2012年6月22日金曜日
「愚民」の在り方(2)
大塚 ただぼくは「土人」を「動員」してまで自分の理想とする「良い社会」をつくろうとは思わないのです。「土人」は考えなくてもいい、システムを改変し、考えなくても自然によりマシなほうに行く社会設計してあげるって、本当は一番ナメた話でしょう。まあ、でもたいていの「土人」はそのほうがいいて思うでしょうね、楽だから。だから「近代」をやり直すチャンスをまたスルーすることに絶望を通り越してあきれている。…(略)…
宮台 大塚さんが土人とおっしゃるのは、僕がよくいう「依存体質」にあたります。詳しくいえば「よく分からない大きなものに平気で依存する習慣」「全体性に無関心なまま平気で依存を継続する習性」です。こうした<心の習慣>は短期的にはどうにもなりません。単に、大塚さんがいわれたように、土人としての自画像を見せることができるだけです。(『愚民社会』 大塚英志 宮台真司著 太田出版)
図書館から上記の『愚民社会』を借りて、最近の対談だけ読んでみる。案の定、浅田彰氏の「土人」(私は「野蛮人」と記憶しているのだが…)発言が言及され、その日本人認識の共有前提の上に議論が組み立てられている。ジャーナリズム的、社会表層的には私も二人と現状認識共有できるところが多々あるけれど、その基本的、前提的な認識、人間や自然に対する理解や信頼といった根源的な認識において、やはり違いがあるのだろうな、と感じる。現在も読み続けている渡辺京二氏の言葉に、次のようなものがあるのだが、むしろ私は渡辺氏の理解に共感する。
<つまり人間には、ものごとのイニシャティヴをとる奴ととらぬ奴とがいる。ことに任ずる少数の人間と、人まかせのほうが気楽という大多数とがいる。これは人間の気質にそういう二種類があって、その結果そういう分岐が生じるのではなくて、もともと集団というものに、そういう役割のちがいを生み出す構造が内包されている、と考えたほうがいい。人が交わって存在せねばならぬ領域すなわち社会は、ひとつの文化制度である。国家は人為的制度だが社会はそうでないと説く学説は、観察の一貫性を欠いている。国家はただ抽象のレヴェルの高い制度というにすぎない。人の交わりが処理せねばならぬ業務を生むかぎり、その交わりは制度としてあらわれる。なぜなら、共同ということからあらわれる業務すなわち運営責任は、ひとつの安定的な様式をとらねばならぬからである。つまり、役割の分化のない集団はない。制度とはその役割の分化のことである。何らかの集団があれば、かならず運営の責任を担うものとそれを人まかせにするものとが生まれるのは、人にそもそも集団から免れたい衝動があるからである。/ 人が集団に属するのは、かならずしも好んでのことではない。それでいて集団の運営にイニシャティヴをとるとすれば、それなりの理由がなければならぬ。それが利得であるか支配欲であるか責任感であるか、それはこの場合、問題ではない。いずれにせよ、それにうながされて責任を引受けるものがあれば、他の成員は心労を免れてよい。集団にはそもそもそういう構造があって、一同を抜かりなく見渡しているものと、何となく窓の外を見ているものとの区別が生じるのである。>(「大衆の起源」『民衆という幻像』 ちくま学芸文庫)
渡辺氏は、旅行先での日常的な人間関係から上のような普遍的認識を導き出す。いわば、働き蟻の生態――3割の真面目蟻をどけても、残りの怠け蟻から3割の真面目蟻が出現する――に似た、類的な人間としての構造を予感するのである。たとえば、現場責任者として作業量も質も高い私が仕事を休んでも、現場は成立する。この「成立」のうちには、作業量や質が落ちる、ということも内包されている。しかしだからといって、その”違い”から私をエリートとして定立し、馬鹿を疎外し、選抜者の社会支配を維持しようとする実践前提は間違いなのである。類的人間個人倫理として。私が現場でどれほど馬鹿を馬鹿扱いしても、それでも「社会」は成立すると信頼している。たしかに、その”違い”のために――馬鹿はその違いを認識できず、というか、これ以上馬鹿扱いされたくないのでその差異はないと言い張って自分を慰めようとする卑小なことしかできない――「客ばなれ」が生じて会社に損害がでるかもしれない。(が、誰でも雇うような小さな庶民経営では、そのこと事態が織り込み済みの、寛容というか、諦めた経営者態度になっている。あるいは、馬鹿の方が支配しやすいので、会社は縮小しても経営者の自己は保てるので、そっちのほうがよい。)…しかしそれでも、残る客もいるほど社会には弾力性があるのだ。ましてや、私個人の人生を超えて長期的にみれば、そんな”違い”は何ほどでもない。10年に一人の天才プレーヤー、100年に一人の天才アーティストが出現したとしても、その五十歩百歩な能力差が意味を持つのは、あくまで短期的・微視的な視野においてである。メッシやイチローの記録が千年後にどう評価されるのか? われわれは、当時としては著名だったかもしれぬ者に彫られたミロのヴィーナスとギリシャ古代の他の発掘物たる皿や壺に、その”違い”に、意味を見出すだろうか? ラスコーの壁画から個人差を認識しようとするか? しかしわれわれは、それを差異なくして受け入れているではないか? その類としての信頼。
渡辺氏が面白いのは、その構造に孕まれる時間差を「大衆の起源」と見つめた上で、将来の時間をも観念してみせることだ。
<戦後のわが国の「大衆」についていえば、私は、彼らが民主的参加なり知的自己啓発なりの方向で、社会の運営・管理にあずかることに希望を見出したことは一度もない。私はただ戦後の過程を、「大衆」が個となる方向でのみ理解している。だが、この過程について考えるとき、私の眼の前に現れるのは「大衆」ではなく、私をふくめての日本人である。そして、現代の日本人を考えるとき私の関心は、彼らの特徴とされる個人主義やら、あるいは個人主義の浸透にもかかわらず根強いとされる共同体指向、いいかえれば他者への「あまえ」やらの表層的な社会心理ではなく、自分のなかの個の深まりへのみ向かう。この個の深化こそ、私にとっての「大衆」問題なのである。私はひとりになりたいからこそ共同的なものを求める。日本の「大衆」もまったく同様だと私は信じる。>(前掲書)
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