2013年10月26日土曜日

なぜ勉強するのか? していることになるのか?

「けれども、勉強の本質は知識それ自体の獲得ではなく、理解力・想像力・表現力という三つの訓練だということは忘れてほしくありません。/ では、三つの力は何のために身につけるのでしょうか。身につけると、どんないいことがあるのでしょうか。/ 一つ言えるのは、世界の仕組みに対する理解度が増してくるということです。これは、少なくともぼくのような小説家の仕事をしている人間にとってはすごく大事なことです。」(鈴木光司著『なぜ勉強するのか?』 ソフトバンク新書)

なんで勉強をしなくちゃいけないのか、その子育て中の子どもからの問いに、「世界の仕組みを知ること」と解いて『エッジ』(角川ホラー文庫)というSF推理小説を書いた、という鈴木光司氏の新聞でのインタビュー記事に出会い、興味を持ち、当の二著作を読んでみた。この宇宙の自然法則自体が崩れて世界の仕組みの自明性が消失していく『エッジ』の発想は、木から落ちてケガをしてから顕著になったというべき私の最近の神秘主義的なと表現される宇宙理解を刺激してきた。その推理小説の読後、私は桐野夏生氏の新作『だから荒野』を読んでみた。こちらは、46歳の誕生日に、「身勝手な夫や息子たちと決別し」、「1200キロの旅路へ」と出る主婦の物語である。これら自然神秘と通俗世界、この二つに興味をひかせた私の思考回路とは次のようなものだったろう。「勉強しろ!」とうるさいママゴンに息子の一希は「早よ、死ね!」と中学生くらいには言い返し反抗的になっていくことが予想される家庭現状に、夫が自覚もなす術もなく成り行きまかせにまかせていかせるとどうなるか、現役の優秀な作家の想像力ではどうなるのかな、方向性を変えていかせる情報なり認識が得られるかな、と期待した、ということだろう。

で、それらの読後は? ……時間つぶし的には面白かったのだが、私は退屈してしまった、というか、結局は素朴な疑問が残ったままだなあ、問題(現実)解決のヒントはえられなかったようだなあ、いやそう反措定的に考えられるようになっていることが、読んでよかったということなのかなあ、という感想である。

「なんで勉強するのか?」――「世界の仕組みを知るために」。または鈴木氏は、日本人にとっての「論理」力の必要性ということも強調しておられる。私も賛同なのだが、いざ自分の息子への伝達となると、思考=試行がストップしてしまう。このブログでも何度も言及してきたことだが、息子がやっているサッカーもまた、「世界(フィールド)の仕組み」を論理的――ロジスティックに、戦術的に――に解明し、打開していく実践能力をつけさせたいがためである。が、とても小学4年生で国語の理解力もよくない息子にはチンプンカンらしい。自分では選手カードを使っていろいろフォーメーション組んで監督よろしく遊んでいるが。「なんでこんな宿題するの?!」と聞かれて、私は、「コナン君みたいになれたらいいとおもわない?」と答えるのが精一杯な状態だ。しかし推理するのは好きなのか、テレビドラマの「相棒」を面白くみている。

「女房は家出するのか?」「子供は引きこもって反抗的になるのか?」「夫は男尊的でバカなままなのか?」――女房が家出することは、今の時点から、そうなっても自業自得だぞ、戦後のフェミニストたちが批判してきた日本の母親の縮小再生産な反復になっているだけなんだぞ、と言い聞かせている。桐野氏的な認識では、そんな世界認識を説く夫たる私自身が「身勝手」ということになるだろうか? しかし私の認識では、この作品はやはりサラリーマン、会社組織に従属する核家族物語だな、その土壌に問題がある前提だな、という気がしてしまう。雨天中止、というか仕事をさぼれる植木屋さんの私などは、今月はゴールデンウィークなみの休暇=さぼりが、もう今日の台風で三回になる。腰痛も激しいので、家でじっとしている。女房はここぞとばかりに出かけてかえってこない、そんな息抜きプチ家出はしょっちゅうだ。子どもは雨で外ではあそべないので家にいると、サラリーマン家庭の子どもたちがぞろぞろ2DKの我が家に遊びにくる、というか、避難しにくるのだろう。自分の家では騒げないし部屋をちらかせないし。そんな子供たちが私のパソコンでお笑い動画をみてたり、DSをやってたり、漫画本を読んでたりする間で、私は図書館から借りた本を読んでいる。考えてみると、奇妙な光景だ。「おまえのお父さん、なんでいつも家にいるんだ?」という疑問も私が雨天中止の植木屋だということを知っているのでもはや発生せず、私も子供のひとりなように、その間にまぎれこんでいる。

どうも問題は、ちがう風にやってくるのではなかろうか?

昨夜、お笑い番組の動画ばかりみている息子に、いまはグーグルの地図で世界中の風景が見聞できたりするのだから、そういうのみたりしたらどうなんだ? と私がいうと、「うん、こんどから少しはそうしてみるよ」と、やけに素直に返事してくる。なんか最近は私にたいし、とくにそう素直で少々気味が悪い。サッカーコーチを超えて子供に大声で指示をだす女房がベンチコーチから怒られ、私自身が奥さんをなんとかしてくれと相談持ち掛けられたりしたので、そのことで私が「性懲りもなく繰り返すな! そうやっておまえは子供をだめにしているんだぞ! 自分の子どもならしょうがない。が、ほかの子どもたちを素人の思い込みで口をだしてつぶすな!」と怒鳴りちらして以来なような気もする。一希は、何かを理解したのか、それともひきさがって、大人しくなったのだろうか? しかし、いまだに女房とは宿題バトルし、同時に母親から逃れられない二律背反な感情に囚われているようだけど。

しかし私が鈴木氏と桐野氏の二小説に退屈したのは、両氏は「小説の仕組み」は疑っていないのかな、とおもったからであったろう。その提示してある「小説の仕組み」じたいが、私にはもう読めない。読みやすすぎて、退屈する。同時に、そのように読みやすくないと、私には読めない、今は「小説の仕組み」自体を疑いつつ書いていく小説らしい小説を読む気が起きない、が、それを欲しているという気分の矛盾。今は直接的に明快な批評解説文よりも、比喩的で不明瞭な小説的作品に私の現状を解析していく鍵があるのではないかという認識。……上記のような雑文思考が持てただけでも、小説的な作品を読んでみてよかったということになるのかもしれない。

というか、なんで私はこんなふうに勉強しているのか? していることになるのか?

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