2009年1月28日水曜日
韓流と民衆
「民主主義は、それ自身の活動の不変性にのみ依存する。思考の権威を行使することに慣れている人々にとっては、ここには恐怖を引き起こす原因が、したがって憎悪を引き起こす原因がある。しかし、知性の平等な力を<とるに足らない人々>と共有することのできる人々においては、逆に、勇気を、したがって喜びを引き起こすことができる。」(『民主主義への憎悪』ジャック・ランシエール著/松葉祥一訳 インスクリプト刊)
去年4月、職人仲間で韓国はソウルへいくというので、その予備知識のためにもと、韓国の歴史ドラマをみはじめてからおよそ一年。周2本のDVD観賞をこなすことで、ようやく3本の作品を見終えることができた。子供が寝静まった夜半に起きるのは大変でもあったが、私も韓流にはまったのだろう。『朱蒙』『薯童謡』『商道』の3ドラマ……といえば、どれもイ・ビョンフン氏が演出や監督に関わった作品である。他にも歴史ものの第一回目とうをみたものもあったのだが、俳優同じでも演技やセリフが臭く、なぜか結局この演劇界出身で大手テレビ局に所属していたというベテラン監督のものに見入ることになったのだった。
何故私は面白く見ることになったのだろう? 子供のころ、よく親といっしょにNHKの大河ドラマを見ていたが(最近は見ていない―)、面白く感じるそこになにか違いがあるような気がする。記憶にある印象だけで敢えて言ってみれば、日本のドラマが人間心理劇的な展開であるのに、韓国のそれらは神話原型的な反復であるということだ。ぺ・ヨンジュン出演の『太王四神記』の高句麗王はやたらと哲学的な物思いにふけはじめるが、それも近代的な心理劇を超えている。つまり個人の話にはならないのだ。イ・ビョンフン氏は平田オリザ氏との共同演劇の試みの際に、「韓国側が書いた台詞の中にドラマチックで詩的な表現が多かったんですね。反対に日本の場面を見ると、言葉も少なく、内容も詩的ではなく、ひじょうにリアルで日常的な内容が多かった。」と発言しているが(日韓交流通信)、この「詩」と「日常」という言葉の対比にも、私が感じる違いが重なっているのかもしれない。だとしたら、なぜ近代の個人(日常)心理を捨象した、そんな時代錯誤な前提、神話的に定型化された詩的誇張のほうこそが説得的な迫力をもって私を捉えたのだろう?
これらドラマの人間の価値判断の下敷きにあるのは、いわば封建的な主従(位階)の役割である。『薯童謡』ではこの役割と戦っていく男女の恋愛劇がストーリに設定されているけれども、革命(破壊)的なものではない(その点他のドラマの男女間と同様)、体制の筋を守りながらの闘争が前提である。「私には王子のいうことは理解できないが、王子に従っていく」という『朱蒙』の忠臣たち。「自分が王になったら何をするかばかり考えていた王子は無能な怠け者にみえた。そして自分は、どうしたら王になれるかばかり考えていた。」とその世襲(正統)の現実に圧しつぶされていく『薯童謡』での百済の暴君。より近代に近い『商道』の世界は、下克上の隙もないほどの官僚社会に覆われているが、役人としての公務をも兼務することになった商人の苦境を救うのは、王との直接的な主従関係からくる信頼である。そしてその彼が信条として手放さないのは、「商売とは金ではなく人を残すことだ」という師匠の言葉であり、ゆえに利益主義的に価値を目的化させた商い組織ではなく、官僚(目的)組織下では無能だと解雇されそうな、酒好き女好きの「とるに足りない人々」を再編し再起していくのだ。このような封建主従的なドラマの下地は、職人世界にいる私をして親近感を抱かせ、確かに私はこんな世界の中でこういう人物たちと一緒に仕事をしているなあと思わせるのだった。とすれば、封建主従的な人間関係と、人間を越えた神話的な定型世界との、どのような折り合いが私の心を揺さぶるのか? そしてもしこの感動が私の属する時代遅れな特殊性(職人世界)に限定されるわけでもなく、韓流としての<われわれ>をも考慮可能な一般性を孕んでいるとするのなら、私<たち>を動かしているものの正体とはどのようなものなのだろうか?
<われわれの見るところでは、一九六八年を頂点に一九八九年まで続いた世界革命は、集団としての社会心理を不可逆的に変容させてゆくプロセスであった。この革命は近代化の夢との訣別を決定的にした。すなわち、人間の解放と平等を求める近代の目標追及を終わらせたのではなく、資本主義世界経済を構成する国家がそうした目標の達成に向って着実に前進することを容易にし、保証する存在であるとは、もはや見なされなくなったということなのである。>(『転移す時代』I・ウォーラスティン編/丸山勝訳 藤原書店)
<現在でも、共産主義やマルチチュードの民主主義の希望を支えているのは、このヴィジョンである。それによれば、ますます非物質的になってきている資本主義的生産の形態、コミュニケーションの世界への集中化によって、今後新しいタイプの「生産者」の遊牧民(ノマド)が形成されることになる。またそれによって、帝国の障壁を爆砕するのに適した集団的知性、集団的思考力、感情、身体運動が形づくられることになる。〔しかし〕民主主義が意味するところを理解することは、このような信念を諦めることである。>(『民主主義への憎悪』 ランシーエル)
国家の能力に対する「市民の信認は消滅してしまっている」ような状況下では、「他の集団、他の共同社会(ゲイマインシャシュト)が示す優先順位が説得力を増してくるのは当然である」とウォーラスティンは認識している。革命的ではない<私>たちが新しき「他の集団」(マルチチュード)ではないだろうから、ならば、実質的な強度をもった制度としては破壊喪失されてしまったけれども、その形骸として痕跡する封建遺制(=ゲマインシャフト)へのノスタルジアに衝き動かされているのだろうか? おそらくポピュリズム(流行)として半分はそんな反動なのだろう。日本人にしてみれば、韓流の堰を切った『冬のソナタ』は懐かしくも神話風な学園物語だし、そして韓国人にしてみれば、歴史ドラマの主たる舞台は失われた風土、今の北朝鮮なのだから。韓国人には、自分たちが長いものに巻かれて捨ててきてしまった朝鮮人としての精神をなお固持している北側への負い目があると指摘されたりもする。つまりそのような自己(国家)への揺らぎが、日本人/韓国人両者の違いを超えて、より確からしい歴史体制(過去)を召還=償還しようとしているのかもしれない。しかしならば、この保守安定への希求には、反動といってすますわけにはいかない、人の営みとして正当な償いが潜在している、いやつきまとっているのではないだろうか?
ランシエールは、「民衆(「とるに足りない人々」・「分け前なき人々」)」という概念は、「構造的な意味において理解されなければなりません」と述べる。――<この語が意味するのは、労働に明け暮れ苦しみにあえぐ住民のことではありません。今日、除外された者と呼ばれている人々のことではありません。「分け前なき人々」とは、一般に、統治する資格をもたない人々によって形づくられる潜在的な全体を指します>と。いわば「民衆」というのは、表(ちまた)に現れる現象意識的なものではなく、目に見えない無意識的な構造として働くものなのだ、ということだ。この保守反動を批判するランシエールの著作『民主主義への憎悪』を去年の推薦3作品にあげた柄谷行人氏は、「平等主義」とは「各人の嫉妬」や「復古主義的な願望」ではなく、精神分析的な「抑圧されたものの回帰」なのだという。(『at14号』「権力論」)ゆえにこの強迫反復は、<人を強いる「力」、倫理的な至上命令として出てくるのだ>と。私には、この仮説の是非を判断することはできない。ただ韓流の歴史ものを三つばかり見た私の感想には、ノスタルジー(復古)には回収されない、もっと生き生きとした、「とるに足りない人々」と喜びを分かち合える生活観が介抱されてあるような気がするのである。それは、私に元気を与える。
2009年1月5日月曜日
世界のあとさき
「このように隠然とした資本の理論に沿って考えると、世界が多極化に向かうことは、これまで高度成長の対象から外れていた中国やロシア、インド、ブラジルなど、大国だが先進国ではない諸国にとって、経済成長のチャンスがもたらされることになる。逆に、ロシアや中国、インドなどが「社会主義陣営」の中に組み込まれ、欧米資本が入りにくかった冷戦時代と同じ状態が続く限り、これらの大国には経済成長の機会も少ないということになる。
ビルダーバーグ会議に象徴される欧米資本家たちが世界の多極化を目指しているとしたら、それはアメリカだけが世界の経済成長を牽引する従来の経済体制から脱却し、他の大国が経済成長できる素地を作るためだろう。資本の理論が秘密主義にならざるを得ないので、世界システムに関する分析は仮説の連続になってしまうのだが、私はそのように考えている。」(田中宇著『非米同盟』文春新書)
元朝参り、田舎の神社に賽銭投げて、願い事は何だと息子の一希にきくと、「戦争がおきませんように」と答える。年末のテレビ番組の「ドラえもん」を二人で見ていても、その番組企画、スペースシャトルにのる若田光一さんに手紙を送ってお星様に願い事をとどけてもらおう、というのをきくと、自分も送りたい、と言い出す。どんなお願いをお星様にするのだ、ときくと、「世界のみんなに事件がおきないように。」と答える。私が新聞やテレビをみながら、外国の紛争や国内の幼児が巻き込まれる殺人事件について口にしているのを耳にすると、聞くのもいやなように逃げていくのが普段の一希なのだけど。「なんでママが子どもを殺すの?」「なんで戦争はおこるの?」と聞かれて、理由というよりもそれが起こったさいに記事としてわかっている事情を話してやるにしても、まったく腑に落ちてこないようだった。少なくとも、家庭に恵まれている子どもにとって、その両親からの愛情が考えていくための基礎公式になるからか、悟性的な計算(推論)では理解できない事態なのだろう。ただ子供たちにとって、嫌な事件だということが、なにか身を持って理解できてしまうことなのかもしれない。チェチェンでの戦争に際し、両親をロシア兵に殺された子どもは、その兵士もまた大統領の子供のような存在なのだから、悪いことをたくらんだ大統領だけを山に幽閉しておくだけでいいじゃない、と言っていた。自分のように子供が悲しむのだから、それ以上の悲しみを増したくはないと解決策を説くのである。
年初からして、経済危機を越えて、というよりそれを巻き込んで政治的にきなくさい臭いが立ち上がり始めた。私は、パレスチナの現実の複雑さを知らない。ただ子供と過ごす時間が、明日にはなくなるかもしれぬ貴重な時間のように思えてくる。そしてそれに溺れることが、国内の、身近に生起してくるもろもろの出来事によって批判されてくるのを感じる。「派遣切り!」と若者が包丁を振り回して捕まった事件の起きる少しまえ、女房と私と一希はその六本木ヒルズの森ビルにいたのだった。今年高校受験を迎えるはずのペルーの友人の息子は、日本の中学卒業と同時にペルーにもどることになるという。大手町の弁当屋に勤める彼の奥さんは、今年になって派遣会社が変更になって、時給が900円から800円になった、正月休みというのも一日もない、と言う。
しかし、日本という外国で生きる彼・彼女たちには、そんな中でも後ろ向きになるのではない前をみつめる姿勢=術が、生きる習性として身についているようにも感じる。子供の教育に対しても、ごく自然なように、姉がいるアメリカ、友人のいるフランスの高校へ、と選択肢を拡げて視野に入れてくる。私が彼らとつきあってためになるのは、暗さに甘えない元気と他の思考へのきっかけをもらえることだ。
つまり、さて世界はどうなるか、ではなく、さて私は世界をどうしようか、ということである。