば、この映画がその混乱を反映することができたのも、「天安門」事件の主導者ではない一般の者を主人公に据えたからだろう。この事件のとき学生だった私が当時記事とうから受けた印象のひとつは、その指導者の男や女たちは、まるで帝王的な考え方をしているな、というものだった。たしか指導者の女性のひとりは、民主化実現のためのある段階では「血が必要だ」と言っていた(そういうドキュメンタリー映画があったような……)。ベルリンでの女性の自殺は、そんな女帝的強さをもてない末端の中国人女性の内にもある<「民」という観念>と、欧米社会に底流する<「民主」という制度>との葛藤に耐え切れなくなったからではないか、という気がしたのである。
映画の最後、ベルリンで自殺した女性の言葉が紹介される。――「愛するのは自由だが、死はみなに訪れる。光を求めていれば、闇を恐がることはない」。冒頭で引用した著作の次の言葉を対応させてみよう。――「……中国の「民主」とは人民を恐れた専制統治階級が自らの専制統治を擁護するために「与えた」ものであり、こうした「民主」を実行する「開明専制」とはもともと「封建的」(=「アジア的」)意識を構成する一部であるに過ぎないと指摘している。それはウィットフォーゲルの言葉でいえば、人々が権力との闘いの中で勝ち取ったものでなく、専制的支配者から「恩恵」として与えられた「乞食の民主主義(Beggars’Democracy)であることを意味している。こうしたコンテクストでいえば、断固たる反専制の立場が依拠すべき政治的価値が、仮に「自由」であっても「民主」ではないにもかかわらず、劉は専制主義を容易に正当化し得る「民主」の論理に批判の根源的拠りどころを求めてしまったのだといえる。だが、まさにウィットフォーゲルが『東洋的専制主義』の末尾で強調したように、「結局、全体主義的敵との闘いで犠牲を甘受し、予想されるリスクを賭ける意志は、二つの単純な争点――隷属性と自由――の正しい評価にかかっているのである。」
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