2014年6月12日木曜日

学習塾と知性

「…私はすぐに汗だくになり、ジャケットだけでなくシャツも脱ぐことになった。それ以降、仕事はまるで急斜面をはてしなく登りつづけるようなもので、このままやれるのだろうかと思った。しかし、向いの相棒を見ると、落ち着き払っていて、新しいシャツには一筋の汗も見えない。それどころかまるで遊んでいるかのようだ。
 まもなく、私のまわりでおかしなことが起っていることに気づいた。みなが私の様子をうかがっており、株式市場のブローカーのように、指で合図を送り合っている。そして、彼らはしきりに笑ったり、しゃべったりしていた。相棒は鼻歌を歌いながら、仲間たちにウィンクをしている。起っていることが何であれ、それが私のことであるのは間違いない。それが何かわからなければ、自分の知力への自信が失くなってしまう。相棒の動きを注意深く観察してみた。なぜあんなに簡単に仕事がこなせるのだろうか。体は私の半分しかなく、力も二分の一なのに。突然、喜びがあふれてきた。わかった!」(『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 中本義彦訳 作品社)

小学校も高学年になると、学習塾に通っているため、サッカークラブの練習や試合にこれなくなる子も多くなる。東京23区内の高台地区に居住する学校のクラブコーチの話では、学年の8割ぐらいの子が、中高一貫の受験に備えるようになるという。谷底の方の学校の子たちはそこまではいかないようだが、ぽつりぽつりとでてくる。母親の顔をみていて、だいだい予測がつく。子どもにきいてみると、やはりそうで、五学年から塾の成績順によるクラス分けができて、その競争についていくのに大変になるそうだ。ちょっとノイローゼ気味になっているのではないか、とその子の様子から心配になって気もするが、他人の家の方針にかかわることまで深入りはできまい。ただそういう事情をコーチとして知っていると、練習に来ない奴はだめ、と排他的に、あるいは運動部的に対処するのは子供の成長にとってよくはないだろう、と判断するようになる。子ども自身は、仲間とやりたいのだから、親の事情にしろ、コーチの考えにしろ、大人の都合で一方的に試合にもでられなくなることは、不可解だろうから。

受験に受かってから、その中学のクラブチームで伸び伸びと上達していく、ということも多いだろう。というか、公立の部活動チームより、そうした進学校のチームのほうが、強いようにも見受けられる。サッカー専門のクラブチームよりは技術的に劣るかもしれないが、いわゆる頭の良い子たちは運動もできる、というのが相場だろう。たしかに、脳みそや体が柔軟な小学年代をボールコントロールの足技習得に全うできなかった時間は取り返しがつかないが(だから、サッカー専門的にやってきた子供たちにはかなわなくなるのかもしれないが)、守備や戦術的なポジショニングによって、そうは点をとられないサッカーができてゆくのだろう。サッカー経験のない大人でも、子供相手にはそれなりにやれてしまうのと同様だ。

息子の一希が、サッカーを専門的にやっていくほどそれが好きかどうかはおぼつかない。ひたすら壁にボールをぶつける遊び練習をしていて、あきない、なんでだかボールをいじっていると時間がたつのを忘れる、そんなサッカーというより、ボールに選ばれているという感覚がないと、本性的に難しいだろうな、というのが私の経験である。野球をやっていた私は、あきなかった。ひたすら、隣の人の家のブロック塀にボールを投げ当てては捕球していた。どんなボールでもとれる、そんな感覚がみについてくる。しかしそれでも、技術的には社会人野球レベルにはなれたかもしれないが、スポーツを仕事とめざしていくには、何か性向的に違っていたのだ。むしろ私は野球を材料に、より広範で突っ込んだ思考を突き詰めていく読書をやる方向に向かった。しかし読書人としても、プロにはなれない、セミプロレベルで、野球の場合と同じなようだ。これは半端というよりも、専門的にはなれない隙間に入り込む性向として自分が出てくる、という感じだ。だから、20年以上やっている植木職人という仕事よりも、なおフリーターのままという、なんでもない感覚のほうが強いのである。

そんななんでもない私が、一希をはじめ子供たちにいいたいことはこうだ。

学校の勉強でも、サッカーの練習でも、それは社会や世界にでたとき、ほんとうの問題に直面し解決していくためにやっていることなのだ。君たちは、スパイクを履くためにリボン結びという結び方を学んだ。それを知らなければ、すぐにほどいて結びなおすことも難しい。しかしそれは、その結び方を暗記していればいい、ということではない。その背後にある、本当の問題、すぐにほどけなくてはならない、すぐに結べなくてはならない、という矛盾を洞察し、理解する、ということが肝心なんだ。そこを理解すれば、君は、リボン結び以外に、もっといい結び方を発明できるかもしれない。一つの例題を、学習をとおして、君は自由な発想を手に入れる。だから、ならばもっと問おう。なんで「すぐに」ほどいて、結ぶ必要があるのか? 時間がない? 時間がないとはどういうことだ? 種や苗をを植えるのにだって、いつだっていいわけではない。時季をのがせば、のんきにしていたら、食糧も手に入らなくなる。つまり自然自体が、われわれ人間をしてその矛盾をせっぱつまらせているとしたら?
最近、プロサッカーの試合中、こんな事件があったね。ブラジル代表でもある黒人の選手が、コーナーキックを蹴ろうとしたら、観客からバナナが飛んできた。それは、おまえら黒人は猿で人間じゃねえだろう、という差別表明を意味していた。その瞬間、この選手はコーナーキックを中断したのではなかった。とっさにバナナをひろってむいて食べて、そのままプレーを続行したのだ。もし彼がそこでプレーを中断していたら、観客と喧嘩になって試合どころではなかったかもしれない。(かつては、バルセロナにいた当時のエトー選手がこうした状況に追い込まれて、試合が中断したことがあったんだよ。)差別には反対しなくてはならない、それはサッカーよりも大きな問題だ。試合をやめなくてはならない、続けなくてはならない、この矛盾を、彼は一瞬にして解決して見せたんだ。バナナを投げた当人は、面食らって、自分を反省する機会をもたされたことだろう。
しかも、この実践に対する他のサッカー仲間の反応も早かった。同じブラジル代表で黒人系のネイマールは、バナナをもって「俺たちはみなサルだ」というメッセージをネット上で発信した。だって、ヒトはサルから進化した、というのが西洋(白人)の科学なんでしょ、ならば、俺たち黒人だけがサルだというなら、白人の科学は嘘をついている、世界に嘘をまき散らしている、ということかい? どっちがほんとうなんだ? 俺たち(だけ)がサルだというのか、ヒトはみなサルだというのか? ――そう、根源的な問題を問い詰めている、ともいえるよね、世界の仲間と連帯しながら。

君たちも、こうした本当の知性を発揮することができるだろうか? 

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