2011年3月25日金曜日

日本人の将来と


「しかし悲観的になるのは、原発はこの図(テレビで使われるような原子炉の略図)のようなものではないからなのです。こんなのはポンチ絵です。これ(実際の原子炉下部の写真)は原子炉のお釜の下の部分です。これが原子炉のお尻なんです。見てください。ずっと制御棒とか配管とか配線が、山のようにあるのです。テレビでえせ学者が出てきて簡単に言っていますが、あの人たちは何もしらないのです、大学教授たちは。技術者だけが知っているのです。そこに水をぶちこんできたわけでしょう。こんなに山のような配管が目まぐるしく走っているのです。我々にはわからないくらい、滅茶苦茶に複雑な構造をもっているのです。もう一週間になりますが、その間にそこに水をぶっかけたりしてきました。それも塩水でしょう? 塩があったら、それがみんなこういうバルブなどに入って固着しちゃうでしょう。 動かないでしょう。そういうことがあらゆるところで起っているのです。だから、簡単に考えちゃいけない。ただ電源をつないだからこれから水がぐるぐる回る、というふうには私に思えないのです。普通のエンジニアだったら想像すればわかるとおもうのですが。とてつもなく滅茶苦茶になっているところに、今ヘリコプターで水をまいたりするということを本当にやって、あの人たちに見通しがあるならいいですが、私にはすくなくともわからないです。」(広瀬隆発言「福島原発事故―メディア報道のあり方―」・「ニュースの真相」朝日ニュースター3/17(木)20:00~放送……WEB上は閲覧できなくなった模様)

原子炉に隣接した施設での配線引き込み作業中に、作業員3人が被爆したと昨日のニュース。作業の困難はこれから本番だろうと私は先のブログで書いたが、上引用の広瀬氏の発言からしても、それが本当の話になってきている。別に難しい技術者でなくとも、日雇いの土方でも、ネジ山に砂ひとつぶついただけで、ネジがゆるまない、しまらない、とはよく知っているはずだ。クーラーが壊れて熱もった、じゃあ塩水ぶっかけて発熱をおさえた、じゃあこれから電気を流して動かしてみましょう、なんて、町の電気屋さんがいうとはおもえない。まずこういうだろう。「新しいの買ったほうがいいですね?」……しかし、原発はそうもいくまいが、本当は、そうなのではないか? つまり、これから新しい部品とか工場に発注して作ってもっていくから、それまで待ってて。まるっきり新しくしないと使えなくなってしまう、というのが電化製品の常だとしたら、より複雑な構造をした原発はなおさらそうなんではないか、と素人はおもってしまうのだが。そしてそのあいだ、とりあず塩水ぶっかけておいて、となるのだろうか? もともとこの海水をふっかけるというアイデアは、北沢防衛相という素人の懇願によるもので、東電も自衛隊も乗り気ではなかったそうだ。ということは、のちの作業をより困難にするだろうと、専門家は技術的に認識していたからではないのか? 広瀬氏によれば、そんなのは焼け石に水で、もしそうなら、いま小康状態に落ち着いているのは、放水したこととは関係ない状態変動なのかもしれない。……ちょこっと水蒸気爆発しただけでこの騒ぎである。本当の爆発がおきたらどうなるのか、その最悪の事態について政府が発言することがないが、なおその危険性は高いというのは、本当の話なのではないだろうか?……。

また今日の毎日新聞では、他電力会社や、メーカーからの応援人員のことが記事されている。一時期は50名ほどの少数先鋭部隊になってしまったようだが、原子炉が6基もあって、地震津波でぶち壊れているものを、放射能をあびるので交替でなおしていく、というのだから、いくらなんでも少人数すぎる、とおもっていたのだが、支援強化体制がおそすぎなのではないか? 元請けとしての東電の系列意識や、縄張りや、お金のことなどを考えていたのではないか? 私が木から落下して命を落としそうになったのも、自社の利益確保だけしか考慮できない、狭い了見しかトップがもてないという社会体制からきている……そんな作業をするのには、業者の垣根を超えて体制を作っていかなくてはならないのに、少数のベテランの現場責任に負わせて、押し付けて、あとは運任せ、という技術放棄な態度に怠け、ゆえに、その疲労を一身に背負った現場のプロが被害にあっていくのである。日常的におこなわれているそのせせこましいことが、この国家危機の現場においても、くり返されてしまった、ということなのだ。なんとも情けないことではないのか? 戦争中の、上にいくほど駄目になっていく、という組織体制がいまでもくり返されたのである。ならば、死にもの狂いの現場の人間は、見殺しにされていくこともがくり返されるのだろうか?

日本は、原子爆弾の実験にされ、いま原子力エネルギーの事故災害が起きた場合のモルモットにされている。海外では、農産物だけではなく、工業製品の放射能チェックと輸出規制が考慮されはじめた。そのうち、日本人そのものが、放射能チェックや、ホテルでの入室拒否、これから春休みで海外脱出組がふえれば、状況いかんによって、隔離収容所おくり、までもいくかもしれない。エイズ患者への誤解差別と同じく、日本人といえば放射能人間、として敬遠されるときがくるのかもしれない。2度もこんな目にあうというのは、恥ずかしいことのようにおもうが、むしろ縁があるものとして、つまり三度目の正直を回避するためにも、積極的に我々の生き様を世界に提示しなくてはならないのではないか? 戦争の放棄を謳った憲法9条のほかに、自然では消化・処理できない人口ゴミの生産廃棄へむけた、新しいビジョンを声高くかかげていくべきではないだろうか? 常人より放射能を発散する日本人代表が国連で演説する、「私をみよ、この人を見よ!」と。そうなったら、サッカー日本代表をめざす息子の一希にも、私は言うだろう、「おまえは世界の人びとに、放射能をあびても強く生きていけること、そして新しい世界を作っていけることを、身をもって証明してみせる選手にならなくてはならない」と。

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