2011年5月11日水曜日

思想へ向けて

「ちょうどあさってにあたる1995年の5月8日、アメリカから「原子力平和使節団」が来日し、この官民米が一体となった「原子力平和利用の推進運動」によって、「原子力反対」の声はみるみる小さくなっていきます。/激しい核アレルギイーが、一転して、原子力平和利用万歳……という世論に、わずか1年でひっくり返ったことを、私たちはよくしっておかなければいけないとおもいます。いまの私たちには信じられませんが、興奮していると人間は思考機能が低下するのです。(だから私たちは最悪の時期に統一地方選挙をしたとおもいます)」(田口ランディ「いま、伝えたいこと」/「対立について考えてみよう」)


今朝の朝日新聞の1面によると、「今夏までに6基が定期検査に入る。再開できなければ国内の商用原子炉54基のうち、停止要請を受けた浜岡原発をはじめ42基が止まる事態になり得る。」とある。主体的に事をなしずらい日本人の性向からすれば、自然(自動)的に止まってしまったものを、こんどは危険恐怖を乗り切って判断し、主体的に動かしてみなくてはならなくなるので、世直し気運としては好都合な事態にみえる。しかし、なんら認識判断の後ろ盾もなく、惰性で動かない平常心は、それでは経済成長と雇用の確保を見込めないという生活上にかかわる主張には(新聞の論調はそういう方向であろう)、あっけなくまた反転してしまうかもしれない。ならば、そのとき、動じない態度を後ろ盾してくれるものとはなんだろうか? それは、原子力は安全か否か、放射能は危険か否か、そのエネルギーは経済上効率的か否か、といった、科学合理的な認識、つまり事実をめぐる言説ではないだろう、と私はおもう。そうではなくて、やはり、思想(立場・覚悟)としての言説になるだろう。この多くの先進国市民をパニックに陥れた原発事故がわれわれにつきつけているものとは、要は、人間は自然に対して、どう向き合うのか、ということである。いまわれわれが直面している事故が原子力発電所の事故という枠を超えて世界史的なのは、それが集約象徴させているような、人間が選択してきたテクノロジーの在り方、それに支えられた産業(世界)構造事態の是非が吟味されるようになってくる潜勢力をもっているからだろう。9.11がわれわれがよっている政治的次元の根底を明るみにひきだしてきた、とするなら、3.11はその次元事態が依拠している産業(存在)構造の次元を露呈させてきた、といえると思う。この9。11事件によって態度変更を迫られたという柄谷行人氏は、その著『世界史の構造』の前提として、人間と自然との関係はとりあえず捨象し、人間と人間との関係を重視した、結局は後者の関係が搾取的であるところでは、前者の関係もそうであるがゆえに、と。しかし直面している事態は、人間も土も海も、自然にとっては平等であるという現実である。いま前線で命がけで事故処理に立ち向かっている者らが搾取的な関係であるという現実以上に、われわれを揺り動かしているのは、自然(原子)と、自然まがいのもの(放射能物質)との境界紛争である。しかしそれは、どの放射能数値までが安全か否か、といった科学的合理性が争われているのではない。その境界紛争自体の存在の露呈が、問題とされているのである。つまり、この戦争の程度ではない、この戦争自体がこりごりなのだ。それゆえ、自然との関係を問い直すことが、人間と人間との関係をし直してくる、という態度転換を、思想的には要請してくるだろう。


そうしたなかで、一人屹立した思想家として、原発事故現場前まで出向き現在も20キロ地点まえで篭城基地を作って事故責任追及闘争を開始している副島隆彦氏がいるだろう。私は、リーマンショックを当てたという氏の今回の現実認識は、当っているとはおもわない。たしかに、アメリカとの植民地的従属利権構造は存続しているだろう。しかし宮台真司氏がビエオ・ニュースで発言していたように、日本国内の勢力において、アメリカと結託しながらも核武装を本気で志向している政治勢力が現在いるともおもわれず、技術的には核爆弾製造が可能であっても、一度は核実験をしなくてはならない、日本のどこで? という物理的現実をクリアできない、しかも、IAEAという国際機関は、日本の核武装を監視するためにある、という環境の中で、いまや核武装などとは妄想にすぎない、ただ、そうかつて本気で志向した政治的動きに伴う利権の惰性構造だけが残り幅を利かせている……という見方のほうが、あたっているだろうとおもう。さらに、副島氏は、20キロ圏内がベルリンの壁のようにバリケード封鎖されて、そこに核廃棄物処理施設がアメリカからの圧力によって日米合作されるだろう、と予測する。私は、そんな人為的な操作よりも、東北人の身体思想という、自然の本然の方が強くて、うまくいかないだろう、と予測する。(それゆえなのか、日米連携で、モンゴルに核廃棄物処理施設を作れるよう模索する、という新聞記事がでている。)事故現場以外の放射能濃度が、人体に影響およぼすほどでもない安全な範囲なのだ、とする氏の認識については、私にはわからない。ただ氏が「重たい気分で書く掲示板」で提出している、若手研究家による資料、世界での核実験やチェルノブイリ事故による日本での放射能飛散数値グラフが、ネット上の他の研究者にも活用されて、そこにフクシマでの放射能拡散数値を重ね合わせたものなども提出されており、それをみれば、遠方からの飛散量と近傍からの飛散量では比べものにならない、と知れる。また氏の安全だとする認識の根拠とされるもうひとりの学者の論文にしても、素人的にはずいぶん突っ込みをいれられる代物であるようにおもう。私の知人のなかには、副島氏の意見に感化されて、タバコのほうが体にわるいのだ、放射能が危険だという騒ぎによってストレスが生じ暗示かけられ、ゆえに実際のガン発生率があがるとかの統計的操作がおこなわれるのだ、と説く。しかしチェルノブイリ事故後にも明らかにされていることに、たとえば現場責任者は、上のような理由によって国民に与えるストレスを防ぐという名目で真実を公表してこなかったのであり、今もってその判断に誤りはなったと公言している。しかしということは、何も知らない人びとはストレスなどもてようはずもなく、もちろん、胎児や子供、そしてなお生まれていなかった子供たちもが、わけのわからない症状に苦しんでいる現実があるのが真実なのだ。もちろん、放射能の知識などまったくなかったであろう、広島・長崎の人々が、放射能は恐い、などというストレスなど持ちようもなかった。だから、何もしらずに原爆後に親類の安否を気遣い広島に入ってきたのであり、そしてその人びとの間で、まず下痢に悩む症状がでたのだと、広島の医師は報告し、それがいま、福島の人たちの間でも出始めている、と指摘している。しかし、放射能と下痢との因果関係などはなお科学・医学的には証明できていないので、これは完全犯罪なのだ、と訴えている。こうした態度にあるのは、科学(真実)を超えた思想、この私が何を引き受け従っていくのか、という一貫性、筋である。そしてここの点において、副島氏の決意も、科学というよりは、その根拠を超えた態度としてあるのだということが了解される。ある意味実際には、われわれは放射能世界の中で、それを受け入れて生きていく他はもはやない、ともいえるからである。ならば、この恐怖と興奮に思考停止になって、ゆえにそれに乗じた権力に操られていていいのか、という一つの立場がでてくるのは当然である。業務上過失致死、等の刑事事件になんで東電はならず、その責任者は縄をかけられないのか、ならば裁判闘争をおこそう、という氏の実践は、まったく正当的、事件の大きさを前に人がまったく気付けなかった間隙を突いている。そして氏が、そのような鋭さを発揮維持できているのも、修験道を通した自然との関係を握持しているからかもしれない。


われわれが「思考停止」になっている間に都知事に選ばれた石原氏は、「原発というものを人間の技術で完全にコントロールできれば、どこへ造ったっていいし、私はそう思います。」(4/29朝日朝刊)と述べている。だから暗黙には、コントロールできない、と認め、しかも、そこには、地震や津波といった自然までもを人間がコントロールできるのか、といった根底的な問いまでもが孕まれている。ゆえに、最新式の設計だから大事故など起きないと、なお推進しようとしているロシアをはじめとした勢力も、実はこれまでの続行に懐疑的になっているだろう。石原氏は、安全なら東京に原発を、といったが、安全ならそんな留保も仮定も必要とせず、ましてや、なんでモンゴルにまで核のゴミをもっていこうと策略する必要があるのだ? また氏は、「化石燃料だけではこの一つの大きなプラネット、惑星の、しかも近代化されていった星の全体の経済、産業というものを維持するエネルギーというのは、あり得るんですかね。」ともいう。しかしわれわれが、欲望を追い求める太陽族ではなく、氏の説く「我欲」を捨てた、自然のなかで日をあびる日光浴族でもいいのであるなら、なにも近代的な生活を享楽するエネルギー量などそもそも必要としない、ということなのではないか? 石原氏は、いったいなに(どちら)を、のぞんでいるのであろうか?


このブログを書いている途中、女房に誘われて、生活クラブの一グループのガーデン見学・リサイクル勉強・食事会、みたいなものに顔をだした。そこが、夫が一流企業に勤めている主婦たちのサークル活動と呼ばれているのは、まさにそのとおりなのだな、と確認する。そもそも、自然風とされるイングリッシュガーデンは、諸外国の珍しい草花の収集という趣味にあるので、それは大英帝国の植民地構造によっているのであり、それはその支配階層のロマン的な趣味であり、日本でもその趣味階層が受容する反復事象である。生活クラブは、今回の事故で、チェルノブイリ事故後にもうけた一次産品の放射能基準値を日本国家のそれに改めた。その改定処置理由は正当であると同時に、その運動思想がもつ限定枠であろう、と私はおもう。それを乗り越えようとする時、自らが暗黙にしたがっている階層制が問われてくる。彼女たちの旦那の話しとして、新聞なんかでは大きな声でいえないけれど、原発停止で電力が不足してくるので会社は大変な騒ぎになっていて、日本を捨てていくのだろう、と考えられている、と世間話する。つまり、そういう世界の人(夫)たちに支えられていた、(妻によって)罪滅ぼしされていた運動なのだろう、と見えてくる。一流企業がつぶれれば、終ってしまうのではないか? 既定の権力構造が、自然との直接的な係りを忌避しているのである。つまりそれはあくまで人民の中へ(下放)的なものというより、義援金(間接)的な支配関係の枠をでれない、のである。むかしのお嬢さんの集いのなかに、バブル後の預貯金を蓄ええない若い人たちがどれくらい入会しうる運動なのだろう? むしろわれわれは、小ぎれいな庭いじりではなく、誰彼の区別なく、自然として平等に、本当に野良作業しなくてはならないのかもしれない。東日本震災後の自粛されたテレビコマーシャルのなかで、さしさわりなく放映されているものは、「お早ううさぎ」、「こだまですか?」とともに、生活クラブのものであったようにおもう。この自然に直面した象徴的な大事故の最中で、人間と人間との搾取構造というカラクリ事態が、漏洩的に自壊してしまうのである。自然との関係を作り直さなくては、われわれは人間をも搾取できない、コントロールできない事態にさらされている、ということなのだ。権力操作か否か、ではなく、権力それ自体が作れるのか、ということなのだ。(放射能警戒区域からの立ち退きをいつまで命令できるだろうか?)――そしてその作り直しなくして、この困難を本当に、つまり思想的な意味で、克服する希望の道は切り開かれない、ということなのだ。

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