2015年8月19日水曜日

価値について

「集団の中で価値観は重要だ。価値観を持たない者は何者でもない。それらはあなたをより強く確固たるものにする。私の価値観は、家族と子供の時プレーしていたベレスで植えつけられた。…(略)…子供の時に教えられた価値観というのは、サッカー選手になるかどうかとは関係なく、その後の人生の指針になる。成長した後で変えたり、正しい方向へ向かわせようとするのは難しい。だからこそ、小さい時から道徳を教えなくてはいけない。監督としてサッカーを教えるよりも大事なくらいだ。あなたが子どもたちに示す人生の価値観は、サッカーの実践よりも重要だ。」(『シメオネ超効果』 ディエゴ・シメオネ著 木村浩嗣訳)

夏休みに入って、一希のもとに、つまりこの2LDKの狭い団地部屋に、同じ地域クラブの子供たちではなく、新宿代表の、他の地区、もっと階層のエリート的な地区の子弟が頻繁に遊びにくるようになった。おそらく、気兼ねなく家に入れるのが、珍しいのだろう。同じ団地に住んでいる子の家には、いま父親がいるからだめだとかで立ち寄れなくなったりする。その父親も私と同じ地域クラブのパパコーチなのだが、ふとそうした親たちの仕草、たとえば、新しく買ったデジカメを子供が勝手にいじろうとすると叱ったり、といったところに、私との本当の、実際実践的な、身体的な価値の違いがあるのだな、と気づかされる。父親のパソコンを勝手に友達と使えることなどありえないだろう。だから、そんなパパコーチが、ひとりでドリブルばかりしてないで仲間にパスをだせ、チーム全員で戦って勝利を目指すんだ、と言っても、子供たちは説得力を感じないだろう。子供たちほど、その言っている内容ではなく、その行為が、本当に意味してしまうことに敏感である。サッカーでは、その分野の知識としてパスサッカーをやるようになっても、実際の生活態度において、言葉ではなく、行為が意味してきた価値観を学んでいってしまうだろう。今の風潮なら、私的所有を当然な前提とし、我が物にするよう頭を使う賢さや立ち回りだ。しかしなお小学六年生にすぎない子供たちは、その狭い個人利害、関心に基づいた自分たちへの対応、反応環境が好きではない、それよりこっちのほうが面白い、と我が家にやってくるのだろう。
 しかし、なんで私は、私的所有にこだわらないような感性=価値を体現してしまっているのだろう? 自身はやはり、プチブル出で、少年野球からは集団主義的な価値を教育されてきても、それは頭でっかちなだけになっただけであって、親からは個人主義的な価値を行為指示されてきたとおもう。ただ、進学時や、地元のエリート校に入って顕著に意識されてきたその風潮への違和感、おそらくは我が家にやってくる子供たちが感じるだろう羨望と蔑視の混在した気分に通じるだろうそこに、私は正直に立ち止まって引きこもったのだ。子供部屋に。そこで独学的に意識化したものは、偶然にも、上京して暮らした六畳一間だけの安アパート裏にあった植木職人の家に勤めることになって、実践的に体得されていくことになった。そこでは、子供のころは文字通り長屋住まいで過ごした職人たちがいた。彼らは、隣の家の醤油は我が家のもの、みたいな共同所有を前提にしてきた人たちであり、ゆえに、あとから世の当然となった私的所有が前提の社会から、自分たちが取り残されていることに半ば自覚的である。私は、自他の区別がつかない赤ん坊のようなところのあるそんな意識世界に批判的でもあるけれど、偽物な個人主義としか思えない今の世の風潮よりかは、マシな方向へ向けての前提としてなさねばならない価値の一面だろうと思っている。
それは、社会主義的ということだろうか? 資本主義が私的所有に基づくというのなら。私は、そうした外的な主義主張のことはわからない。ただ、この2LDK団地、林芙美子の作品では乞食村と言及されていたその跡地(追いだし地)に建てられた当時としてはモダンな建物の周辺で、女房の近所づきあいからはじまった生活クラブに入会しているのだから、外的にもそうに近い、ということになるのかもしれない。そしてその女房は、熊本で水俣病を起こした会社の社長の娘だったらしく、その家での価値に反抗し家出したような状態で、そのとき、NAMという左翼運動で知り合い、ということだから、内的に獲得してきている価値でも、外的な価値でも、そうに近くなっている、ということなのかもしれない。ただし、生活上の共同所有社会は、右翼ともいえるので、私の言動は、そう受け取られている向きもあるようだが、私自身は、そうした外的な事柄は理解しずらく、どうでもいい。
そんな偶然、この人生の価値運動は、だから運命的に続いている。一希には、とりあえず、引きこもれる子供部屋は、もうない。
私たちは、どこへゆくだろうか?

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