2011年5月23日月曜日

自然、をめぐるノート2

「江戸の大地震後一年目といふ年を迎へ、震災の噂もやゝ薄らぎ、この街道を通る避難者も見えない頃になると、何となくそこいらは嵐の通り過ぎた後のやうになつた。当時の中心地とも言うべき江戸の震災は、たしかに封建社会の空気を一転させた。嘉永六年の黒船騒ぎ以来、続きに続いた一般人心の動揺も、震災後の打撃のために一時取り沈められたやうになつた。尤も、尾張藩主が江戸出府後の結果も明かでなく、すでに下田の港は開かれたとの噂も伝わり、交易を非とする諸藩の抗議には幕府の老中もたゞたゞ手を拱いてゐるとの噂すらある。しかしこの地方としては、一時の混乱も静まりかけ、街道も次第に整理されて、米の値までも安くなつた。」(島崎藤村著『夜明け前』 *旧漢字新字に変更


先のブログで、大川周明のことに触れたが、東京裁判で東条英機の頭を叩いて精神病送りになった右翼思想家、というレッテルくらいしか知らないので、もう少し、著作を借りて読んでみた。


<精神復興は、震災このかた随所に唱えらるゝ題目である。而も予の見る処を以ってすれば、其の提唱せらるゝ復興策は、多く第二義に堕して究極の一事に触れない。修身教科書にある如き教訓を電車の中に今更らしく張出しても恐らく無害なれども無益である。真個に精神を復興せんとすれば、常に復興せられるべき精神其者を、徹底明瞭に理解し把持せねばならぬ。予は予の自証する処によって信ずる、精神復興とは、日本精神の復興であり、而して日本精神の復興の為には、先ず日本精神の本質を、堅確に把持せねばならぬと。かくて今日の予にとりて、何者にも優りて神聖なる一事は、日本精神の長養である。又は其の外に発する処に就て云へば、日本国家の成満である。「日本精神研究」『大川周明集』 筑摩書房>


東北大震災後の現在の状況は、関東大震災後の大川の説くところよりは、冒頭引用した、島崎藤村の『夜明け前』の時代状況、江戸末期の方に近似しているだろうと私は思う。それは今回の大地震が、日本列島の地震の終末期たる関東大震災より、地震の活動期に入ったことを示す安政の大地震に相当するものだろう、という自然条件的な前提ということもあるが、より世界史的な事態にたてば、一つの歴史から次の歴史への転換期に相当するだろう、という社会政治的な認識にもよる。環境エネルギー政策研究所の飯田氏によれば、1980年代以降の原発政策は、「安政の大獄」みたいなものだったと発言しているし、そうなると、菅総理は徳川慶喜か? 2年後にまた浜岡原発が稼動するとなれば、評判なお悪くなるだけなのだが、このままではゴルバチョフはおろか、徳川慶喜にも程遠いが……。しかしそれはともかく、この震災後において、東北魂といいながら、日本人の精神的一体化が叫ばれている状況は、大川の認識と重なる。私自身、このブログでもまずそこを喚起した。が、大川の認識実践は、国家に収斂していくものであり、私のものは、それを無化していく方向である。しかし、その文化的一体性をふまえて、そこに他文化との普遍性(自然災害)の回路を想定するがゆえに、個人主義的な考えとも対立する。が国家という枠組みの外圧に対しては、まずもって個人の強さなくして前国家的な一体性を保守することはできない、と考える。しかしもともと大川は、精神的な一体性の時期を、たとえ神代の時代に求めても、そこに国家の成立をも前提するがゆえに、個人の入り込む余地がない、かにみえる。いわば、国体と国家の間にずれがなく、それが一致していると仮構する。大川の考えが、国家機関説になる北一輝のそれとはちがっていても、国家という装置を肯定するところでともに運動するところがでてくるのかもしれない。しかしまたより精神的、純真的あるがゆえに、軍部に近くなりそのイデオロギーとしてみられた、ということなのか? しかし、大川の超越的な認識自体は、そんな機械的な話しではなさそうだ。橋川文三は、彼にみられる不透明さを、山形県という修験道ある特異な文化的土壌で育ったことに推論したいようだ。


<今日の宗教学者は、概ね宗教の起源を呪物崇拝・自然崇拝・トテム崇拝などに求めて居る。此等のものが現に未開人の宗教的崇拝の対象であり、同時に太古の吾々の先祖が逸早く撰び出した神々であつたらうことには私も異存がない。併し人間が此等のものに於て最初に『神』を認めたとすることは、私の到底納得出来ぬところである。…(略)…呪物崇拝が行はれるためには、人間が「自己以上の存在者」又は「存上者」といふ観念を有つて居なければならぬ。…(略)…之を存上者といふ観念に就て考へて見るに、人間が最初に木片や石ころなどによって此の観念を誘発されたとは、何としても信ぜられない。むしろ、日月星辰、乃至は高山大川などの与へる印象が、人間をして自分以上の存在者を認識させるよすがとなり得るであらう。併し人間の心は、日月星辰を仰ぎ、高山大川を望んで、その恩寵や威力を感ずる前に、存上者の観念を誘発すべき一層直接な、且一層有力な印象を、その親によって与へられる。人間の意識のうちにある根本的観念の起源を知るためには、すでに成長した人間に就てでなく、幼い小児に就て之を探し求めなければならぬ。然るに小児は、光と熱を給う太陽の恩恵を感じ、大地を肥やす河川の恩沢を感じ、又は疾風迅雷の威力を恐れる以前に、遥かに直接且深刻に父母の恩恵を感じ、その威厳に畏れる。人間は相当の年齢に達するまでは、殆ど如何なる自然現象に対しても深い注意を払ふものでない。それ故に「神」即ち存上者の観念を最初に人間に与へるのは、呪物でも自然でもなく、乃至は目に見えぬ精霊でもなく、実に父母そのものに外ならない。吾々の生れ出てくるや、母が吾々にとりて唯一の存上者である。吾々の存在は唯だ母だけに頼って居る。稍や長じて吾々は母並に全家族が、父によって庇護されて居ることを知り、更に父に於て存上者を認める。この父母に対する自然的感情が純化されて敬となるのである。故に敬の特質はその宗教的なることに存する。>(大川周明著「安楽の門」前掲書)


いわばこれは、エディプス的認識といえばいいのだろうか? だから、とくに神、超越的認識が母(あるいはその背後に隠れた父)からくる、とするところから、大川個人の幼少期の謎、父に対する言及をいっさい拒否している態度の特異性が問題とされたりする。が、大きく一般化すれば、ファミリーロマンス期のフロイトである。が、分裂病者、医者にとっての他者の出現は、その説ではすまない認識の深化を要請した。私の体験でも、超越的感覚、を知る、ということは、ドストエフスキーの『罪と罰』でのラスコーリニコフのみるネヴァ川の光景、いわばゴッホ的体験からくるので、家族、という擬似自然に収斂していくものではない。それは、そうした自然的自明性を崩壊させてくる感覚である。が、自身精神病に入るような大川にも、実はそうした感覚があったのではないか、と推論される。


<日本歴史では神武天皇以前を神代と呼んで居る。神代といふのは、日本人の生活の一切の部門が悉く神々によつて支配され、神々を離れて生活し得なかつた時代のことである。併し乍ら之は単なる日本の上代だけのことでない。あらゆる民族が一度は神代即ち宗教時代を経過して来た。この宗教時代には、今日吾々が道徳・法律・政治・経済・学問・芸術などと呼ぶ人間生活の特殊の部門が、尚未だ混沌未分の状態にあり、生活全体が神々の支配の下に行はれて居た。然るに時代を経るに従つて、人間生活に於て神々が支配する領域が次第に狭くなつて来た。それは最初神々の支配の支配の下にあつた人間生活の諸部門が、つぎつぎに神々から離れて独立した往つたからである。学問や芸術は言ふに及ばず、…(略)…そして宗教そのものさへ神々を離れて成立つことが、釈尊の仏教によって立証されたのである。従つて仏教は神を説かないから宗教でないの、或は例外の宗教であるのといふ西欧学者の所論は、千古の宗教的天才ともいふべきジョルダノ・ブルーノを瀆神者として残酷極まる火刑に処したり、神に酔へる哲学者スピノーザに無神論者の烙印を捺したりした旧基督教精神の名残とも言ふべきであらう。きゃうな西欧学会の雰囲気の中で、シュライエルマッヘルが「神なくして宗教なし。」とする通説を真向から否定して、設ひ神の観念有たなくとも、宇宙を「一」にして「全」なるものと直観して居る人は、最も善く教育された「多神教信者よりも遙に多く宗教的であり、スピノーザは敬虔なるカトリック信者よりも一層秀でた宗教者であるとしたことは、まさに「群鳥喧しき時、鶴一声」の感に堪えない。>(大川周明著「安楽の門」)


ここでいう「直観」とが、ファミリーロマンスに収斂していかせることを忌避する、ゆえに日本(アジア)人は天皇の赤子論的な右翼言説にも絡め取られない、超越的感覚である、と私は推定する。といっても、スピノザからドイツロマン主義が生れてくるともいわれているようなので、思想史的には単にそういっても説得的ではないのかもしれない。教養不足で言い方がたてられないが、私の理解では、スピノザ的な神の一神教的な厳格化、から汎神論とされる考え、と多神教的な実際生活上の知恵、は両立する。が、この二つを論理的に整合しようとすると、いわゆる三位一体論的な概念組み立てが必要になってくるのかも、という気がする。が、私にはそう理論化する必要もないので、素人趣味のままなのだが。


震災後の情勢は、日本精神を説く一体化、ファシズム的な事態を反復させてくるだろうか? 幕末のあとにはヨーロッパモデルの復古明治が、敗戦後にはアメリカモデルの民主主義があったわけだけど、今回はそうしたものがありそうもない。自然エネルギーのヨーロッパ「緑の党」モデル、というのは人々の精神的支柱になっていくには小さすぎるだろう。ソ連解体後、ロシアではルーブルにかわってマルボローが通貨となり、マフィアが横行し、KGB出身のプーチンの出番となったわけだ。アメリカが日本に求めるTTP政策をめぐって、黒船だ、開国だ、とかとも言われている。少なくとも、日本人は、自分たちの貯蓄を諸外国のお金持ちに流用されないよう気をつけなくてはならない、のが政治の根幹だとおもう。そうでないと、被災者にまわすお金さえ、掬い上げられてしまう。東電や政府批判以上に、世界情勢と外交への目配りと注意が重要になってくるだろう。


*  いつもいっている床屋の老夫婦の話。メイが福島第一原発に勤務していた。その話しによると、地震・津波発生あと、所長が一同をあつめて、津波で家族が心配な人は帰宅していい、と解散させたそうだ。そのとき、爆発する、という危険可能性を現場は認識していたそうだ。そして残ったのが、いわゆるフクシマ50で、ほぼみな下請け労働者だったという。労災もでない、というのが前提認識だったそう。報道では、この50人になったのは、爆発後みたいだが、床屋さんの話しでは、その前ということになる。というのは、メイは、10km圏内に新築したばかりの家に退避していたが、東北電力に勤めていた、老夫婦にとってはもうひとりのメイにあたる親戚から、爆発したらそんなところにいてはだめだから、と電話でいわれ、新潟まで逃げた、そうだから。飼い犬だけもって着の身着のまま出発したが、自動車のバッテリーがあがって立ち往生、渋滞しはじめた避難する住民たちが車をとめて、ブースターでつなぎ、電気を起こしてくれたという。メイには現場にもどるよう指示が届いたが、もういやだ、トラックの運転手でもなんでもする、と覚悟してたが、結局は違う部署にまわされて、栃木にいったという。……こんな床屋談議からも、福島第一の初動作業への疑問がでる。ロシアの専門家は、福島第二原発では抑えられたのにそれができなかったのは、人災だからだ、という主張が強いそうだ(宮崎学のHP)。たしかに同じような地震津波の被害のはずなのに、なんで第一ではベントが失敗(あるいは武藤副社長と現場所長との、するしないの激論が発生)し、第二ではうまくいったのか? 微妙な被害の違いによって、作業の可・不可が左右されるのはわかるが。原発の新旧の違いか? 佐藤優氏によれば、ロシアはとにかく人災にして、自国の原発推進をしたいのだそうだが。……現場所長が記憶を呼び起こして事態を整理できるまでには、作家が思いを意識・言語化するのと同様、だいぶ時間がかかるだろう。またそれが、正確だという保証もない。

* なお、宮崎学HPによれば、現場にいる東電の友人の話しとして、地元では4号機が一番あぶない、のが共通認識だそうだ。そして学者の中には、4号機の貯蔵プールの使用済み燃料が核反応を引き起こしていた、と説く人もいる。ただ副島氏によれば、こんどはまた何号機が危ない、と言い出して、危機をあおって日本人を統制してくるだろう、と予測しているが……。

2011年5月19日木曜日

自然(帝国)、をめぐるノート

「……地球の核やマントルで続けられている太陽圏的な活動の影響は、地殻の表層部につくられてきたささやかな生態圏には、めったに及んでこない。原子核が融合したり分裂する現象は、この生態圏の内部では起らないように、自然は組み立てられている。/しかし原子炉がそこにつくられると、状況は一変してしまう。…(略)…莫大なエネルギーといっしょに、生態圏的自然の内部には、まったく異質な「自然」が出現してしまうことになる。その「自然」は、太陽の内部や銀河宇宙にしか見出せないものであり、地球生命はその「自然」のなかでは、人工的な防護服なしでは生きていることができない。」(中沢新一著「日本の大転換 上」『すばる』2011.6月号)


「……本源的生産要素の商品化の限界は、単純な物理的限界ではなく、歴史性・地理性を帯びている。言い換えれば、労働の背後にある人間の定義、土地の背後にある自然の定義、貨幣の背後にある聖性の定義のいずれもが歴史的・社会的に構築されている社会――「大転換」において市場は、その網の目にともかくも接合されなければならないわけであるが――の底は抜けてしまうことがありうるということこそ、私たちは恐れるべきなのである。」「近代に入り近世帝国が解体するとともに、人間、自然、聖性の定義がゆらぎ始め、その流動化は現在、臨界点に達しつつある。それが世界の<帝国>化の条件を構成しているということだ。」(山下範久著『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』 日本放送出版会)


「一神教の成立する以前には、流動的知性にそなわった「流動性」というものに、きわめて大きな意味があたえられていた。この流動性が活発に働いているおかげで、言語というものが、いまあるような構造に進化をとげることができたのであるし、固定化された意味領域の隔壁を越えていく、流動的知性の強度に注目するところから、象徴思考やその表現である多神教の神々が生み出されてきたからである。/横断性をそなえた流動的知性は、日常生活で大きな働きをしている諸領域に特化された知性よりも、はるかに強度をそなえている。そのために、その横断的運動をイメージ化した、動物や植物の領域に向ってメタモルフォーシスをとげていく神々は、人間の持つ力をはるかに凌駕した「超越性」をそなえることになる。大帝国の王たちは、こうした神々を崇拝し、それと一体となることによって、国家の権力にそなわった「超越性」を誇示しようとした。一神教を生みだすことになる民たちは、このような想像界で働く「超越性」を、根底から否定しさろうと試みたのである。」(中沢新一著『緑の資本論』 集英社)


「では、「<他者の他者>への固着」とはどういう意味か。やはり、食の安全の話を例にとれば、メディアに報じられる偽装や汚染は、間抜けでささいな、ほんの氷山の一角で、実はグローバルな食品ビジネス資本と諸政府とのあいだには知られざる密約があって、地球規模の過剰な人口を整理するとか、反抗的な労働者を化学的に去勢するとかいった邪悪な目的のために、汚染/調整された食品がグローバルに供給される体制ができあがっているのだといった陰謀説にとりつかれるようなとき、そこには<他者の他者>の作用、すなわち現実界に潜む不可知の存在の力にたいするオブセッションがあるということだ。/これは荒唐無稽なパラノイアだと一蹴できるものではない。たとえば、右の陰謀説も「食の安全の背後にあるのは、グローバルな食品ビジネスやアグリビジネスの利益追求にともなう暴力なのだ」と言い換えれば、それを単なるパラノイアだと断ずる人の割合はぐっと下がるだろう。さらに言えば、スーパーでものを買うときにいちいち産地を調べ、「中国産」とあれば棚に戻し、「遺伝子組み換え不使用」や「有機栽培」といった表示にこだわったりするときにも、私たちは<他者の他者>への固着を示してしる。/小さな<大文字の他者>は局所的には実質的な秩序をもたらしうるが、それが有効であればあるほど、本来の<大文字の他者>への信憑は回復不可能になる(食の安全について政治家や官僚を本気で頼りにする人はますます減る)。そしてその分だけ<他者の他者>への固着の度合いは増していく。そうしなければ、象徴的秩序の崩壊――それは主体にとって「世界の終わり」として現前する――が食い止められないからだ。」(山下範久著『現代帝国論』)


「……私のような想像力をもった人間には、科学者や技術者たちが、まるで一神教的技術の生み出したモンスターに放水を繰り返すことによって、その怒りを鎮めようとしている、自然宗教の神官たちのようにさえ見えた。/ことによると、日本の科学者の思考には、一神教の本質の理解がセットされていないのかもしれない。原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたまかも自然の事物のように扱うことは許されない。いわんやそれが「ぜったいに安全である」ことなど、ありえようがないのである。生態圏の自然と太陽圏の「自然」を混同することほど、危険なことはない。」(中沢新一著「日本の大転換 上」)


「選挙で議員が選ばれる。その議員が議会で原発なりダムなりの建設を決める。決定に即して官僚的手続きにしたがって専門家たちがその原発なりダムなりを設計する。もちろん、安全基準などについても、正当な手続きで決められたものを踏まえて設計される。しかし、事故は起こる。専門家は、たとえば「震度6の地震に耐えるためには、これくらいの強度が必要です」といったことには一致した合理的結論を出すことができるが、「この地域に原発なりダムなりを作るにあたって、想定すべき地震は震度6までです」といった判断で一致することは難しいし、そもそもその資格もない。震度6以上の地震が来ることによるリスクを背負うのは彼らではないし、震度6以上の地震に耐える強度にするための追加的コストを払うのも彼らではないからだ。だが他方、その地域を震度7の地震が襲ったならば、その「正当な手続き」に実質的に参加する方法を持たない多くの「一般の」ひとびとが壊滅的な打撃を被ることになるのである。/こういった矛盾は、すでに私たちにとってうんざりするほどありふれた光景になっている。ドイツの社会学者ウリッヒ・ベックは、この状況を「リスク社会」と呼んだが、<帝国>の観点から重要なことは、この「リスク社会」における当事者の多様性が、<帝国>においては活性化させられていることだ。したがって<帝国>においては、高度な技術的判断をともなう統治行為にかかわる問題であればあるほど、意思決定は単一の議会においてではなく、無数の会議において行なわれざるをえなくなり、それに応じてその執行も脱官僚化されざるをえないということである。」(山下範久著『現代帝国論』)


「しかしそれならば、イスラームの人々は別として、資本主義が人類に普遍的な経済システムとしての本質をそなえていると考える人たちが、今日圧倒的なのはどうしたことだ。資本主義のグローバル化は、多神教的なアジアやアフリカの世界をも巻き込んで、地球的な規模で進行しつつある。この資本主義のグローバル化の現象は、資本主義の本質を決定しているそのキリスト教的構造と、矛盾するのではないか。/ここで、キリスト教が一神教の冒険魂に突き刺さった棘をはらんでいる、という事実を思いおこす必要がある。キリスト教が自らの本質を表明した「三位一体」の構造を、「至高の一神教」としてのイスラームは、激しい意志をこめて拒絶した。その概念が、唯一である神の単一性を汚染することを、イスラームはおそれたのである。「三位一体」的思考は、一神教の神の内部構造に、生命的なプロセスをセットするすばらしい効果を持つが、イスラームにとってそれは、一神教の発生の人類的意義を危うくするものであった。/資本主義の普遍性と今日言われていることは、キリスト教のおこなった(イスラーム的なタウヒードの観点からすると)一神教の純正なドグマからの逸脱から発生した経済的現実なのである。その証拠は、「聖霊」の働きにかかわる記号論的思考が、新石器時代以来の「人類的」伝統に根ざしていることのうちにある。」(中沢新一著『緑の資本論』)


「だが実際には、まさにグローバリゼーションにともなう変化として、私たちは人間、自然、聖性に関する定義のゆらぎを経験している。たとえば近年、感情労働の問題が前景化しているのは、感情が人間の本質の一部であって市場の論理になじまないと考えるか、感情も商品化可能な人間の外的属性であると考えるかのあいだの緊張関係の高まりの反映である。遺伝子組み換え作物の問題は、単なる安全性の問題であるだけではなく、むしろ遺伝子が自然の本質(生命の神秘)の一部であって、市場の論理によってそれを操作することをある種の冒瀆であると考えるか、遺伝子も商品化可能な天然資源であると考えるかのあいだの緊張関係であろう。また最近拡大の著しいイスラーム金融においても、「利子」を禁ずるクルアーン(コーラン)に抵触する金融商品の範囲は、個々のイスラーム銀行が擁するシャリーア(イスラム宗教法)評議会でも判断が分かれる。そこにあるのは、超越的な秩序――聖性――の定義をめぐっての見解の分岐である。/さらに言えば、これらの変化とも絡んで、そもそも本源的生産要素の商品化の限界をめぐる物理的限界と倫理的限界との区別も、かならずしも明瞭ではなくなってくる。というのも、いま例示したような倫理的限界をめぐるゆらぎの背景には、近年の情報技術および生命技術の発達が介在しており、たとえば(情報機器によって生を補完された人間としての)サイボーグ化の問題や、クローン技術や遺伝子組み換え技術などを通じてモノ化した――設計の対象となった――生命の問題などは、単に社会的な決めごとの水準での倫理の問題というよりも、そもそも人間とはなんなのか、自然とはなんなのかについての物理的な定義自体のゆらぎをもたらすものだからである。」(山下範久著『現代帝国論』)


「イスラームは長い歴史をかけて、人間の住む世界のすみずみにまで、一貫した原理を浸透させようとしてきたが、そのことがもっとも印象的にあらわれているのが、伝統的なスークに今もおこなわれようとしている商業のあり方なのである。イスラームは一神教の原理に忠実に、貨幣や商品のうちにセットされたシニフィアンの部分を「魔術的」に操作して、そこから不当な利潤を獲得することを、厳に禁じてきた。とりわけそれは、「ニ〇ヤールのリンネル=一着の上着」という、商品交換のもっとも原初的な場面において何気なく作動をはじめ、商品としての貨幣を生み出すばかりか、その貨幣が貨幣を生むようにして、価値増殖の過程がはじまってしまうという、深淵微妙な経済学的分析を深く理解していたかのように、この原初的な場面においてまず、資本主義への道を固く閉ざそうとしてきたのである。…(略)…そこには、人間の自然的知性がつくりだしてしまう世界に対する、一つの透徹した批判システムの作動をみることができる。イスラームとは、その存在自体が、一つの「経済学批判」なのだ。原理としてのイスラームは、巨大な一冊の生きた「緑の資本論」である。」(中沢新一著『緑の資本論』)


「たとえば地震で原発が損傷したというとき、その責任は政治家にあるのか、官僚にあるのか、技師たちにあるのか、それとも住民全員が甘受すべき天災なのか。たとえば国際金融システムの危機にあたって、ある投資銀行は救済されず、別の保険会社は救済されるというとき、その判断はどこまでが市場の論理によるもので、どこから統治の論理によるものなのか。近代社会は、これらの問いに取り憑かれている。/だが、結論から言えば、どの問題をとっても、そのような腑分けは不可能である。仮にむりやり腑分けしたとしても、腑分けされたそれぞれの部分における局所的な対応は、問題全体の解決にかならずしも結びつかない。むしろ大規模で深刻な問題であればあるほど、それは逆効果になりやすい。それにもかかわらず、腑分けが推進されるのは、近代的な社会科学の知が、純粋に分離された自然の秩序と社会の秩序を説明とし、そのパラダイムのなかで、実際の社会組織とその責任系統もまた自然と社会の分離を前提して編成されてしまっているからである。…(略)…ポランニー的不安を再帰的近代化の帰結としてのみ捉えるネガティブな普遍主義には、この自然と社会のふたつの極の解体が世界の終わりに見える。それは極端に言えば、政府が見出した法則は法則である以上、それに対する違反はそもそも存在しないと言い張り、自然と社会のハイブリッドのなかで起きた事故を社会の論理で裁くようなカオス的世界である。たとえば法律に反して事故を起こした原子炉を罰するようなものだ。もっと過去には、法則たるべき王の命に背いた咎で、牛馬に刑罰の鞭が与えられたり、不味いワインの元となるという咎で、特定の品種のブドウの樹が引き抜きを宣告されたりした。ひるがえって人間に刑罰が執行される場合、それは、犯罪者の矯正や更正のためではなく、一時的に乱された自然の秩序の回復を演出するために行なわれた。そういった「前近代的」体制は、理想的な社会などではもちろんない。しかし、人類にとって未曾有のカオス的破滅というわけでもない。」(山下範久著『現代帝国論』)


「このようにアニミズムや多神教のj神々は、どんなに超越的なふるまいをしてみせようと、それはいわば格好ばかりで、じっさいには生態圏の全体性の表現になっている。これらの神々のなかには、毒を出すものもいる。しかしその毒は、人間がうまく処方できれば薬に変えることができる。これらの神々は、生態圏のなかに、その秩序を脅かすような「外部」を引き込んだりしない。その意味では、一神教の神と本質的な違いがある。/一神教はその生態圏に、ほんらいはそこに所属しないはずの「外部」を持ち込んだのである。モーゼの前に現れた神は、無媒介に、生態圏に出現する。そんな神を前にしたら、生身の人間は心に防護服でも着装しないかぎりは、心の生態系の安定を壊されてしまうだろう。」(中沢新一著「日本の大転換 上」)


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*「緑の資本論」として、厳格に一神教であるはずのイスラーム圏(イラン)が、<核>をもとうとしていること、あるいはその素振りは、やはり「自然(人間・聖性)」の定義自体の底が抜ける次の「帝国」段階への流動化を意味してくると同時に、その抵抗とも伺える。アメリカがIAEA、原子力規制委員会、等を通して日本にかけてくる圧力は、パレスチナをめぐる、イスラエルとイランとの駆け引きに間接的に介入することで、ヨーロッパにおける分裂(ユダヤ資本とその反ユダヤ)を促進させるよう誘導していこうとしているのかもしれない。(そうみると、副島氏が今回のフクシマで起こされていることは、ヨーロッパのロスチャイルドとアメリカのロックフェラーの権力・利益争いだ、と分析してみせるのも、そう突飛でもないのかもしれない。がそんな程度の話ではすまない、というのが、上の引用でみてきたことである。)――つまり、世界の次なる帝国過程(根底的なものへの再定義)、への反動である。そしてこの反動自体が、より世界をカオス的にし、つまり、次なる帝国段階を深めている。


*私の自然(アニミズム)観は、原子炉的な自然災害の前では、まさに外部から排除されてしまう。それと折り合う、放射能とうまくつきあっていく、ということは、原理的には不可能である。実際には、可能である。(死ぬまで生きる、ということだから。)また日本人だからといって、一神教的な思考態度がもてない、というわけでもなく(それはどの人間にも可能だ、という前提=脳味噌構造、の原理でもあるわけだから)、単に、そういう強度を受肉化しえない人たちが出世して権力をもってしまう世の中だったから、ともいえる。そしてならば、原発をいっきに廃止することが不可能であり不適切になってしまうなら(つまり、世の中が混乱しすぎる、ということ)、過渡的であれ、一神教的体制を構築する必要がはっきりしてしまった、ということか? しかしそれは、過渡的、ということなのか? チュニジアをはじめとした民衆革命のように? イスラム的な厳格さは、過渡的だった、ということ? ということは、資本主義(三位一体的似非一神教)に抵抗していく「緑の資本」は消費されていく、ということ? ドイツの「緑の党」を中心とした反原発=自然エネルギーの運動自体が、権力者たちの暗黙なる世界利権争いを繰り広げて、次なる帝国段階への混迷を深めていく、ということか? 「自然」なるものの定義が、どのように深化していく、ということなのか?

2011年5月14日土曜日

やまとごころ、をめぐって――佐藤優氏への疑問



「東日本大震災は思想問題でもある。」(佐藤優著『3.11クライシス!』 マガジンハウス)







大地震、原発事故、という緊迫した現在状況のさなかで、私はジャーナリズム世界の思想的一役を担っていたかにみえた佐藤優氏が、どのように発言をしていたのかを詳らかにしなかった。書籍としてその発言がまとめられた上の出版物を読んで、いかにもなるほどな、とおもった。状況を覗わせるような情報収集的な態度や機械的な状況批判ではなく、リアルタイムにそれを分析整理認識し、自己の立場を思想的に対応させていかせるには、その想定外的な非常事態以前に、それに即応できるような思想体制が構築準備されていなくてはならない。佐藤氏はそんなまれな思想家であって、ジャーナリストの枠におさまるような人ではない。ネット上では、「東電からいくらもらったか!」などといういわゆる左翼活動家まがいの駄弁も見受けられたが、氏への批判は、その思想的立場と正面から向き合わなくては話しにならない。


佐藤氏の思想的立場を支える根本的認識は次のようなものにみえる。


<「しきしまの 大和心の をゝしさは ことある時ぞ あらわれにける」


 という明治天皇の御製に、現下の危機をわれわれが克服する鍵がある。/日本人は普段、国家や民族について深く考えず、私生活やビジネスに埋没しているように見える。しかし、日本民族と日本国家の存亡の危機が生じると、日本人一人ひとりの内側から「をゝしさ」すなわちほんものの勇気が湧いてくるのである。今上天皇陛下は、3月16日のビデオメッセージにおいて、「そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」とおっしゃられた。この「雄々しさ」がまさに明治天皇が御製で詠まれた「大和心のをゝしさ」なのである。>



しかし私の認識では、「やまとごころ」は、「雄々しさ」に結びつくものではない。むしろそれは、「女々しさ」に結びつくのが本意ではないだろうか。単純に広辞苑で調べれば、二番目の意味として勇猛という語感が含意されてくるが、まず一番は、漢才(学)に対する実生活上の知恵・才能のことである。これが古語辞典での説明となれば、なおさらその語感に近づく。本居宣長は、「しきしまのやまとごころを人問はば朝日に匂う山桜花」と詠んだが、その「やまとごころ」の表記とは、漢字(男文字)ではなく、やはりひらがな(女文字)だったのではないだろうか?(ネットでちょっと確認しようとしたがよくわからない…)――大川周明は、関東大震災後に、日本の復興を託し、「日本精神研究」をはじめたそうだが、大川の『日本二千六百年史』を読むと、その歴史が、いわば古事記以後の書かれた歴史の範囲内への想像であることがわかる。しかし、「やまとごころ」の系譜とは、文字として書かれなかった、先史時代からのものなのではないだろうか? つまり古事記の記述を援用していうならば、あくまで天皇(大和朝廷)による伊勢神宮ではなく、より土着の出雲大社の方からである。私の推定では、縄文とされる時代の狩猟・採集民的な倫理感が、弥生とされる大陸渡来的な律令(官僚)大儀に屈服されていくときに滲み出て来る情感が「やまとこごろ」」なのである。ゆえにそれは、個人の名誉に生きた狩猟・採集民の独立・自尊の気概が、敗者という諦念の感情に織り込まれていく屈折した心なのである。そしてここに、黙って従いながらも実は服従をよしとしない根強い精神が涵養され、それが大和朝廷には支配しきれなかった東北地方により明確に残存し、のちの東武士の精神を惹起させてくるのだ。比較文化的には、よくローマの政治的支配に対する、敗北したギリシアの文化的支配、という歴史解釈と類比的だ。また、日本の庭、という概念には、朝廷(庭)という大陸系の概念とともに、にわ(日和)という、土着的な意味が潜在的に受け継がれてきている、というところからも類推されてくる。いま、震災後の困難を耐えていかせているのは、そのような敗戦にも黙って処した土着民の東(あずま)精神である。それは、勇猛果敢という「雄々しさ」よりは、何か諦めたように日々の実務に黙々と取り組む屈折した「女々しさ」なのである。その心境の複雑さが、「やまとごころ」なのだ。


そういう認識からすると、佐藤氏が例としてもちあげる近代文学作品、三浦綾子氏の『塩狩峠』のクライマックスが、あまりに文学ロマン的な創作だということに気付かされる。


<……たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。/客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。>


以上の文章の中で、私が気にさわるのは、一瞬、家族の姿が浮かんだ、という挿入だ。ヘミングウェイの『誰がために鐘はなる』や、数年前の、スマップの草薙氏主演の映画『日本沈没』でも、日本人を救うことになる主人公はそんな一瞬に立ち返る。が、そんなことはありえない。私はこのことを、仕事上、なんども経験し、確認している。一服のときや、木に登るまえでなら、そんなときがあるかもしれない。しかし、その日の仕事が命がけになる、とわかっている日の朝などは、作業着を着替えれば、変わってしまうのだ。作業中は、目の前の処理、まわりの状況情報の取得、そんなことで精一杯だ。一つの危機を始末して、幹もとでほっと一息つける瞬間になら、富士山でもみながら息子のことをおもうかもしれない。しかし、作業中に家族のことを思ってしまう人は、危険作業をやる職人、技術者としては不適格だろう。しかも、祭り的に、ある時かぎりだけ、やるのではない。親方などは時々やってきて、「雄々しく」もお手本をみせるようにやっていくとしても、毎日やっている常連職人は、そんな祭り(危機)的なよいしょ態度では、やっていくことができないのである。だから、諦める、死を受け入れる、もう死んだものとして、ただたんたんと、黙々と、実務処理的にこなしていくようになるのである。30メートルの木の上の作業も、部屋掃除する主婦の日常と同じである。それは決して「勇猛」なものでなく、むしろ「女々しい」ものであろう。私はそのように、いま原発事故の最前線で作業をしている男たちのことをおもう。本をみるかぎり、佐藤氏が興味を抱くのは、あくまで前線作業員に指示をだす監督者、専門家エリートのようである。原発現場では88%を占めるという日雇い(日給計算)として雇用される庶民大衆たちのことは考慮にないかのようだ。しかし私からしてみれば、そんなエリート連中のところに、「やまとごころ」があるわけないだろ、とおもうのである。


<少なくとも今後10~15年の中期的展望において、日本が原子力発電から離脱するという想定は非現実的である。それより先の長期的展望においても、原発に依存しないというシナリオを日本がとることはできないと筆者は考える。それならば、将来のために今回の福島第一原発の事故に関しては、ヒューマンファクターを含めた真相究明が国益のための最重要課題だ。/人間は誰でも過ちを犯す。その過ちから学ぶことが重要である。読者の反発を覚悟してあえて言うが、東電と関連会社の社員に刑事免責を与えた上で、真相を語る仕組みを政治主導でつくってほしい。本件は、国民の不満を解消し、時代のけじめをつけるための国策捜査の対象になりやすい。しかし、国策捜査になると関係者が真実を語らない。それでは国益が毀損される。>


たしかに、検察が勝手な仮説的物語を前提に、責任者をつるし上げるのでは、真実は明るみでてこないだろう。しかし私は氏が説くような温情(前提)が、エリートから本当のことをひきだす戦術になるとはおもわない。すでに屈辱的な立場を経験した会社人間は、まずぜったいに口を割ろうとしないだろう。現場の人間は別だ(おそらく現場所長クラスも含む)。彼らは、どんなフレッシャーの下でも、自己で判断をくだす訓練を仕事としている。時間(ゆとり)をあたえれば、自分で整理してくるだろう。が、経営管理側の人間は、意地でも会社を守ろうとするだろう。その意固地だけが、自らを支え、もちこたえさせているだろうからである。こいつらにどのように口を割らせるのか、その手腕は、これまでどおり、同じエリートの検察がよく知っているはずだ。つまりこれまでどおり、あの手この手で逃げ口を封じて吊るし上げればいいのである。ただ勝手な仮説を作るのはやめてほしい。しかし、この捜査は、単に国策的な、国内的な問題として片付けていいものなのだろうか? 佐藤氏は、9.11も「米国人にとって」のカイロス、3.11も「日本人にとって」の特異な事件、と表記する。脱原発社会、というよりは、脱原発(核)世界(9条敗北理念=やまとごころ)をめざすべきと考える私には、福島の事故を国内的に納めておいたほうが国際的な道筋をとれるようになるのか、正面から国際的に問題化したほうがいいのか、その戦術の具体効果のことはわからない。(国際的に問題化すると、すぐにつぶされる、ということも考えられる、ので。)しかし、思想的な問題として、この日本で起きた原発事故が、「日本人にとって」だけの歴史的分水嶺だとは考えない。たしかに、チェルノブイリですでに大惨事が起きている。しかし今回のそれは、自然の驚異的な出来事から発しているのである。単なる人災ではない。まして、「誰でも過ちを犯す」というような話ではない。人間の手に負えない自然が、人間の手に負えない自然まがいの人為の脅威を見せつけたのだ。それは、遺伝子組み換えからクローンといった、今の世界の先端をゆく他の人為技術までの存在基盤の是非を根底から問い直してくるのではないだろうか? われわれは、9.11や3.11といった事件によって、ある種の人たちのやっていることが疑わしいことに気付きはじめている。それは、自然への対処技術を装った、国際的な権力利権構造と一体となった作為である。この自然へ向けた境域における人為の暴圧が、どこまで進むのかを黙って処して見ていることだけしかわれわれにはできない、わけではない、だろう。そしてその処理手続きは、祭り(特異時間)に興奮した猛々しい「雄々しさ」ではなく、「女々しい」台所での包丁さばきに似た、日常的な手際による腑分け(事業仕分け)作業に似るだろう。その実務手際の理想とする、「やまとごころ」をもった社会とは、いま東北の被災者たちがみせている、相互扶助的な連帯、「災害ユートピア」的な、ある意味敗者諦念の情感に支えられているものなのかもしれない。だとしてもそれは、日本国家という境界をこえた、普遍的に開かれた世界受苦的な共感としてあるものなのである、と私はおもう。





2011年5月11日水曜日

思想へ向けて

「ちょうどあさってにあたる1995年の5月8日、アメリカから「原子力平和使節団」が来日し、この官民米が一体となった「原子力平和利用の推進運動」によって、「原子力反対」の声はみるみる小さくなっていきます。/激しい核アレルギイーが、一転して、原子力平和利用万歳……という世論に、わずか1年でひっくり返ったことを、私たちはよくしっておかなければいけないとおもいます。いまの私たちには信じられませんが、興奮していると人間は思考機能が低下するのです。(だから私たちは最悪の時期に統一地方選挙をしたとおもいます)」(田口ランディ「いま、伝えたいこと」/「対立について考えてみよう」)


今朝の朝日新聞の1面によると、「今夏までに6基が定期検査に入る。再開できなければ国内の商用原子炉54基のうち、停止要請を受けた浜岡原発をはじめ42基が止まる事態になり得る。」とある。主体的に事をなしずらい日本人の性向からすれば、自然(自動)的に止まってしまったものを、こんどは危険恐怖を乗り切って判断し、主体的に動かしてみなくてはならなくなるので、世直し気運としては好都合な事態にみえる。しかし、なんら認識判断の後ろ盾もなく、惰性で動かない平常心は、それでは経済成長と雇用の確保を見込めないという生活上にかかわる主張には(新聞の論調はそういう方向であろう)、あっけなくまた反転してしまうかもしれない。ならば、そのとき、動じない態度を後ろ盾してくれるものとはなんだろうか? それは、原子力は安全か否か、放射能は危険か否か、そのエネルギーは経済上効率的か否か、といった、科学合理的な認識、つまり事実をめぐる言説ではないだろう、と私はおもう。そうではなくて、やはり、思想(立場・覚悟)としての言説になるだろう。この多くの先進国市民をパニックに陥れた原発事故がわれわれにつきつけているものとは、要は、人間は自然に対して、どう向き合うのか、ということである。いまわれわれが直面している事故が原子力発電所の事故という枠を超えて世界史的なのは、それが集約象徴させているような、人間が選択してきたテクノロジーの在り方、それに支えられた産業(世界)構造事態の是非が吟味されるようになってくる潜勢力をもっているからだろう。9.11がわれわれがよっている政治的次元の根底を明るみにひきだしてきた、とするなら、3.11はその次元事態が依拠している産業(存在)構造の次元を露呈させてきた、といえると思う。この9。11事件によって態度変更を迫られたという柄谷行人氏は、その著『世界史の構造』の前提として、人間と自然との関係はとりあえず捨象し、人間と人間との関係を重視した、結局は後者の関係が搾取的であるところでは、前者の関係もそうであるがゆえに、と。しかし直面している事態は、人間も土も海も、自然にとっては平等であるという現実である。いま前線で命がけで事故処理に立ち向かっている者らが搾取的な関係であるという現実以上に、われわれを揺り動かしているのは、自然(原子)と、自然まがいのもの(放射能物質)との境界紛争である。しかしそれは、どの放射能数値までが安全か否か、といった科学的合理性が争われているのではない。その境界紛争自体の存在の露呈が、問題とされているのである。つまり、この戦争の程度ではない、この戦争自体がこりごりなのだ。それゆえ、自然との関係を問い直すことが、人間と人間との関係をし直してくる、という態度転換を、思想的には要請してくるだろう。


そうしたなかで、一人屹立した思想家として、原発事故現場前まで出向き現在も20キロ地点まえで篭城基地を作って事故責任追及闘争を開始している副島隆彦氏がいるだろう。私は、リーマンショックを当てたという氏の今回の現実認識は、当っているとはおもわない。たしかに、アメリカとの植民地的従属利権構造は存続しているだろう。しかし宮台真司氏がビエオ・ニュースで発言していたように、日本国内の勢力において、アメリカと結託しながらも核武装を本気で志向している政治勢力が現在いるともおもわれず、技術的には核爆弾製造が可能であっても、一度は核実験をしなくてはならない、日本のどこで? という物理的現実をクリアできない、しかも、IAEAという国際機関は、日本の核武装を監視するためにある、という環境の中で、いまや核武装などとは妄想にすぎない、ただ、そうかつて本気で志向した政治的動きに伴う利権の惰性構造だけが残り幅を利かせている……という見方のほうが、あたっているだろうとおもう。さらに、副島氏は、20キロ圏内がベルリンの壁のようにバリケード封鎖されて、そこに核廃棄物処理施設がアメリカからの圧力によって日米合作されるだろう、と予測する。私は、そんな人為的な操作よりも、東北人の身体思想という、自然の本然の方が強くて、うまくいかないだろう、と予測する。(それゆえなのか、日米連携で、モンゴルに核廃棄物処理施設を作れるよう模索する、という新聞記事がでている。)事故現場以外の放射能濃度が、人体に影響およぼすほどでもない安全な範囲なのだ、とする氏の認識については、私にはわからない。ただ氏が「重たい気分で書く掲示板」で提出している、若手研究家による資料、世界での核実験やチェルノブイリ事故による日本での放射能飛散数値グラフが、ネット上の他の研究者にも活用されて、そこにフクシマでの放射能拡散数値を重ね合わせたものなども提出されており、それをみれば、遠方からの飛散量と近傍からの飛散量では比べものにならない、と知れる。また氏の安全だとする認識の根拠とされるもうひとりの学者の論文にしても、素人的にはずいぶん突っ込みをいれられる代物であるようにおもう。私の知人のなかには、副島氏の意見に感化されて、タバコのほうが体にわるいのだ、放射能が危険だという騒ぎによってストレスが生じ暗示かけられ、ゆえに実際のガン発生率があがるとかの統計的操作がおこなわれるのだ、と説く。しかしチェルノブイリ事故後にも明らかにされていることに、たとえば現場責任者は、上のような理由によって国民に与えるストレスを防ぐという名目で真実を公表してこなかったのであり、今もってその判断に誤りはなったと公言している。しかしということは、何も知らない人びとはストレスなどもてようはずもなく、もちろん、胎児や子供、そしてなお生まれていなかった子供たちもが、わけのわからない症状に苦しんでいる現実があるのが真実なのだ。もちろん、放射能の知識などまったくなかったであろう、広島・長崎の人々が、放射能は恐い、などというストレスなど持ちようもなかった。だから、何もしらずに原爆後に親類の安否を気遣い広島に入ってきたのであり、そしてその人びとの間で、まず下痢に悩む症状がでたのだと、広島の医師は報告し、それがいま、福島の人たちの間でも出始めている、と指摘している。しかし、放射能と下痢との因果関係などはなお科学・医学的には証明できていないので、これは完全犯罪なのだ、と訴えている。こうした態度にあるのは、科学(真実)を超えた思想、この私が何を引き受け従っていくのか、という一貫性、筋である。そしてここの点において、副島氏の決意も、科学というよりは、その根拠を超えた態度としてあるのだということが了解される。ある意味実際には、われわれは放射能世界の中で、それを受け入れて生きていく他はもはやない、ともいえるからである。ならば、この恐怖と興奮に思考停止になって、ゆえにそれに乗じた権力に操られていていいのか、という一つの立場がでてくるのは当然である。業務上過失致死、等の刑事事件になんで東電はならず、その責任者は縄をかけられないのか、ならば裁判闘争をおこそう、という氏の実践は、まったく正当的、事件の大きさを前に人がまったく気付けなかった間隙を突いている。そして氏が、そのような鋭さを発揮維持できているのも、修験道を通した自然との関係を握持しているからかもしれない。


われわれが「思考停止」になっている間に都知事に選ばれた石原氏は、「原発というものを人間の技術で完全にコントロールできれば、どこへ造ったっていいし、私はそう思います。」(4/29朝日朝刊)と述べている。だから暗黙には、コントロールできない、と認め、しかも、そこには、地震や津波といった自然までもを人間がコントロールできるのか、といった根底的な問いまでもが孕まれている。ゆえに、最新式の設計だから大事故など起きないと、なお推進しようとしているロシアをはじめとした勢力も、実はこれまでの続行に懐疑的になっているだろう。石原氏は、安全なら東京に原発を、といったが、安全ならそんな留保も仮定も必要とせず、ましてや、なんでモンゴルにまで核のゴミをもっていこうと策略する必要があるのだ? また氏は、「化石燃料だけではこの一つの大きなプラネット、惑星の、しかも近代化されていった星の全体の経済、産業というものを維持するエネルギーというのは、あり得るんですかね。」ともいう。しかしわれわれが、欲望を追い求める太陽族ではなく、氏の説く「我欲」を捨てた、自然のなかで日をあびる日光浴族でもいいのであるなら、なにも近代的な生活を享楽するエネルギー量などそもそも必要としない、ということなのではないか? 石原氏は、いったいなに(どちら)を、のぞんでいるのであろうか?


このブログを書いている途中、女房に誘われて、生活クラブの一グループのガーデン見学・リサイクル勉強・食事会、みたいなものに顔をだした。そこが、夫が一流企業に勤めている主婦たちのサークル活動と呼ばれているのは、まさにそのとおりなのだな、と確認する。そもそも、自然風とされるイングリッシュガーデンは、諸外国の珍しい草花の収集という趣味にあるので、それは大英帝国の植民地構造によっているのであり、それはその支配階層のロマン的な趣味であり、日本でもその趣味階層が受容する反復事象である。生活クラブは、今回の事故で、チェルノブイリ事故後にもうけた一次産品の放射能基準値を日本国家のそれに改めた。その改定処置理由は正当であると同時に、その運動思想がもつ限定枠であろう、と私はおもう。それを乗り越えようとする時、自らが暗黙にしたがっている階層制が問われてくる。彼女たちの旦那の話しとして、新聞なんかでは大きな声でいえないけれど、原発停止で電力が不足してくるので会社は大変な騒ぎになっていて、日本を捨てていくのだろう、と考えられている、と世間話する。つまり、そういう世界の人(夫)たちに支えられていた、(妻によって)罪滅ぼしされていた運動なのだろう、と見えてくる。一流企業がつぶれれば、終ってしまうのではないか? 既定の権力構造が、自然との直接的な係りを忌避しているのである。つまりそれはあくまで人民の中へ(下放)的なものというより、義援金(間接)的な支配関係の枠をでれない、のである。むかしのお嬢さんの集いのなかに、バブル後の預貯金を蓄ええない若い人たちがどれくらい入会しうる運動なのだろう? むしろわれわれは、小ぎれいな庭いじりではなく、誰彼の区別なく、自然として平等に、本当に野良作業しなくてはならないのかもしれない。東日本震災後の自粛されたテレビコマーシャルのなかで、さしさわりなく放映されているものは、「お早ううさぎ」、「こだまですか?」とともに、生活クラブのものであったようにおもう。この自然に直面した象徴的な大事故の最中で、人間と人間との搾取構造というカラクリ事態が、漏洩的に自壊してしまうのである。自然との関係を作り直さなくては、われわれは人間をも搾取できない、コントロールできない事態にさらされている、ということなのだ。権力操作か否か、ではなく、権力それ自体が作れるのか、ということなのだ。(放射能警戒区域からの立ち退きをいつまで命令できるだろうか?)――そしてその作り直しなくして、この困難を本当に、つまり思想的な意味で、克服する希望の道は切り開かれない、ということなのだ。

2011年5月7日土曜日

判断と決断、黙ると騒ぐ

「選手によるクラブ自治と無監督制の広がりに対して、早大を中心とした野球界の重鎮からは強い批判の声が上がる。例えば飛田穂洲は、「近頃学生野球を代表するところの東京六大学中に無監督制の声が高まっている」が、「コーチのある事によって学生自治の野球に支障を起すように考へているものがあればむしろ滑稽」と述べた。飛田は、「選手合宿の自治、その他の野球部行政等は学生の手に委ねる事が穏当」と選手自治の必要性を認めながらも、「野球練習とその精神教育だけはコーチによってなされ」なければならないとして、練習と選手の精神教育の面から監督の必要性を主張した。…(略)…監督は日本の野球のレベルが向上し、チームプレーや作戦の重要性が高まったことで、試合に勝つために導入されたものだった。しかし、監督が普及・定着し、同時に政府がスポーツを通じた思想善導を打ち出すなかで、監督の役割として選手の精神面の教育が強調されるようになってきたのだ。学生野球の弊害を防止するためには、選手の精神面の指導は欠かせないとOBたちは考えていたし、監督の多くは教員ではない以上、学業の点での教育はできないという現実的な理由もあっただろう。こうしたことを背景として、日本の学生野球は監督主導のもとで、選手の精神を鍛えることが非常に重視されるようになっていく。」(中村哲也著『学生野球憲章とはなにか 自治から見る日本野球史』 青弓社)


子供とドラえもんを見ていたら、テレビ画面上に、菅総理浜岡原発に停止要請、とテロップで緊急情報とやらが入る。これはなんだとパソコンを開き、ネット上でYahoo!ニュースをみてみる。要は、近い将来に強い地震や余震が想定されるなか、日本国民の安全性を考慮して判断した、しかし、現法規では停止する権限はない、と。この唐突に覗える判断呈示をみて、私は次ぎのように反応した。「これでは原発対処と同じで中途半端になるな。菅氏はもうそろそろ辞める、辞めることになる、と観念したのではないかな。だから、そのまえに、俺はいっただろ、注意しただろ、という事後的な優等生弁明をやって言い逃れるために、先回り的な口実を作ったのかな?」というものである。ネット上のほんの数行の記事だけからは、それが「決断(実践)」ではなく、単なる「判断(認識)」を示しているだけにしかみえなかったからである。本当に決断したならば、今の法規ではできないので、ゆえにこれから法を変えてでも停止するよう行政していく、という強い決意表明になるはずだからだ。この私の当初の反応は、今朝の会見映像をテレビニュースでみたあとでも、かわらない、どころか、どこか弱々しいその総理の様に、その感を強くした。しかし、昨夜段階では、中部電力の社長は、だからといって停止しない、と見解していたようなのに、今朝の新聞では、とりあえずその停止要請を受け入れるが、津波を想定した防波堤工事が完了するまでだ、と留保をつけた、とある。その社長の対応と、その様の会見映像をテレビでみると、この社長が事故後に倒れた現東電社長と違って、どこか土建屋あがりのかけひきを知っている実務的な手ごわい相手、にみえた。だから今後、行政の弱腰(足もと)をみて、産業界、官僚と手を組んで逆襲してくる可能性が高いな、いったん引いただけだろう、と私はおもう。そしてそれでも、結果として、中電に浜岡原発を止めさせる、という実践を果たそうとした総理の判断は勇断だと評価する。また、東電の賠償問題にしても、自民党、民主党の主流が、東電味方な方向で行政していこうとしているかにみえるなかで、枝野長官は「賠償に上限はない」と名言し、海江田経済相や、首相の補佐役も、こわごわと東電を牽制する発言をだしている、ところからみて、政治の動きから浮きはじめた官邸の主観をむしろ擁護していく姿勢でなくてはならないのだろう、と自然への畏怖(前近代)と、責任問題の追求(近代)という、二刀流を実践していかなくてならない、というスタンスの私は考える。チェルノブイリ後の旧ソ連のように、日本が国家としての独立的機能を喪失していくかもしれないなら、ぜひ菅総理には、ゴルバチョフのようになってもらいたい。ペレストロイカに対する、エネルギー転換の道筋を誘導した者として。そしてならば、それを後押しするのは、ベルリンの壁を崩した民衆の力いかん、となるわけだが……。


ゴールデンウィークに実家の群馬県にかえっておもったのは、東京は特別だ、ということである。呑気なもので、東京と同じ250kmの距離にあるというのに、地震も原発も対岸の火事で、気の毒だね、しょうがないね、の一言で何事もないように日々が過ぎていく感じだ。地元のテレビ局では、東電が賠償金を払うのに電気料金値上げする、とのニュースに、ゲストの美保純氏や中村うさぎ氏が、じゃあ節電じゃなくていっぱい電気を使ったほうが被災者に支援金がいくのかしら、節電でテレビゲームとかやめていたけれど、もっとばんばんやりまくるってことなのね、という話しがとおっていく。無知なところでは私(誰)でも頓珍漢な言動になるだろうから、他人のことを笑ってもいられない。ただ、こんなものなのだろう、と慨嘆する。もともと地方では、政治的なことをはなせる雰囲気ではない。上の世代でなら、共産党員かとおもわれるだろう。若い世代のあいだでは、どれもが他人事のニュースですぎていき、どう関心をもつのかさえもわからないという感じだろう。地方の大きいとされる書店でも、ベストセラーの書籍と週刊誌のたぐいしか置いていないのが実状なのだ。しかしならば、東京都民が知識や情報があって敏感だからか、ということなのではない、と私は実感した。そうではなくて、単に、都民は人口密度の高いところを行き交っているからなのだ。地方では、他人の世間話など聞こえないし、自分の話しが他人に聞かれることもない。が、都会では、いやでも他人の噂話が耳にはいる、自分の話しが他人にきかれ、きかせることができる。その距離の近さ、過密さが、ハイな状態をうみやすい。しかしまたそれも、ある意味ネット上の情報に触れている人たちの世界だけ、ともいえるわけで、福島県で避難の憂き目に入っている人のなかには、東京都民があまりに自分たちのことに無関心なので(「原発を東京に」と発言した者が知事に選択されるぐらいなのだ…)、これでは被曝した牛を連れておら東京さゆくだ、デモするだ、という声もあがるようなのである。そしてさらに、海外からみれば、地震と福島原発に怯える日本人民の姿は、エクゾチズムな関心のあり様であって、対岸の火事である。被害者数では、昨年のハイチ地震23万人の死亡とかとは比べものにはならないが、先進国でのできごと、しかもというかそれゆえに、ライブ映像がたくさん撮影されていた、という先端的事情が、エクゾチックな過剰な意味を発生させたようにみえる。ビンラディンの殺害に狂喜するようなアメリカ人の映像を、9.11がアルカイダの仕業だとおもっているのはアメリカ人だけだろう、と冷ややかにみているわれわれもまた、3.11では世界の人から同様な眼差しでみられているのかもしれない。……つまりここにあるのは、知識や情報の過多、そこでの客観的、科学的判断、ができるやいなや、といった実状なのではなく、むしろ関係的な構造が問題(焦点化)されるのである。むろん、その構造とが、人口(情報)の過密さによって変性されてくるのかもしれないとしても。たとえば、恋愛関係のなかにいるものは本気に狂喜していても、それを端から見るものの眼には、アホとしかみえない。ゆえに、都民(ネット上)で一喜一憂していても、そこにいない地方の人は、たとえネット上で都民と同じ情報を共有していようと、それを実際的に、路上の立ち聞き等によって実際的な感情を具体化しえないがゆえに、ハイな状況=関係とは無関係・無関心なままにとどまる、のである。


しかし、とりあえず今の段階では、脱原発のデモをやるといっても、一部の社会運動家のグループしか集まらない程度で、放射能をあびても、国民は黙って処している。そこには、構造(関係)的な問題だけではなく、より日本特殊的、歴史的な文脈があるのかもしれない。その「黙って処す」とは、「武士は食わねど高楊枝」と似て、東人、東国の武士からうまれた価値、つまり、東北現地の人たちがいまみせている態度の中にこそあるのかもしれない。その無意識的な、身体的な価値に抗って、もうひとつの近代的な認識、黙っていたら泣き寝入りにやられるだけな社会(国家)だから声をあげて責任追及せよ、と説くのは酷なことなのかもしれない。いや当人たちは総理に文句をいい、東電社長に土下座させ、黙っているわけではない。ただ分散させられている……都民が同じ日本人として立ち上がらないのも、近代以前の態度として、すべは他人事ですまして自らの世事にだけいそしむしか関心がなく、近代国家的な国民としての同一性を身体化しているわけではないからか? つまりわれわれもまた、東武士の倫理を肉化した権力イデオロギーの末裔として? 


冒頭で引用した著作を読むと、日本の野球観衆が、いわばフーリガンのようだったことがわかる。そのグランドになだれこんで乱闘をはじめる観衆をおさえていくために、野球を全体的に統括する連盟や学生憲章ができあがっていったようなのである。引用中にある飛田穂洲氏とは、「一球入魂」の言葉をつくった人として有名であるらしい。また歴史的にみても、米騒動や大逆事件くらいまでは、民衆が黙って処していたわけではないような印象をうける。それともこの印象も、実は学問的な世界での話しにすぎないのであって、やはり大勢は、他人のことには関心しない、自己防衛的な処世しかやろうとしない、黙ってすぎていく庶民だったのか?


しかしまたそれは、実は、日本だけの話しでもない。世界市民も、実はなおそうであろう、と私は認識する。その諦念に似た黙々さと、災害ユートピア的な相互扶助(身内連帯)性は、人類の自然災害の歴史、記憶にもない記憶によっているのだろう、と私はおもう。しかし、自然への畏怖と、権力への畏怖、とが、形式的に相同しているとしても、混同してしまうのはおかしい。そう知的に認識しているものは、たとえネット上の世界だけにしかならないとしても、私はもっともっと騒がなくてはならないのだろう、と現状認識する。いや現状はネット上だけではだめで、もっと外(おもて)に出て騒ぎ、弱腰の勇断を後押ししていく一人一人の力のより多くの結集が必要なのだ、と判断する。