2012年12月16日日曜日

高速道トンネル天井落下事故から

高度成長期に建てられてから40年ほどがたち、劣化してきたのだろう、このトンネルの型が古かった、とかを事故原因としてきいていると、マークⅠという旧式欠陥のまま運転してきたことが大惨事のもととなった福島第一原発事故のことをおもいおこしてしまう。というか、その経済成長期の発想で作られてきた制度から現物までもが、ガラガラと音をたてて崩れ始めた、しかも日常生活のすぐ隣で、という進行事態の象徴なのではないかと感じてしまう。この崩壊過程のなかで、今日東京都知事と衆院の選挙があるという。そして、「取り戻そう、日本」を標語にする自民党の単独勝利が予想されている。あの元気だった成長期への懐かしい思いからなのか? 復古など、不可能であると誰もが感ずいているはずだというのに。何を期待して、というのだろう?

この瓦解しはじめた古い本体を、修復するにしろ解体するにしろ、それにはとりあえず金がかかる。金がかかるとはどういうことだろうか?
たとえば、定期点検の検査でさえ、この予算で入札すれば、すぐに何人手間で何日かかる作業かが自動計算される。赤字にならないために、打音検査などはしょれるところははしょる。いやこれは国民の生命のかかった必要不可欠な大事な作業なのだ、省くな、となれば、その負荷を担うのは、単に末端の労働者である。サービス残業でやるのか? やらなきゃ首だと脅されながら? 原発の労働者のことを考えてみればいい。そんな強制などとてもできることではない。私の仕事の公園管理などもうだ。手入れの行き届かない高木は、そろそろ大枝を枯らしはじめている。しかし予算が片手間なら、作業も片手間のことしかできないのである。県道ひとつ隔てて東京都と埼玉県にまたがる森林公園の、埼玉県側の樹上をみあげてみると、人の胴体ほどの太さの枝が中折れてぶらさがり、山桜の立ち枯れの森となっていたりする。その下を、ジョキングや犬の散歩に人々がゆきかっている。現場のことを知っている人は、自分の子供をこんな公園で遊ばせはしないだろう。北風が吹けば、落ちてくる。サービスでできることでもなければ、素人でできることでもない。景気のいいときに乱開発された高層ビルの解体理論はあるだろう。が、金がなければ、その理論は机上のものだ。高速道路にしても、そのうちあちこちで寿命をむかえてくるので、とても予算と人手がまにあわなくなるのでは、と専門家がテレビで発言していた。さもありなん事態である。火事や津波で破壊されることを前提に建てられていた昔の発想のほうが、どれだけ利巧であったことだろう。

しかし、全体では片手間になるといっても、その予算のなかでも、やることはやらねばならない。そうでなければ、単に税金泥棒だ。ところが如何せん、そんな末端作業をやる人たちのなかには、真面目でないものも多い。むろん、ここでいう真面目とは、資本主義的な時間制約のもとで、という意味になるけれども、それさえ誤魔化すのなら、詐欺のようなものになる。私の職場でも、二日酔い、遅刻、さぼり、が多い30代の者が親方から首を宣告されている。「人を減らすぶん、仕事も減らせばいい。また若いものを育てていこう」と、親方は苦渋の選択、腹をくくったようだ。私としては、今さらわかったのか、という感じなのだが、私がノロウィルスにやられて仕事を休んでいるときの成り行きで、カンネンしたらしい。もちろん、首を切るとは、そのものが失業すること、貧困に陥ることである。現在世論では、自由競争的に人を救済しない論と、自由競争自体のシステムを修正して貧困の深刻化にセフティーネットを張ろう、という理論が拮抗しているのかもしれない。その酔っ払いとの仕事で危うく命を落としそうになった自分は、どちらということになるのだろう? 彼は、もともと気の弱い彼は独身ゆえになおさら精神をもちこたえられずに自暴自棄になり、なおさらひどくなっている。私は、身の危険を感じながら、毎日仕事をしなくてはならない。私の本能は、こいつから逃げろ、こんな奴がいる職場から逃げろ、と言っている。しかしここにきて、そいつといつもペアで仕事をすることになる私に、親方のほうから首にしたいと相談してきた。「何かおこされるまえに、きっておきたいんだ」と本能と社会が結びついている親方は言う。私はそれを首肯した。最近も仕事帰りにタクシーに後から突っ込んでいって事故を起こしたのを示談でもみ消している、とちくりながら。首にしたらしたで、私は警戒していなくてはならない。弱い奴は、見かけの暴力的なものにはむかわず、やさしそうなところ、さらにその弱いところをねらってくる。彼は、そんな古典的な犯罪者性格だ。一昔まえなら、下町の長屋倫理で、「酒さえ飲まなければいい人なのに」と庇護されたことだろうに。しかし私は女房にいわねばならない。「子どもが殺されるばあいもあるから、一人のときはぜったいにドアをあけさせるな。チェーンをかけておく癖をつけさせておけ。」と。彼を救うことは、私の身の危険、身内の殺人をも覚悟想定しなくてならないこと。私にとって、私の現場にとって、貧困対策とは、そういうことだ。

そういう現場が、現場の人たちが、日本の天井と地下を支えているのである。支えてきたのである。その支えが、ガラガラと音をたてて崩れ始める。いや崩れているのは構造物だけで、支柱となってきた現場の人間は、その崩壊とも無縁なところに実はいるのかもしれない。私が、そのガラガラという音をきくのも、私が中流階級の意識で育てられてきたインテリ大衆であるからかもしれない。

*ホームページより最新アップ『パパ、せんそうって、わかる?』

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