「当事者がどこまで自覚しているかは別にして、客観的に見た場合、沖縄県は、信頼もできず力もない東京の中央政府に対する交渉に見切りをつけている。そして、米政府に直接働きかけることによって、突破口を開こうとしている。危機的な状況になると沖縄と沖縄人には、セジ(霊力)が降りてくる。セジを霊力と訳したのは久米島出身の沖縄学者・仲原善忠だ。船にセジがつけば、航海の安全が保障される宝船になる。セジは人にもつく。沖縄県が優れた外交能力を発揮しているのも、目に見えない沖縄と沖縄人を守るセジによるものと筆者は考えている。」(佐藤優著『宗教改革の物語 近代、民族、国家の起源』 角川書店)
日本代表最後の戦い、残念に終わった。前半はとにかくなりふりかまわぬ必死さがプレーに感じられて、なんでこの真剣さを最初からださなかったのだ、Jリーグの練習の時から、とおもった。結局3試合、今回は攻撃サッカーをするぞ、と勢いよく敵地に飛び込んで行って、相手チームの真剣な、大人の強さにあしらわれて帰ってくることになった。しかし、ほとんど大人対中学生くらいのメンタルと頭脳の差があったと私には見えたが、そこまでくるのにも20年かかっていて、ここでの口惜しさと内省を、とくには次のある若い選手がまた一歩前進させてくれたら、と願ってやまない。またそれは、われわれサポーターもが成熟していく必要があることを同時に意味してくることだろう。
とくに最終試合のコロンビア戦、とくに後半に司令塔の10番がでてきてから、私はまだ20代前半のころ、日本バブルがはじけた直後の1990年代初頭から、夜勤の荷物担ぎのバイトを日系を中心とした南米からの男たちと一緒にしていたころのことをおもいだした。ああいう抜けめなさ。普段は怠けているようでいて、というかほんとに仕事はしたくないので、適当にやりすごしながらも、ここで踏ん張れば楽ができる、というポイントを見出すや彼ら全員がドバっと示し合わせていたかのように集中力を発揮する。そのカウンターの一点からみれば、日本人の勤勉さや忍耐などだらだらやっているようなもので、効率がわるい。その賢さとテレパシーがあるかのごとき集団性が、私にいまもって強く印象づけられている国際体験、カルチャーショックだった。このチームプレーは、歌舞伎町や六本木などでの遊びの場でも発揮される。とくに、日本の女の子にちょっかいだそうとするときに。
そんな光景をみてきた私からすると、試合後にゴミ拾いする日本のサポーターのニュースは、外国のメディアも肯定的に報道していたとはいえ、嘘だろう、本当は「よくやるよ」と軽蔑していたはずだ、となる。俺たちは真似しないけど、偉いことは認めてやるよ。だから、今後もたのむね、と。で、たとえばそう日本人があからさまにいわれたとして、果たしてかの善きサポーターは黙々とゴミ拾いを続けられるだろうか? その覚悟があってやっているのだろうか? むしろ、善意でやっているのにそんな仕打ちとは、と逆上気味になるか、泣き寝入り的に引き下がるのではないだろうか? 自分のゴミを拾って帰るのはいい(あたりまえだが)、しかしそれ以上のことをすることには、自分の行為を世界基準で客観視し、それでもやると主体的に折り返す、習慣的ではない思想的な営みとして引き受けていかなくてはならないのである。だからおそらく、外国の集団がゴミ拾いしたら、それが貧しい人たちの仕事を奪う搾取行為だ、とうの左翼言説からの批判をも織り込んだ、闘争的な、だから組織的に持続可能な体制的なものになる気がする。少なくとも、そんな覚悟なくして、善意の押し売りみたいなことはやってはいけない、というのが私の労働現場からえた国際感覚である。弱い奴は、用心して、大人しくしていろ。それができるのが、大人だ。そう仕掛けてくる相手に、前回ブログの冒頭で引用した、荷物担ぎのユダヤの思想家ホッファーのように、こちらも知恵を返してやり返してやれること、それが、相手から「ばかではない」と認められ、フェアな”友達”になれる条件である。そして、ほんとうに弱いことを自覚して大人しくしている、立場の弱い日本の中高年の労働者たちに、彼らはほんとうにやさしくするのである。中途半端な賢しらは、売られた喧嘩は買うよ、に始末する。ブラジルでゴミ拾い、とは、喧嘩を売っているようなものであろう。
選手でも、サポーターでもみえたその日本人の弱さ。そのことがまずわれわれに自覚されてきた大会だった、と私は分析する。いや、攻撃するぞ、とかいってそうさせてもらえなかったザマなのだ。そうしなくてはならない。そしてそのことに、卑下する必要はまったくない。その自覚と内省があって、はじめて将来にむけた、いや今からはじまる、日本サッカーの戦い方が見えてくるのではないか、とおもうからだ。少なくとも、私には見えたような気がしたのである。
真面目で勤勉であり忍耐強い、という弱さ。人間的な喜怒哀楽・浮き沈みというよりも、機械的な一定さ安定さの中での方が自分たちの力を発揮させられる、という弱さ。オランダやドイツのように豪快に緻密に攻め切れるわけでもなく、イタリアや南米の中堅チームのように自陣に引いてカウンターを狙い一点を守りきれる賢さもない。しかしこれは、自分たちの弱さに徹していないからではないか? コロンビア戦、本田は一人で不器用なドリブルをゴリゴリ仕掛けてボールを奪われ失点する。単純に、奪われ方がまずすぎる。同時に、攻撃的なサッカーを標語してきただけに、カウンターに対するケアが育成されていない。オシムが助言していたように、そもそもセンターバックの足がおそすぎる。かといって高さも中途半端。そうしたことすべて、自分たちを過信し買い被っていたからだ、と自覚しよう。だからでは、自分たちの弱さに徹するとはどういうことだ?
私は、居合い抜きのイメージを提供しようとおもう。日本の武士、サムライの得意技といったら、これだろう? カンフー激のように格好良く刀を振り回すのではなく、ただにらみ合い、ひたすら戦わないでにらみ合い、相手がしびれを切らして動きをみせた隙に一撃を与えて終える。イチローの打法もある意味では居合い抜きだ。ホームランをかっとばす技術ではない。自分の小ささを自覚したところからくる弱者の一撃打法、内野案打戦法だ。で、それがサッカーではどうなる? スペインのポゼッションサッカーからゴールを目指す攻撃性を抜いたものだ。……ん? つまり、自陣に引いてカウンター狙いで守るサッカーではなく、敵陣に引いてゴールを狙わないパス回しサッカーだ。そして、ひたすら相手がへばり、足がつるのを待つ。そうなった最後の5分間で勝負する。勝をとれなかったらしょうがない、俺たちは世界で勝ちきれる柄ではないのだ、と自覚している。その自覚の先にだけ、運が良ければ、W杯優勝もあるだろう、と割り切っている。単調な、機械的な動きを忍耐強く、勤勉にこなしつづけ、その退屈さに付き合える外国チームは少ないだろう。しかし、すでに、日本代表のU-17は世界大会でこの退屈さとポゼッションゲームの模範例を示していたではないか? いや、ザッケローニの戦術もまた、ギリシア戦、フランスの新聞によれば眠くなる試合運びをさせる「催眠術師」だとのことだった。この、スペインサッカーとは似て非なるものこそ、日本の戦い方として、われわれに合った世界性を持つのではないだろうか?
おもえば、本来、日本の柔道とはそういうものだった。相手と組み、動かない。相手が耐えきれず反撃にきたときに、その力を利用して投げる技だった。が、それではいつになっても勝負をつける戦いがはじまらず、退屈なので、オリンピック用にルールが変更され、早く戦え、と急かされるようになっているのだった。いや、オリンピックだけではない。日本の憲法もそうだ。9条を抱えて、専守防衛というわれわれに合ったやり方で無理なくここまできたのに、世界で戦え、戦えるように、と、弱さを自覚・内省することなく、中途半端な賢しらで、原則の解釈だけを変更して打って出ようとしている。そんなに世界のゴミ拾いがしたいのか? じゃあやって、たのむよ。俺たちは、後方支援でいいからさ、と、私には一緒に仕事をしたコロンビアやペルー、チリやアルゼンチンからの労働者たちの声が聞こえてくる。われわれの弱さを自覚しろ、ウルグアイやコスタリカのサッカーのように。集団的自衛権だって? 自分のゴミだけを拾うことしか、われわれの度量ではできないのだ。そしてその弱さを自覚することにこそ、、世界の人々との連帯や、心からの共有が芽生えてくるものなのである、というのが、私が労働現場から得た教訓である。
2014年6月25日水曜日
2014年6月12日木曜日
学習塾と知性
「…私はすぐに汗だくになり、ジャケットだけでなくシャツも脱ぐことになった。それ以降、仕事はまるで急斜面をはてしなく登りつづけるようなもので、このままやれるのだろうかと思った。しかし、向いの相棒を見ると、落ち着き払っていて、新しいシャツには一筋の汗も見えない。それどころかまるで遊んでいるかのようだ。
まもなく、私のまわりでおかしなことが起っていることに気づいた。みなが私の様子をうかがっており、株式市場のブローカーのように、指で合図を送り合っている。そして、彼らはしきりに笑ったり、しゃべったりしていた。相棒は鼻歌を歌いながら、仲間たちにウィンクをしている。起っていることが何であれ、それが私のことであるのは間違いない。それが何かわからなければ、自分の知力への自信が失くなってしまう。相棒の動きを注意深く観察してみた。なぜあんなに簡単に仕事がこなせるのだろうか。体は私の半分しかなく、力も二分の一なのに。突然、喜びがあふれてきた。わかった!」(『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 中本義彦訳 作品社)
小学校も高学年になると、学習塾に通っているため、サッカークラブの練習や試合にこれなくなる子も多くなる。東京23区内の高台地区に居住する学校のクラブコーチの話では、学年の8割ぐらいの子が、中高一貫の受験に備えるようになるという。谷底の方の学校の子たちはそこまではいかないようだが、ぽつりぽつりとでてくる。母親の顔をみていて、だいだい予測がつく。子どもにきいてみると、やはりそうで、五学年から塾の成績順によるクラス分けができて、その競争についていくのに大変になるそうだ。ちょっとノイローゼ気味になっているのではないか、とその子の様子から心配になって気もするが、他人の家の方針にかかわることまで深入りはできまい。ただそういう事情をコーチとして知っていると、練習に来ない奴はだめ、と排他的に、あるいは運動部的に対処するのは子供の成長にとってよくはないだろう、と判断するようになる。子ども自身は、仲間とやりたいのだから、親の事情にしろ、コーチの考えにしろ、大人の都合で一方的に試合にもでられなくなることは、不可解だろうから。
受験に受かってから、その中学のクラブチームで伸び伸びと上達していく、ということも多いだろう。というか、公立の部活動チームより、そうした進学校のチームのほうが、強いようにも見受けられる。サッカー専門のクラブチームよりは技術的に劣るかもしれないが、いわゆる頭の良い子たちは運動もできる、というのが相場だろう。たしかに、脳みそや体が柔軟な小学年代をボールコントロールの足技習得に全うできなかった時間は取り返しがつかないが(だから、サッカー専門的にやってきた子供たちにはかなわなくなるのかもしれないが)、守備や戦術的なポジショニングによって、そうは点をとられないサッカーができてゆくのだろう。サッカー経験のない大人でも、子供相手にはそれなりにやれてしまうのと同様だ。
息子の一希が、サッカーを専門的にやっていくほどそれが好きかどうかはおぼつかない。ひたすら壁にボールをぶつける遊び練習をしていて、あきない、なんでだかボールをいじっていると時間がたつのを忘れる、そんなサッカーというより、ボールに選ばれているという感覚がないと、本性的に難しいだろうな、というのが私の経験である。野球をやっていた私は、あきなかった。ひたすら、隣の人の家のブロック塀にボールを投げ当てては捕球していた。どんなボールでもとれる、そんな感覚がみについてくる。しかしそれでも、技術的には社会人野球レベルにはなれたかもしれないが、スポーツを仕事とめざしていくには、何か性向的に違っていたのだ。むしろ私は野球を材料に、より広範で突っ込んだ思考を突き詰めていく読書をやる方向に向かった。しかし読書人としても、プロにはなれない、セミプロレベルで、野球の場合と同じなようだ。これは半端というよりも、専門的にはなれない隙間に入り込む性向として自分が出てくる、という感じだ。だから、20年以上やっている植木職人という仕事よりも、なおフリーターのままという、なんでもない感覚のほうが強いのである。
そんななんでもない私が、一希をはじめ子供たちにいいたいことはこうだ。
学校の勉強でも、サッカーの練習でも、それは社会や世界にでたとき、ほんとうの問題に直面し解決していくためにやっていることなのだ。君たちは、スパイクを履くためにリボン結びという結び方を学んだ。それを知らなければ、すぐにほどいて結びなおすことも難しい。しかしそれは、その結び方を暗記していればいい、ということではない。その背後にある、本当の問題、すぐにほどけなくてはならない、すぐに結べなくてはならない、という矛盾を洞察し、理解する、ということが肝心なんだ。そこを理解すれば、君は、リボン結び以外に、もっといい結び方を発明できるかもしれない。一つの例題を、学習をとおして、君は自由な発想を手に入れる。だから、ならばもっと問おう。なんで「すぐに」ほどいて、結ぶ必要があるのか? 時間がない? 時間がないとはどういうことだ? 種や苗をを植えるのにだって、いつだっていいわけではない。時季をのがせば、のんきにしていたら、食糧も手に入らなくなる。つまり自然自体が、われわれ人間をしてその矛盾をせっぱつまらせているとしたら?
最近、プロサッカーの試合中、こんな事件があったね。ブラジル代表でもある黒人の選手が、コーナーキックを蹴ろうとしたら、観客からバナナが飛んできた。それは、おまえら黒人は猿で人間じゃねえだろう、という差別表明を意味していた。その瞬間、この選手はコーナーキックを中断したのではなかった。とっさにバナナをひろってむいて食べて、そのままプレーを続行したのだ。もし彼がそこでプレーを中断していたら、観客と喧嘩になって試合どころではなかったかもしれない。(かつては、バルセロナにいた当時のエトー選手がこうした状況に追い込まれて、試合が中断したことがあったんだよ。)差別には反対しなくてはならない、それはサッカーよりも大きな問題だ。試合をやめなくてはならない、続けなくてはならない、この矛盾を、彼は一瞬にして解決して見せたんだ。バナナを投げた当人は、面食らって、自分を反省する機会をもたされたことだろう。
しかも、この実践に対する他のサッカー仲間の反応も早かった。同じブラジル代表で黒人系のネイマールは、バナナをもって「俺たちはみなサルだ」というメッセージをネット上で発信した。だって、ヒトはサルから進化した、というのが西洋(白人)の科学なんでしょ、ならば、俺たち黒人だけがサルだというなら、白人の科学は嘘をついている、世界に嘘をまき散らしている、ということかい? どっちがほんとうなんだ? 俺たち(だけ)がサルだというのか、ヒトはみなサルだというのか? ――そう、根源的な問題を問い詰めている、ともいえるよね、世界の仲間と連帯しながら。
君たちも、こうした本当の知性を発揮することができるだろうか?
まもなく、私のまわりでおかしなことが起っていることに気づいた。みなが私の様子をうかがっており、株式市場のブローカーのように、指で合図を送り合っている。そして、彼らはしきりに笑ったり、しゃべったりしていた。相棒は鼻歌を歌いながら、仲間たちにウィンクをしている。起っていることが何であれ、それが私のことであるのは間違いない。それが何かわからなければ、自分の知力への自信が失くなってしまう。相棒の動きを注意深く観察してみた。なぜあんなに簡単に仕事がこなせるのだろうか。体は私の半分しかなく、力も二分の一なのに。突然、喜びがあふれてきた。わかった!」(『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 中本義彦訳 作品社)
小学校も高学年になると、学習塾に通っているため、サッカークラブの練習や試合にこれなくなる子も多くなる。東京23区内の高台地区に居住する学校のクラブコーチの話では、学年の8割ぐらいの子が、中高一貫の受験に備えるようになるという。谷底の方の学校の子たちはそこまではいかないようだが、ぽつりぽつりとでてくる。母親の顔をみていて、だいだい予測がつく。子どもにきいてみると、やはりそうで、五学年から塾の成績順によるクラス分けができて、その競争についていくのに大変になるそうだ。ちょっとノイローゼ気味になっているのではないか、とその子の様子から心配になって気もするが、他人の家の方針にかかわることまで深入りはできまい。ただそういう事情をコーチとして知っていると、練習に来ない奴はだめ、と排他的に、あるいは運動部的に対処するのは子供の成長にとってよくはないだろう、と判断するようになる。子ども自身は、仲間とやりたいのだから、親の事情にしろ、コーチの考えにしろ、大人の都合で一方的に試合にもでられなくなることは、不可解だろうから。
受験に受かってから、その中学のクラブチームで伸び伸びと上達していく、ということも多いだろう。というか、公立の部活動チームより、そうした進学校のチームのほうが、強いようにも見受けられる。サッカー専門のクラブチームよりは技術的に劣るかもしれないが、いわゆる頭の良い子たちは運動もできる、というのが相場だろう。たしかに、脳みそや体が柔軟な小学年代をボールコントロールの足技習得に全うできなかった時間は取り返しがつかないが(だから、サッカー専門的にやってきた子供たちにはかなわなくなるのかもしれないが)、守備や戦術的なポジショニングによって、そうは点をとられないサッカーができてゆくのだろう。サッカー経験のない大人でも、子供相手にはそれなりにやれてしまうのと同様だ。
息子の一希が、サッカーを専門的にやっていくほどそれが好きかどうかはおぼつかない。ひたすら壁にボールをぶつける遊び練習をしていて、あきない、なんでだかボールをいじっていると時間がたつのを忘れる、そんなサッカーというより、ボールに選ばれているという感覚がないと、本性的に難しいだろうな、というのが私の経験である。野球をやっていた私は、あきなかった。ひたすら、隣の人の家のブロック塀にボールを投げ当てては捕球していた。どんなボールでもとれる、そんな感覚がみについてくる。しかしそれでも、技術的には社会人野球レベルにはなれたかもしれないが、スポーツを仕事とめざしていくには、何か性向的に違っていたのだ。むしろ私は野球を材料に、より広範で突っ込んだ思考を突き詰めていく読書をやる方向に向かった。しかし読書人としても、プロにはなれない、セミプロレベルで、野球の場合と同じなようだ。これは半端というよりも、専門的にはなれない隙間に入り込む性向として自分が出てくる、という感じだ。だから、20年以上やっている植木職人という仕事よりも、なおフリーターのままという、なんでもない感覚のほうが強いのである。
そんななんでもない私が、一希をはじめ子供たちにいいたいことはこうだ。
学校の勉強でも、サッカーの練習でも、それは社会や世界にでたとき、ほんとうの問題に直面し解決していくためにやっていることなのだ。君たちは、スパイクを履くためにリボン結びという結び方を学んだ。それを知らなければ、すぐにほどいて結びなおすことも難しい。しかしそれは、その結び方を暗記していればいい、ということではない。その背後にある、本当の問題、すぐにほどけなくてはならない、すぐに結べなくてはならない、という矛盾を洞察し、理解する、ということが肝心なんだ。そこを理解すれば、君は、リボン結び以外に、もっといい結び方を発明できるかもしれない。一つの例題を、学習をとおして、君は自由な発想を手に入れる。だから、ならばもっと問おう。なんで「すぐに」ほどいて、結ぶ必要があるのか? 時間がない? 時間がないとはどういうことだ? 種や苗をを植えるのにだって、いつだっていいわけではない。時季をのがせば、のんきにしていたら、食糧も手に入らなくなる。つまり自然自体が、われわれ人間をしてその矛盾をせっぱつまらせているとしたら?
最近、プロサッカーの試合中、こんな事件があったね。ブラジル代表でもある黒人の選手が、コーナーキックを蹴ろうとしたら、観客からバナナが飛んできた。それは、おまえら黒人は猿で人間じゃねえだろう、という差別表明を意味していた。その瞬間、この選手はコーナーキックを中断したのではなかった。とっさにバナナをひろってむいて食べて、そのままプレーを続行したのだ。もし彼がそこでプレーを中断していたら、観客と喧嘩になって試合どころではなかったかもしれない。(かつては、バルセロナにいた当時のエトー選手がこうした状況に追い込まれて、試合が中断したことがあったんだよ。)差別には反対しなくてはならない、それはサッカーよりも大きな問題だ。試合をやめなくてはならない、続けなくてはならない、この矛盾を、彼は一瞬にして解決して見せたんだ。バナナを投げた当人は、面食らって、自分を反省する機会をもたされたことだろう。
しかも、この実践に対する他のサッカー仲間の反応も早かった。同じブラジル代表で黒人系のネイマールは、バナナをもって「俺たちはみなサルだ」というメッセージをネット上で発信した。だって、ヒトはサルから進化した、というのが西洋(白人)の科学なんでしょ、ならば、俺たち黒人だけがサルだというなら、白人の科学は嘘をついている、世界に嘘をまき散らしている、ということかい? どっちがほんとうなんだ? 俺たち(だけ)がサルだというのか、ヒトはみなサルだというのか? ――そう、根源的な問題を問い詰めている、ともいえるよね、世界の仲間と連帯しながら。
君たちも、こうした本当の知性を発揮することができるだろうか?