2009年5月28日木曜日

責任と個人の狭間

「「参加はするが指揮は受けない」という議論に関連し、一つだけのべておきたい。イラクに派遣された自衛官は、本当に見殺しにされかねなかった。自衛官の人たちをどうやって法的に保護するのか、そのことを全然議論していなかった。…(略)…そういう状況下での自衛隊派遣であった。国連平和維持軍に参加する場合は、指揮権を国連にゆだねるので、国連の外交特権を得られる。ところが、イラクでは、国連平和維持軍ではなく有志連合軍である。さらに、「参加はするが、その指揮下には入らない」という小泉首相の当時の国会での答弁。現場から何千キロも離れた東京から防衛庁長官が指揮をするという。自衛隊は、法的な観点からも、指揮権の観点からも、ゲリラ部隊だった。
だから、自衛隊の人たちは殻に閉じこもったのである。事件を起こさないように、イラクの人びとを殺さないように。現場で、みずからが置かれた現実を即座に明確に判断したのは彼らである。」(伊勢崎賢治著『自衛隊の国際貢献は憲法九条で 国連平和維持軍を統括した男の結論』かもがわ出版)


私が団塊世代の職人さんにかわって、学校や福祉作業所などの公共施設関連への植木剪定作業にいかされはじめた頃は、ほとんど一人きりでの現場だった。直請けとしての民間の仕事が入れば、そちらを優先し、年間の公共管理仕事などは本来の仕事がないときに職人をその場しのぎにおくってやれるために保持しておくための現場で、ゆえにできるだけ一年かかるように引き伸ばしてやる、という経営上の計算からの処置だったろう。そして徒弟的には、職人肌でもない馬鹿な大学でにそうした半端仕事をひとりでやらしておけばいい、あんな仕事でもないものしか普段やっていない奴はいつでも軽蔑できる、そう言いくるめられるという職人としの立場上の優位を保持してみせるためでもあったろう。それゆえ私は、20メートルかそれ以上もあるケヤキやサクラの木にひとりしがみつき、木の下が家などの場合のロープを使っての吊るし切りなどのときには、なにせ地面まで降ろした枝に縛ってあるロープをほどいてくれる手元もいないわけだから、ロープ三・四本を体に巻きつけて、まるでシルベスタローン演じるランボーよろしく、鉄砲玉が数珠繋ぎのベルトになっているのを巻きつけているようにして機関銃ではなくチェンソーを樹上でふるっていたのだった。「あんなの一人でできるよな」と親方は冷たく言い放って送り出し、元請けの社長も、一人できたことに渋い顔をみせながら、「できないとはいわせません」と言い置いて現場から消えていくのだった。が、いまはどうだろう? 民間の仕事も減ってきたので、年間管理的な公共工事で細々と食いつないでいくのが主な仕事になってしまう。民間のように単価が競争的に値下げされるわけでもないし、普通の屋敷にはない巨木をこなせればむしろ一本あたりの儲けはでかいので、そうした作業を支障なくやってのける作業員がいれば一年の経費は稼いでいける。そこでかつて自分が他人にしてきたことをまったく忘れてしまったように、丁重な人扱いになってくるのだ。よくやってくれるからとビール券をもらい、先月は元請けの職人たちと寿司をご馳走になった。

「もう松の手入れの手伝いが終わったんなら引き上げてきていいんだぞ」と、樹齢何百年だかの名木指定になっている山寺のでかい松の大透かし剪定が終わってもなお手伝いを引き継いでいることを知った親方は携帯で指示をだしてくる。とりあえず日当がもらえればどちらでもいいとしても、本当にそんな喧嘩腰の段取りを元請けにぶつける覚悟ができているのかもわからないし、まあそちらの仕事がなくなってもよそ者の私があぶれるだけだからかまわないのかもしれないが、「いま二人怪我して人手がたりなくて忙しいみたいですけど」と元請けとの仲介の言葉をさしこむ。手間手伝いではなく請け負いの公共管理仕事は予定どおりの日取りからはじめられると念を押しながら。ところが今度は、その予定の日取りの一日前になって、すでに元請けが作業を開始していた小学校の管理のほうで、夏には耐震工事がはいって足場を組むからと、校舎まえのでかいケヤキの剪定をやってくれと予定外の陳情仕事がはいる。現場を任されている元請けの三代目の息子からは、クレーン車が直ってくれば自分たちでできるからと、小さいケヤキのほうからやってくれてかまわないとの話だったのだが、いざやる当日となって、元請けの職人たちが自分たちではできないと尻込みをはじめたのだろう。私が請け負いの現場に入ったと朝の電話連絡を社長にすると、深刻そうな渋い表情の声で応対し、翌日の連絡では電話を受けない。おそらく、元請けの職人たちではできないだろうと現場にいておまえはわかっているはずなのだから、自分でおまえのところの親方に話をつけてこっちに手伝い来れるよう予定の段取り変更を含めてうまくまとめろ、なんでそこまでやらなかったんだ、と暗黙の圧力を私にかけているのだろう。あるいは、やっと職人会社としての名誉がかかる寺社の作業がおわったとおもったらまた難題がでてきたので、精神的にまいってしまったのかもしれない。道理としては単に機械的に順番を踏んだ私にあり、現場の意気込みとしては三代目の息子に正当性があるとおもうけれど、それに応える職人を育てていない、その情けなさは社長本人にも身にしみてくるから、その感情は憎悪へと反転し、なおさらのとばっちりがあとで私にくるかもしれない。それが下請けの生殺与奪を握る元請け会社の権力の恣意性であり、その気まぐれ勝手さを逆に利用して、つまり仕事のなくなったときは元請けとの関係をつないいでいる職人個人のせいと建て前をつくろって本人をやすませることのできる下請けの親方の知恵になるだろう。それもこれも、職人との法的位置がグレーゾーンにあり、形式的には一人親方、法的には建築現場の日雇い人夫と同等、実質的には単なる被雇用者、という曖昧な存在だからである。ゆえに職人のなかには、実質的には雇用しているのに建て前としては一人親方扱いして年金も負担せず、との会社への不満から、個人的に仕事が入ったときは会社の仕事を休んで自分の仕事を優先させる者もでてくるのだが、アパートやマンション暮らしの個人では道具置き場もトラックもないから、勤め先の会社や知り合いの会社から道具をただで貸してもらって作業することになる。しかしそれもどこか道理のない変な話で、かといってならばきっちり独立してやれ、というのも庶民事情を無視した冷酷論理な話になってしまう気がする。だから立場の弱い職人が筋を通してできることは、現場にでて手を抜く、ということだろう。いくらビール券や寿司をご馳走になっても、こっちは命がかかっているのだからつりあわない。とはいえ、せこい会社は職人を急がせるだけでご馳走代などだしはしないから、こちらを気にかけてくれる社長にはやってやるか、という気にもなってくるのが人情だけれども。

さて日本の政権争いでは、民主党の小沢氏が情勢を見極めて代表を辞任した。まだ秘書への疑い段階で、当人たちはそれを否認しているのだから、責任をとってというわけではない。マスコミを巻き込んだ現政権がわの国策操作に対抗して、という作術なのだろう。そしてここでの代表選挙パフォーマンスで、民主党への追い風がまた吹き始めたようだから、うまくいったことになるのかもしれない。小沢氏が法務大臣になるかも、という説もでてくるくらいだから、法務官僚を中心とした国家官僚は、小心翼翼状態かもしれない。私も気分的には民主党を支持したくなるが、もう時期を失ってしまったのではないか、という気がしてくる。ここでいう時期とは、鍛錬の期間のことだ。だいぶ小沢氏のもとでたくましくなったといえども、もう世界情勢は平和時ではない。個人が失敗から学んでいく、なんて悠長な暇がないのではないか? 昨日5/27日の朝日新聞の朝刊で、北朝鮮の核実験に対する自民党の元防衛相石破氏と、民主党「次の内閣」防衛相浅尾氏へのインタビューが並列されている。これも、大本営発表とか揶揄されるマスコミの操作された一記事なのかどうか知らないが、読むと、民主党がアホにみえる。精神年齢が二十歳大学生ぐらいの者の勉強の成果、という感じだ。――<確実なのは先にたたくということ。例えばオーストラリアが導入を計画している巡航ミサイルのトマホークのようなものを持つのも、一つの選択肢として考える。もちろん、そう結論づけるのは早い。だが、こうした議論を通じて、日本も本気だということが他国に伝われば、中国などの北朝鮮に対する対応も変わってくることもあり得る。(浅尾氏)>……そんなことは、あり得ないだろう。核であれミサイルであれ、それを持っているかどうか、が問題(現実)なのではない。それを本当に「使う」という本気さが現実(問題)なのだ。この本気さがない、頭だけの駆け引きなど、連戦練磨の外交現場で通じるわけがない。人間関係への洞察の欠如した優等生の「カード」ゲームなど、手練手管の政治家にふりまわされるのが落ちだろう。北朝鮮の態度が恐いのは、それがパフォーマンスではなく、本気だからだ。あるいは、本気にみえるからだ。どこまで本気であるかを知るには相当内通したインテリジェンス活動が必要なのかもしれない。が少なくとも、国際世論の言説において、イラクに戦争をしかけたアメリカはもちろん、北朝鮮もやることが本気だという迫力を所持してきているようにみえる。しかし日本には、そんな手順や功績もないだろう。見透かされて裏をかかれるのでは? ヨーロッパのサッカー界で日本人選手の道を切り開いた中田氏は、みせかけのフェイントは通用しない、自分でもほんとにこっちから相手を抜くと思っていて、突然やっぱりやめた、とまた本気で切り返すときにそれは成功する、という話をしている。民主党の人気若手と思える政治家たちは、この世界(外と)の現実が肌でわかっていないお坊ちゃんが多いのではないだろうか?

自己改革などできはしないのだ。官僚に支配された社会構造を変えてみせるという青写真はいいとしも、その意気込みのうちにそんな冷静さがなかったら、日本の社会は機能不全に陥ってしまうだろう。官僚のいない国家などはありえない。外との衝撃においてだけ、官僚社会の変革は内発的になりうる。人間は、受苦的存在である。ゆえに、まず内政ありき、ではない。諸外国との関係の持ちようが最初なのだ。その前線的な関係において、現場にだされる個人にできることは、できることとできないことをはっきりさせること。宮大工の田中文男氏も言うように、それがわかるのが一人前の職人である。わからないから、不必要な人工をかけ、無駄な人員を戦地へと送ることになる。「こんなことは、責任もってやれませんよ」と、立場の弱い現場の人間ができることは、まずそこを明確にさせたうえで、サボタージュすることぐらいだ。

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