2011年11月3日木曜日

科学と文体

「母親は、人生の意味を失ったりはしていない。「死因は真性白血病」と書かれた死亡診断書を見せながら「私は原発には絶対反対です。ソ連の原発はすべて閉鎖してやりたいです……」と言う。「私の娘は助からなかったけれど、どうか他の子供たちは助けてやって下さい。私もこれからは他の子供たちを助けていきたいと思っているのです」と言った。私ははっとして彼女の顔を見る。とても今子供を亡くした親の言葉とは思えなかったのだ。でもそのような思いなしには、娘の死が犬死になってしまうと考えたに違いない。娘が浮かばれないのだ。娘の尊厳を守るためにも、悲しみを克服するためにも、人は他の人々の悲しみと希望とつながろうとする。」(広河隆一著『チェルノブイリ報告』 岩波新書)


「どうやって新しいネコを見つけたお話ししましょう。私のワーシカがいなくなってしまったの。一日待ち、二日待ち、一ヶ月待った。私はひとりぼっちになるところだったよ。話し相手がいなくなるところだった。村を歩き、ひとさまの庭でネコを呼んでみた。「ワーシカ、ムールカ……ワーシカ! ムールカ!」。私は歩きに歩き、二日間呼びつづけた。三日目に店の近くにネコがすわっておりました。目を見つめ合いましたよ。ネコもうれしそうだったが、私もうれしかった。ネコはことばがしゃべれないだけなんですよ。「さあ、おいで、うちに行こう」。すわったまま「ニャー」。なんとかして説得しようと思った。「こんなところにひとりでいてどうするんだい? オオカミに食われちまうよ、殺されちまうよ。おいで、私のうちには卵やサーロ〔豚脂身のベーコン〕があるよ」。私が先にたって歩くとネコがあとからついてくる。「ニャー」「お前にサーロを切ってあげようね」「ニャー」「ふたりでくらそうね」「ニャー」「お前の名はワーシカだよ」「ニャー」こうして私らもうふた冬もいっしょに越したんですよ。」(『チェルノブイリの祈り 未来の物語』スベトラーナ・アレクシェービッチ著・松本妙子訳 岩波書店)

子供の誕生お祝いにと、インコを買った。青い鳥だ。ピー太くん、と呼んでいる。生まれたてから育てたので、今は手乗りになっている。子供はすぐに手でつかもうとするので嫌がってなかなかよりつかないが、私とは、朝食のトーストをいっしょに食べ、夕食ではこちらの箸の上にのってバランスをとっている。なんでまた急に小鳥を飼うことにしたのかは知らないが、女房の子供の頃になにかあったのかもしれない。寝言で、鳥に「ごめんね」とあやまっていた。私も父親が好きなので家にはいつもい、今でも実家では飼われているが、自分が可愛がって育てた、という記憶はない。ある時の文鳥は、やたら増えていったという記憶と、あるときは青大将にみんな飲み込まれてしまって、鳥籠の巣の中で、腹を膨らました蛇がどぐろを巻いて寝ていた、という思い出がある。しかしこう中年の大人になってから飼ってみると、言葉が通じない、だけど擦り寄ってくる、気まぐれだけど他意がない、というようなところからか、人あいてよりもずっとこちらの感情を移入できるようなきがしてくる。先月の志村動物園のテレビで、震災写真としても印象に残った、瓦礫のなかにうずくまって泣き叫んでいる若い女性の写真、傍らに赤い長靴……のは、実は肉親等が亡くなったからではなく、自閉症的だった自分と出遭って一緒に暮らすことになった捨て犬がいなくなって、というのだった。私は一瞬拍子抜けしたが、小鳥を飼ってからは、むしろなおさらそれ故に、と思うようになっている。幸いその犬は無事で、数キロ先の流された家の前で、ずっとその女性を待っているところを保護されたのだそうだ。……緊急避難ということで、飼い牛を置き捨てて逃げなくてはならなかった原発事故現場の農家の気持ちとはどんなものだろう?

低レベル放射能は危険視しなくていい、積算100ミリシーベルト未満に憂う必要はない、という臨床医、現場の医者の意見もある。その一人である東大病院の中川恵一氏の『放射線のひみつ』(朝日出版)を読んでみる。その主張の依拠するところには、疫学的統計事実だけではなく、生態的な文脈もがあるようである。――「しかし、私たちの細胞は、放射線によるダメージに「慣れて」います。そもそも、生命が地球上に誕生した38億年前から、私たちの祖先はずっと放射線をあび続けてきました。放射線によるDNAの切断は、突然変異を誘発する原因の一つですが、突然変異が起らなければ進化が起りません。自然放射線の存在は、進化の原動力とも言えるかもしれません。」

こうなると、やはり素人は不安になってくる。放射性物資の存在が限りなく消滅し、やっと低レベルな放射線量になったからこそ、その地球の表面にだけ生態圏ができ、われわれ生物が生きていることができる、というのも事実だからだ。「慣れて」いるのも事実かもしれないが、その影響がなくなってきたから我々は生きている、というのも事実だろう。どっちが<科学>なのだろうか? どっちの真実も科学なのだろうか? 事実としては、どっちも信用できそうだ。ならば、なのに、どうしてこうも対応(実践)の物言いが正反対になってしまうのだろうか? その現実(錯綜)を前に、不安と混乱にならない人がいるだろうか?

私、あるいは我々が、どう生きたいのか、その倫理・思想的な立場、前提(原理)があらかじめ決められていないと、事実もまた扱うことができない、ということの確認なのかもしれない。「事実というものはない、あるのは解釈だけだ」といったニーチェの近代批判の哲学にあるような。しかしまた、思想とは、そう明確な内容にあるものではないとしたら? 私の読んだ感じでは、つまりその文体から判断すると、意見が正反対な、低レベル放射線を問題視する小出氏とそうはさせまいとする中川氏は似ており、これまたそう意見が正反対な武田氏と山下氏が似ている。前者たちは誠実だが、後者たちにはいかがわしきところがみえる、というのが私の文学的判断である。前者には思想があるが、後者にはない、といってもいい。それは言っている内容や論理からくるのではなく、その物いいの力、感触からくる。読書量の少ない人たちはそのような判断の仕方をしないのかもしれないが、世間ではみなそうやって人を洞察しているはずだ。つまり言っていることではなく、その言い方によって。だから私は、言葉に誠実な小出氏と中川氏の両方をとる。反原発の立場をとりながら、放射能におびえない、ということだ。そしてその静かな覚悟、受容とは、つまり受苦的な思想とは、原発事故で愛娘や愛ネコをうしなった母親やおばあさんの、あの冒頭引用した言葉の姿勢に近いものなのではないだろうか?

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