「一つは、何故各個人にとって動機も背景も一様ではないはずの一大事である自殺の数が、この国で毎年ほぼ一定数であるのか不思議でしょうがないから、なんとか理由を知りたい、説明を試みたいという欲求がわくのだろう。そうして、もう一つは、その数が1997年の約二万四〇〇〇から1998年の約三万二〇〇〇に急増し、翌年からは再び、ほぼ一定数を保っているのだが、1997年以前も二万三〇〇〇前後であまり変動がなかったことから、この1997年から1998年にかけて何かめざましい変化がこの国で生じたと考えられるので、その変化について考えをめぐらせたいと思うのだろう。
だが、表向きはこの二つだが、考えざるを得なくなった一番深い動機は、1997年の前半に自分もまた明らかに自殺の衝迫の内にあったからだ。当時のことは、まともに思い返すのを避けてきた。嫌悪感と恐怖の故である。」(飛弾五郎著「自殺について」・『飛弾五郎の初心とその持続――飛弾五郎文選』所収 高澤秀次編 associations.jp )
「社会学がひとつの科学であり始めるのは、社会学が、人びとがときに本人たちの意識を超えた社会的な力によって動かされるものだということを認めるときであると、デュルケームは言った。人びとが自分たちの行動に与える意識的解釈は必ずしも正確ではない。かくして、近代社会学を創始した著作である『自殺論』は、何人かの自殺者たちが遺した説明や、死亡を記録した係官によって特定された動機を拒否するところから始まっている。デュルケームはむしろ、自殺行為が客観的統計の中で、時、空間、家族状況、宗教によってどう分布しているかを見ることによって現象の意味――あるいはむしろ複数の意味――を探究している。それこそがまさに、「私はシャルリ」という現象を理解するためにわれわれがやらなければならないことだ。このような展望において、デモ参加者たちを煩わせることはしないでおこう。彼らはしばしば、自らがデモに参加して何をしていたのかを本当には説明することができなかったのである。」(『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』 エマニュエル・トッド著 堀茂樹訳 文春新書)
飛弾さんが亡くなったかもしれないと、友人からメールで知らされたのは、もう半年近くまえだろうか。その真偽がようやくのこと確認できたのは、年末になってから。そして昨日、その確認の労を知り合いづてにとってくれた、今は早稲田の古本屋の店主から冒頭引用の追悼冊子のコピーをいただいた。彼は、その冊子のエセーの一つ、柄谷氏の社会運動たちあげにかかわる熊野大学での「七人の受講生」の出会いをつづったものの中で、「H氏」と紹介されている人物だったが、私が問い合わせるまで、飛弾さんのことは知らなかった。年に一度は訪れてくれていたのが最近みえてなかったからそれは本当かも、とすぐに思いつく連絡手段で探りはじめたのだったが、そのH氏と私の電話がつながるまでに、数か月が過ぎていた。普段はいつも店じまいなような古本屋の座敷で話しこんでから家にもどると、さっそく確認できたと電話がくる。自宅へのものであったので、受話器をとった女房とそのまま話し込む。というのは、私の女房も、その飛弾さんのいう「七人の受講生」のうちの一人で、「Y]と紹介されている女性だからである。だから、もともと、私よりも女房のほうが、その真偽を知りたがっていた。
私が飛弾さんと出会ったのは、柄谷氏の始めたNAMがその著作を通して参加者を呼びかけはじめてからで、私の、たしかルソーと植木屋技術のことを掛け合わせたメールでの文が飛弾さんの目にとまって、東京の事務所でチューターをやってくれないか、と声をかけられたのがきっかけだっただろう。「ダンサーのY]こと女房と話したのも、おそらくそこでの会合が最初であったろう。あれから、その社会運動が、あのような解散にいたる顛末をふむことは、飛弾さんにはだいぶショックだったろう。そして、その解散へ向けて一躍をかった張本人の一人であるかもしれないと飛弾さんは推察したろう私のことを、飛弾さんはよくおもっていないな、と私は感じた。だから、私は、ここで飛弾さんを追悼するようなことはしたくない、というか、できない。自らの命を贈与するまでにしてあの運動にかかわっていたかもしれない者の真剣さと、いま向き合える私がここにいるとはおもえない。私はただ、遺作集として組まれたその小さな冊子を読んで、ほとんど自動的に思い浮かんできた想念を、ブログとして書いてみるだけである。
私はその飛弾氏の冊子を手に取る前、上引用の、トッドの『シャルリとは誰か?』を読んでいた。その作品を、柄谷氏が書評でとりあげていると、飛弾氏の件を真っ先に知らせてくれた先にあげた友人のメールにあったからである。私はすでに、シャルリ・デモには懐疑的なブログを書いていたので、柄谷氏のほうが先にその作品を書評してしまったようですよ、と。またその友人のメールには、最近神田の古本屋で、かつての『批評空間』を買ったら、飛弾氏の定期券がはさまっていた、ともあった。
柄谷氏のトッド評とは、トッドの統計学を、「家族内での交換様式」としてみる見方、と自身の「世界史の構造」的な理論に引寄せることから語られている。そして飛弾氏は、日本における自殺件数の1997~1998年にかけての急激な増加を、その交換理論において納得しようとした。――「様々な人間の集団が形成されるのはこれらの交換関係に基づくと洞察するこの理論は、任意の社会構成体に法則が見い出されることの説明をなしうる。…(略)…資本主義万能、すなわち商品交換が圧倒的に優勢だった社会構成体から、収奪と再分配という交換関係が、すなわち国家が前面に露出した社会構成体への移行があったのではなかったか、と疑ってみたい。」(前掲文)
日本バブルがはじけたとされるのは、1992年ごろである。一度に多くの会社が決算を迫られると、むろん貨幣が足りなくなるので(信用で実際の貨幣量よりは多くの取引がなされているので)、そこで破産がおきる。が、実際の会社の倒産までには、時間がかかる。「待ってくれ」という命乞いのやりとりがあるのだ。しかし、いつまでも待ってはくれない。その時間切れが、1997年ごろからはじまったのだろうことは、倒産件数の急激な増加、その統計結果をみればわかる。要は、自殺数の増加は、実際の倒産件数とパラレルであることがわかるし、おそらく、そうみるのが常識的な線だろう。私の草野球仲間だった不動産屋の社長も、それより少し遅れてだったが、小学生の息子とまだ小さな娘を残して、自動車の中で睡眠薬を飲んで自殺している。そのときの保険金で、妻子は暮らせているのかもしれない。当時まだ40代のその社長は、死ぬ前、若い衆を2・3人つれて、韓国へカジノにいっている。むろん、金はだしてやっている。まさに、命をかけた賭けにいったのだろう。
なんで自殺数の増加があったのか? バブルがはじけたから。その言い方を、交換理論を使って、難しく言うことはできる。資本が信用でまわっている交換様式C(商品交換)のうちはいいけれど、それが破綻・中座してしまえば、その回路とは別系統であっても、なんとしても金を回収しなくてはならない。全額は、信用でヴァーチャルに膨らんでいただけだから、物理的に無理である。だから、収奪と再配分という、国家的暴力、すなわち交換様式Bに頼らざるをえなくなってくる、と。この二つの言い方の違いに、何か意義があるのだろうか? 本当に、この言い換えで、飛弾氏は、自身の自殺衝迫をなだめることができたのだろうか?
アメリカの社会運動の作品翻訳を数多く手掛けている高澤氏編集のこの遺作集に、「写真」という、熊野大学のセミナーからうまれたという文集『牛王』へ掲載予定だった、飛弾氏の遺作になったエセーが収められている。それは、飛弾氏の父親の葬儀をめぐって綴られたもので、飛弾氏の長男、飛弾氏の父からすれば孫にあたる3代目の世代までの集まりのことが書かれている。妻と、次男・三男は実家にやってきたが、「自分と折り合いの悪い長男が来てくれるだろうかという一点」が喪主たる飛弾氏の「気がかり」だったが、長男は喪服姿で現れてくる。それどころか、その晩は打ち解けることもない様子の長男だったが、翌日の散会後、偶然帰りの電車で一緒になった姉の姪とその主人に、長男は自分から話しかけてきたと飛弾氏は報告を受ける。「父が活躍している」と、飛弾氏は感じる。そうした家族間の経緯があったあとのある日の反原発デモ、自分のすぐ後ろで写真を撮っていた仲間の一枚に、今の自分と同い年くらいの父が写っていた……このエセーは、飛弾家3代にわたって、なんらかの価値が伝承された、交換されていったことを伝えている。互酬的交換様式Aである。
飛弾氏が自殺統計から着目した1990年代後半といえば、郵政民営化(郵貯の市場への流入即ち市民貯蓄の収奪と再分配による借金返済)が議題にあがり、小泉純一郎という3代目政治家が登場してきた時期である。現総理も3代目なのだから、その国政の空気が続いていると言えるだろう。おそらく、彼ら3代目も、祖父から、トッドの日本家族の分類からすれば、直系相続的な様式から、なんらかの価値交換を果たしてきているだろう。
私の勤め先の植木屋も、3代目になってきている。以前のブログでも言及したが、今は一社に二つの会社があるようである。親方と団塊世代職人と私の、寺社やこれまでの顧客民家を請け負う旧い会社、役所からの公共仕事を中心として新しく3代目が自身で取って来た仕事をこなす会社。そうなったのは、独立心のある3代目が、合理的計算がたち設け(発展)を期待することのできる仕事を独占しようとしたことにある。女房をとおしてつけてきたそんな話を、ならばやってみろと、2代目親方が明確に区別した。数か月で、3代目がひきとった見習い職人は、怒ってやめていった。その人間関係というよりは、合理計算の関係に嫌気がさしたからである。そんな計算は、1代目ではほぼ無視、2代目では考慮しなくてはならない時世なので口からは商品交換的な価値意識はでてくるけれども、それは方便で、しかし、3代目にはそのニュアンスわからず、その価値を文字通りを引き受けて実行するのだった。だから、人間に愛想をつかれてしまった。これで3人目だ。「もうあいつもわかっただろう。」と2代目親方はいう。価値教育なのだ。しかし、意識レベルでは合理計算価値でも、無意識では、むろん同じ家族で生活してきているので、実は、違うのだ。雇われ人の私には見えている。そんな雇われ人の方にこそ、親方自身の価値と技術は継承されていると認識されているので、この会社を受け継ぐのは私なのかもしれない。日本では、養子縁組が多い。が、私はかつて、その結婚から逃げているし、なるほど、2〇年以上も勤めていれば、この世界の価値観が身体的に受肉化されてきもする。が、それは個人身体的にであって、どうあっても、親方や長屋暮らしのようだった団塊世代職人さんとの、その価値共有は成立しないのである。親方自身、やはり私をお客さんとみる見方が離れないだろう。3代目も、意識と無意識で二重化しているが、私も二重化している。そして私には、それが見えるので、3代目に対しては、状況によって対応変わらざるを得なくなるので、立場に立てない。しかし、プチブル出の私に受肉された互酬性強い共同体的価値は、その受肉を反映する私自身の家族の内には反響し、共有化の道を歩んでいるのだ。すなわち、私の息子、その長男へと、受け継がれる。上州の農家の地主鈴木家(父)と、おそらくは仙台の武士あがりの商家菅原家(母)の間で生まれた私と、両親ともに仙台の女房との間で生まれた私の息子は、なんらかの価値変更を被るだろう。が、両親の家系がどちらも東国の人なので、職人共同体の価値にもともと近かったともいえる、だからこそ、私は野球部をつづけてこられ、その息子もサッカーを続けてこられたのだろう。……
トッドが分析してみせるのは、そのような、「家族内での交換」が、彼らの意図をこえて、実際の現実でどのように絡まり、反転し、政治的な行為へと現象してくるかである。
飛弾氏の想いが、図らずも必ず、交換され継承されていることが、この遺作集で確認できる。そして、その運動自体は不死=父子であると、私は見届ける。
2016年3月28日月曜日
2016年3月21日月曜日
犯罪に――秋葉原事件と川崎事件、内山節氏の著作から
「二〇〇八年夏、東京の秋葉原で無差別殺人が起きている。…(略)…おそらくこのとき青年は、自分の意識のなかでは、自由を手にしていたことだろう。自分は何でもできる自由を手に入れた。人を殺す自由も手に入れた。しかしそれは他者から承認を受けることのない自由だった。自分の世界だけで自己展開する自由。だから孤独な自由。…(略)…この現実を承認しさえすれば、青年は自由を手にすることができたのである。ネットのなかにもう一人の自分をつくりだすこともできただろう。映画をみたり、音楽を聴いたり、今日の夕食を考えたり、旅行計画をたててみたり。そうだ、自由人になることはできたのだ。たとえ収入は少なくても、少々の工夫によってそれらのいくらかは実現することができたはずだ。
青年の悲劇はそのことのなかに、うんざりした自由をみてしまったことだ。もしも彼女がいたらこんなことはしなかったと青年は語っていたと報道されている。彼女がいるということは、制約されるということだ。自由のひとつを失うということだ。時間は自分だけのものではなくなるだろう。お金の使い方も制約されることだろう、だがそのことが、自分を包んでいるうんざりした自由、孤独な自由を払いのけてくれるかもしれないと期待していた。
結局、自分に制約を加える人は誰も現れなかった。だから青年は孤独だった。といっても自分に制約を加えるものが何もなかったわけではない。自分がおかれている境遇という制約。そして社会システムという制約である。つまり派遣社員的現実から抜けだすことができないという現実であり、制約である。
重ねていうが、この現実を承認しつづけさえすれば、青年は自由を手にすることができたのである。…」(内山節著『怯えの時代』 新潮社)
ここ最近、上引用の内山氏の著作を、図書館にあるだけのものをずっと読んでいた。たしか新聞で、私の地元の群馬県は上野村から面白い考察をしているのに興味をもち、また私自身が、山に住みたいな、どこかないかな、と探しているようなところがあったからだろう。が、とくに初期の哲学的な論考を読みながら、だいぶ自分が考えてきていることが相対的に意識化されてきた。内山氏は、上野村での滞在を通して色々勉強してきたが、それは農作業や山の歩き方といったことだけでなく、それを成立させてきた社会(人間関係)に触れることで、思想的に学んできたのだと言っている(『自然・労働・協働社会の理論――新しい関係論をめざして――』(農文協))。私も、東京都は新宿の職人街的なところで植木職人になることを通して、その植木屋技術だけではなく、それを成立させている社会背景的なものの重視を、このブログ等で考察してきた。つまり、プチブル出である私は、20年以上の職歴でも、すでにもはや、職人にはなれない=職人社会には入れない=その無意識を自身に内に社会化することはできないのだと。だから、内山氏は、その上野村からの考察から、「仕事」と「稼ぎ」の違い、そこからまた「使用価値」と「交換(貨幣)価値」との違いと延長的に把握して、前者的な関係の復興を前提的な、思想的な志向として提出できるけれども、私にはそうすぐにはできないのである。今でも、植木職の技術は、資本生産下の技術というよりは、狭い共同社会での「使用価値」な面、いわば「技能」的な在り方を残している。が、私にとっては、「使用価値」的な「仕事」もまた「稼ぎ」としての「交換(貨幣)価値」にしか主体的にはなりえず(――親方や年上の職人さんには「仕事」として受容意識されられても……)、むしろ、ここでブログを書いたり雨の日に読書をしているほうが、よっぽど無償な「仕事」としての感じを実感できるのだ。それが、なおなんら「使用価値」を、つまりは共同社会を生産していないとしても。実際、私は、雨で仕事が休日になったとき、登校の準備をする息子から、「今日は仕事にいかないの?」と聞かれれば、「今日は家で仕事する」と答えてしまう。そういう意味では、私の気分は、内山氏が近代思想として批判する、「ワーク」と「レイバー」とギリシャ哲学期に遡って仕事を区別し前者を評価してみせた、ハンナ・アーレントのインテリ思想に近くなってしまうだろう。思想以前の、この「気分」は、どこからくるのか? さらに、内山氏は、上の秋葉原事件には他人事のような対象的な考察ですませるが、その「孤独」の最中にいるだろう、あるいは共有しているだろう私には、もっと突っ込んだ考察をしたくなるほどくらいな深刻さを備えている。
内山氏が、日本の農山村からの考察を言語・理論化しはじめたのは、1980年代後半頃からだが、もしそのとき氏の著作を読んでも、私は理解できず受け入れられなかっただろう。その頃、私が高校生から大学生にかけて読み始めたのは「単独者」を説き始めた柄谷行人氏だった。今は、柄谷氏が、内山氏に近いことを言いはじめているわけだから、現代社会や世界に対する実践的な問題把握と提出は、内山氏の方が早かったということになる。が、この「孤独」を通しているか否かは、理論や思想を究めていく上での決定的な差異になってくるのかもしれない。
とりあえずこの違い、農山村と職人社会の隣にいるという同質的立場からの違いを、理論的な根本において指摘することはできる。内山氏は、「貨幣」の「定着」(量)が、合理的な思考態度をうみ、共同体を「使用価値」から「交換価値」への社会に転換させたのだという。しかし、「使用価値」(共同体)から、「交換価値」はうまれない。後者は価値体系の違うシステム間を前提するのだから。もちろん、「貨幣」の”成立”自体がそうであろう。それは、他者との間に追いやられた孤独(単独)な者の普遍的道具である。内山氏は、その「成立(起源)」自体を重視しないで、暗黙に当然とみなすことで、それが「定着」してからのこと、つまりはある程度の共同体間での「交換」がなされ、「量」的な規模に達した社会=共同体を前提に思考を開始するのである。それは、他者(孤独者)が抑圧・排除されてからの社会である。近代という合理社会が成立する以前に、つまりはなお「量」的には少数者であった時点=歴史においても、近代に噴出してきた問題はあったであろう。いや、反復されているだろう。「使用価値」とは、内山氏のいう「自然と人間との交換」(柄谷理論ならば互酬交換Aにあたるだろう)――においてあり、その価値を共有した「人間と人間との交換」(「中間団体」と最近の柄谷氏ならいうだろう――)の回復を重視する。が、内山氏のとくもう一つの「自然と自然との交換」こそにカラクリ(起源)があり、前者の交換の変化は、生態系破壊といった後者「自然と自然との交換」の変容の元凶というよりは、すでにその自然内部での差異が、元凶を反復させる、というべきだろう。「使用価値」とがその自然風土と結びついているとするなら、自然の中にある熱帯とモンスーンなどの差異は、すでにして、その価値体系(文化)の違いを潜在させている、いわば、交換価値の発生を、貨幣の発生を。そのとき、「量」がなければ問題はないのか? そのときでさえ、文化からはじき出される個人や集団はいなかったのだろうか? 人類でさえが、森から追い出された種族だともいわれるのに。孤独は、近代社会だけに特有な病なのか? 私は、単なる間違いなのか?
おそらく、間違いなのだろう。しかし、それはパイオニア、起源を作るものとしての間違いかもしれないではないか? 「新しい関係」をつくろうと脱サラし、離島の漁師として生計をたてようと移住するが、うまくいかずに女房と子供だけが都会(「川崎市」)に帰ってくる、自然な感情豊富な子供は珍しがられて人気者になるけれども、その立ち位置こそが「うんざりした自由」に振り回された不良たちの餌食になる。どちらも、孤独者だ、間違っている、犯罪者たちだ。しかし、知識人のローカリズムな目的思想をもった社会運動とはほど遠い、こうした者たちこそが、人類の、自然の中の差異としての「新しい関係」を、意図せずして培っていってしまうのだとしたら? そんなことはあるまい? わからないではないか? まだ「量」がたりないのかもしれない。しかし、そんな意図しない犯罪の集積において新しい「使用価値」を産出する社会が生まれても、それが「定着」してから後どりするのはやめてくれ。フグを食って死んでいった馬鹿者の反復・集積において文化が生まれたのだと説く安吾のような認識。「それは他者から承認を受けることのない自由」? ほんとうか? それこそわからないではないか? 獄中の犯罪者に求婚する女性はいる。フグをおいいしと食べ始める庶民が出たように。自由とは、「命がけの飛躍」で手に入れる信仰ではないのか?
しかし、内山氏の考察は、私からすれば、だいぶ先取りされた論考だった。フランスの労働者のアソシエーションの現状や、それを意欲的に引き継ぐアラブ移民労働者たちの「世界革命」の気運など、ソ連崩壊時に私が読んでも上の空だったであろう。今だから、受け止めることができる、が、もう50歳に近いのだ。
青年の悲劇はそのことのなかに、うんざりした自由をみてしまったことだ。もしも彼女がいたらこんなことはしなかったと青年は語っていたと報道されている。彼女がいるということは、制約されるということだ。自由のひとつを失うということだ。時間は自分だけのものではなくなるだろう。お金の使い方も制約されることだろう、だがそのことが、自分を包んでいるうんざりした自由、孤独な自由を払いのけてくれるかもしれないと期待していた。
結局、自分に制約を加える人は誰も現れなかった。だから青年は孤独だった。といっても自分に制約を加えるものが何もなかったわけではない。自分がおかれている境遇という制約。そして社会システムという制約である。つまり派遣社員的現実から抜けだすことができないという現実であり、制約である。
重ねていうが、この現実を承認しつづけさえすれば、青年は自由を手にすることができたのである。…」(内山節著『怯えの時代』 新潮社)
ここ最近、上引用の内山氏の著作を、図書館にあるだけのものをずっと読んでいた。たしか新聞で、私の地元の群馬県は上野村から面白い考察をしているのに興味をもち、また私自身が、山に住みたいな、どこかないかな、と探しているようなところがあったからだろう。が、とくに初期の哲学的な論考を読みながら、だいぶ自分が考えてきていることが相対的に意識化されてきた。内山氏は、上野村での滞在を通して色々勉強してきたが、それは農作業や山の歩き方といったことだけでなく、それを成立させてきた社会(人間関係)に触れることで、思想的に学んできたのだと言っている(『自然・労働・協働社会の理論――新しい関係論をめざして――』(農文協))。私も、東京都は新宿の職人街的なところで植木職人になることを通して、その植木屋技術だけではなく、それを成立させている社会背景的なものの重視を、このブログ等で考察してきた。つまり、プチブル出である私は、20年以上の職歴でも、すでにもはや、職人にはなれない=職人社会には入れない=その無意識を自身に内に社会化することはできないのだと。だから、内山氏は、その上野村からの考察から、「仕事」と「稼ぎ」の違い、そこからまた「使用価値」と「交換(貨幣)価値」との違いと延長的に把握して、前者的な関係の復興を前提的な、思想的な志向として提出できるけれども、私にはそうすぐにはできないのである。今でも、植木職の技術は、資本生産下の技術というよりは、狭い共同社会での「使用価値」な面、いわば「技能」的な在り方を残している。が、私にとっては、「使用価値」的な「仕事」もまた「稼ぎ」としての「交換(貨幣)価値」にしか主体的にはなりえず(――親方や年上の職人さんには「仕事」として受容意識されられても……)、むしろ、ここでブログを書いたり雨の日に読書をしているほうが、よっぽど無償な「仕事」としての感じを実感できるのだ。それが、なおなんら「使用価値」を、つまりは共同社会を生産していないとしても。実際、私は、雨で仕事が休日になったとき、登校の準備をする息子から、「今日は仕事にいかないの?」と聞かれれば、「今日は家で仕事する」と答えてしまう。そういう意味では、私の気分は、内山氏が近代思想として批判する、「ワーク」と「レイバー」とギリシャ哲学期に遡って仕事を区別し前者を評価してみせた、ハンナ・アーレントのインテリ思想に近くなってしまうだろう。思想以前の、この「気分」は、どこからくるのか? さらに、内山氏は、上の秋葉原事件には他人事のような対象的な考察ですませるが、その「孤独」の最中にいるだろう、あるいは共有しているだろう私には、もっと突っ込んだ考察をしたくなるほどくらいな深刻さを備えている。
内山氏が、日本の農山村からの考察を言語・理論化しはじめたのは、1980年代後半頃からだが、もしそのとき氏の著作を読んでも、私は理解できず受け入れられなかっただろう。その頃、私が高校生から大学生にかけて読み始めたのは「単独者」を説き始めた柄谷行人氏だった。今は、柄谷氏が、内山氏に近いことを言いはじめているわけだから、現代社会や世界に対する実践的な問題把握と提出は、内山氏の方が早かったということになる。が、この「孤独」を通しているか否かは、理論や思想を究めていく上での決定的な差異になってくるのかもしれない。
とりあえずこの違い、農山村と職人社会の隣にいるという同質的立場からの違いを、理論的な根本において指摘することはできる。内山氏は、「貨幣」の「定着」(量)が、合理的な思考態度をうみ、共同体を「使用価値」から「交換価値」への社会に転換させたのだという。しかし、「使用価値」(共同体)から、「交換価値」はうまれない。後者は価値体系の違うシステム間を前提するのだから。もちろん、「貨幣」の”成立”自体がそうであろう。それは、他者との間に追いやられた孤独(単独)な者の普遍的道具である。内山氏は、その「成立(起源)」自体を重視しないで、暗黙に当然とみなすことで、それが「定着」してからのこと、つまりはある程度の共同体間での「交換」がなされ、「量」的な規模に達した社会=共同体を前提に思考を開始するのである。それは、他者(孤独者)が抑圧・排除されてからの社会である。近代という合理社会が成立する以前に、つまりはなお「量」的には少数者であった時点=歴史においても、近代に噴出してきた問題はあったであろう。いや、反復されているだろう。「使用価値」とは、内山氏のいう「自然と人間との交換」(柄谷理論ならば互酬交換Aにあたるだろう)――においてあり、その価値を共有した「人間と人間との交換」(「中間団体」と最近の柄谷氏ならいうだろう――)の回復を重視する。が、内山氏のとくもう一つの「自然と自然との交換」こそにカラクリ(起源)があり、前者の交換の変化は、生態系破壊といった後者「自然と自然との交換」の変容の元凶というよりは、すでにその自然内部での差異が、元凶を反復させる、というべきだろう。「使用価値」とがその自然風土と結びついているとするなら、自然の中にある熱帯とモンスーンなどの差異は、すでにして、その価値体系(文化)の違いを潜在させている、いわば、交換価値の発生を、貨幣の発生を。そのとき、「量」がなければ問題はないのか? そのときでさえ、文化からはじき出される個人や集団はいなかったのだろうか? 人類でさえが、森から追い出された種族だともいわれるのに。孤独は、近代社会だけに特有な病なのか? 私は、単なる間違いなのか?
おそらく、間違いなのだろう。しかし、それはパイオニア、起源を作るものとしての間違いかもしれないではないか? 「新しい関係」をつくろうと脱サラし、離島の漁師として生計をたてようと移住するが、うまくいかずに女房と子供だけが都会(「川崎市」)に帰ってくる、自然な感情豊富な子供は珍しがられて人気者になるけれども、その立ち位置こそが「うんざりした自由」に振り回された不良たちの餌食になる。どちらも、孤独者だ、間違っている、犯罪者たちだ。しかし、知識人のローカリズムな目的思想をもった社会運動とはほど遠い、こうした者たちこそが、人類の、自然の中の差異としての「新しい関係」を、意図せずして培っていってしまうのだとしたら? そんなことはあるまい? わからないではないか? まだ「量」がたりないのかもしれない。しかし、そんな意図しない犯罪の集積において新しい「使用価値」を産出する社会が生まれても、それが「定着」してから後どりするのはやめてくれ。フグを食って死んでいった馬鹿者の反復・集積において文化が生まれたのだと説く安吾のような認識。「それは他者から承認を受けることのない自由」? ほんとうか? それこそわからないではないか? 獄中の犯罪者に求婚する女性はいる。フグをおいいしと食べ始める庶民が出たように。自由とは、「命がけの飛躍」で手に入れる信仰ではないのか?
しかし、内山氏の考察は、私からすれば、だいぶ先取りされた論考だった。フランスの労働者のアソシエーションの現状や、それを意欲的に引き継ぐアラブ移民労働者たちの「世界革命」の気運など、ソ連崩壊時に私が読んでも上の空だったであろう。今だから、受け止めることができる、が、もう50歳に近いのだ。
2016年3月9日水曜日
小さな過去
「他にも、加藤の心に届いた言葉はあった。
例えば、上野の駐車場で職務質問した警官と駐車場の管理人。同じ北国出身という話題から、「生きていれば辛いこともあるが、楽しいことは必ずある。君はがんばりすぎだから、肩の力を抜いたほうがいい」と語った警官に、加藤は涙を流した。
駐車料金を「年末までに返してくれればいいから」と言って温かく見送ってくれた管理人に対して、彼は手土産を持って事務所に現れ、料金を返した。車のローンの返済は放置していたのに。
福井のミリタリーショップの店員とは笑顔で会話し、帰りの電車内で「人間と話すのって、いいね」と書き込んだ。
そこにあったのは何気ない言葉だった。しかし、加藤はそんな言葉を通じて、世界を信じた。それがたとえ一時だったとしても、彼の心は動いた。自然と笑みがこぼれた。涙もこぼれた。言葉こそが彼の岩盤のような他者への防波堤を穿ち、頑なな姿勢を突破した。
人間は言葉の動物だ。人は言葉の産物として生きている。個人としても、集団としても。
加藤は、そのことを熟知していた。ただ、そのような言葉は、リアルの世界ではなく、ネットの世界に存在すると考えた。現実と言葉を分離させた。…(略)…
一方、加藤にとって、「人間と話すのって、いいね」と言える場所があまりにも限定されていたことも事実である。職場での「タテの関係」や「ヨコの関係」には、どうしても利害が関与する。すべて本音で言葉を交わしていると、職場での人間関係にひびが入る恐れがある。やはり、どうしても空気を読まなければいけない。言いたいことなんて、何でも言えるわけがない。
だから、直接的な利害を伴わない「ナナメの関係」が、社会では重要なのだ。加藤にとって、藤川は仕事の同僚でありながら、利害関係があまり関与しない他者だった。駐車場の管理人も、ミリタリーショップの店員も。
しかし、そんな他者と出会える場所は、現代日本社会では限られていた。居場所を見つけろといっても、そんな場所はどこにあるのか。そもそも派遣労働者で各地を転々としていた彼は、アパート周辺のコミュニティーとは切断された存在だ。
立ち寄る店は、コンビニと牛丼チェーン店。そこに会話や人間関係などなかった。
居場所なんて見つけられるわけがなかった。「ナナメの関係」をつくる前提が、彼の生きる社会にはそもそも欠如していた。
だから、「人間と話す」ためには、福井まで行かざるを得なかった。あるいは、お金を払って風俗店に行くしかなかった。
しかし、それは虚脱感と虚しさが伴った。彼は風俗店を出てから、ひどい頭痛に悩まされた。それは事件当日まで治らなかった。身体が無意識に拒絶反応を起こした。」(中島岳志著『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』)
老人ホームとなっているマンションの階上から、入所者の老人を投げ落とした青年の最近の事件が気になっているうちに、8年ほど前におきた、秋葉原事件と騒がれた派遣労働者の引き起こした事件が重なって気になってきた。労働条件が厳しいからな、という程度の印象で過ごしただけだったので、もう少しは知ってみようと、上引用の著作を読んでみた。私自身は、この青年のように切れて事件を引き起こしそうではなかったな、とほぼ確信的におもったものの、だいぶ深刻になった。どうしてそんな生理状態になったのか定かでないが、私の若いころとはちがい、ネット環境が同等である息子の直面していく現実を想像したからかもしれない。がやはり、インフラ的な環境を越えて、フリーターとして生き延びていた自分の半身が重なってきたからであろう。私は、加藤氏よりも友達もなく孤独に青春時を通り過ぎただろうが、もっと過激に分裂気質で、それ自体は苦にならなかった。しかし、建築現場のゴミ掃除で、箒に杖のようにして寄りかかりながら、やっとのことで二本足で立つことを支えていた当時のことをおもいだす。三日働き、あとは読書と睡眠。人との会話は、いつも同じ定食屋で、メニューを注文するときだけだったかもしれない。あまり人の来ない寂びれた定食屋は、静かでよかった。おそらく、定食屋の主人も、私のような孤独者に親近感を抱いて話しかけてきたが、私はほぼ毎日通っても、結局は一見さんのままだった。結婚して、外食がなくなると、もう一度もいかなかった。職場の職人さんから、定食屋の主人が気になってるよ、と伝えられても、顔をみせる理由が見出せないのだ。というか、その定食屋では、頼んだコロッケのジャガイモが腐っていたか、毒素のある新芽が混入していたのだろう、夜中にゲエゲエ吐いて、それ以来店に行くことを体が受け付けなくなっていたのもあったが、それが本当の理由ではなかっただろう。
が、それでも私は、無意識的に気付いていたはずである。私を救っているというか、この身体を統制しているのが、その中島氏のいう「ナナメの関係」であり、そこからの「言葉」であることを。
私には、そんな「言葉」からきた、いくつかの記憶がある。
おそらく、最初のものは、学生のころ、自動車免許を取得するために通っていた地元の教習所のおばさんの言葉だ。引きこもりの私は、瞳を外に向けるというか、下界に集中することが苦しかった。教室での授業はいいのだが、外にでての実地での教習となると、ゆえに外の規則に従えないというか、見過ごしてしまうのである。それは信号無視、停車線の通り過ぎ、とかになって現れる。体としての脳みそが、苦痛になってきた。それで、あともう少しだというのに、リタイアを事務所に申し出た。すると、受付にいたおばさんが、「もうちょっとだから、やってごらん」みたいなことを言ってくれたのだろう。私は続けてみることにした。運動部あがりの、叱咤激励的な言葉しか受けてこなかった私には、新鮮なやさしさだったのかもしれない。しかし、その小さな記憶が、運動部的に暴走しだす私の鍛えられた身体(メンタル)の習性をいまだに統制しているのである。
そしてもうひとつは、30歳すぎくらいの、結婚まで週に2度くらい通っていたバーの主人夫婦との関係だ。植木職人になって、仕事にも体力的に慣れてくると、子供の頃から続いている、不眠が発症されてくる。そこで、当時は、ウィスキーを飲みにいくことにした。アパートの路地裏が、駅前の飲み街だったので、そこの一軒に行くことにした。「どら猫」とかいう名前がおもしろかったのかもしれない。やっていた夫婦は、おそらく団塊世代の、学生運動経験者なようだった。が、その過去自体には、批判的、否認的な印象を受けた。9・11の映像を見たのも、この飲み屋であった。そして私は、やはり結婚すると、もうそこには一度も行かなかった。どうしても、一見さんでおわるのだった。子供が3歳くらいしてからか、その奥さんと電車の中で出会った。私を知らないふりをしていたが、内心、すごく怒っているのがわかった。あとで、主人のほうとも、道であったことがある。私は挨拶し、向こうも挨拶をかえしたけれど、わけのわからない奴だ、というような目つきにみえた。私自身、私のようなちょん切れ人間関係が、相手に失礼であり、なんだか裏切り行為でもあるような気持ちを感じている。一度でもいいから顔をみせて、一言いってしかるべきだろう。が、そう気付いても、その気が起きないのだ。私はこの矛盾を、こう教養的に洞察している。自分の分裂的な気質が、運動部的な閉鎖関係によって肉付けされてしまっている、そこでは、内と外とが過激に分断されるので、一歩外に出れば、環境(空間)が変われば、たとえば結婚したりで場所が変われば、それに応じて規範が切り捨て的に更新されていくのだ、そういう態度自体が習性身体化されている。日本人が、旅の恥はかき捨て、と外ではハメをはずして帰ってくる、と観察されているのも、そんな場所の論理=倫理、によるだろう。
私は、定食屋の主人のところへ、飲み屋の夫婦のところへ顔をだしてもよいかもしれない。が、そうしても、具体的な関係が修復的になるだけで、私を本当に動かしてしまっている、その習性、身体の倫理=論理構造は変わらないだろう。そしていま、実際には、その中途半端に途切れた、宙ずりにされた人間関係こそが、その身体倫理の暴走を防ぐべく、統制してくれているのである。そんな小さな過去は、私を非難する。私はおもわず、サッカーに身の入らない息子に厳しい言葉を投げる、が、その瞬間、そんな小さな過去が、私にささやくのだ、「おまえ行き過ぎてるよ、おまえ自身が、実際には、人の弱さを包容してくれた何気ない言葉、つまらない人間関係によって救われている、救われてきたんじゃないか、偉そうなことを言うな」、と。
例えば、上野の駐車場で職務質問した警官と駐車場の管理人。同じ北国出身という話題から、「生きていれば辛いこともあるが、楽しいことは必ずある。君はがんばりすぎだから、肩の力を抜いたほうがいい」と語った警官に、加藤は涙を流した。
駐車料金を「年末までに返してくれればいいから」と言って温かく見送ってくれた管理人に対して、彼は手土産を持って事務所に現れ、料金を返した。車のローンの返済は放置していたのに。
福井のミリタリーショップの店員とは笑顔で会話し、帰りの電車内で「人間と話すのって、いいね」と書き込んだ。
そこにあったのは何気ない言葉だった。しかし、加藤はそんな言葉を通じて、世界を信じた。それがたとえ一時だったとしても、彼の心は動いた。自然と笑みがこぼれた。涙もこぼれた。言葉こそが彼の岩盤のような他者への防波堤を穿ち、頑なな姿勢を突破した。
人間は言葉の動物だ。人は言葉の産物として生きている。個人としても、集団としても。
加藤は、そのことを熟知していた。ただ、そのような言葉は、リアルの世界ではなく、ネットの世界に存在すると考えた。現実と言葉を分離させた。…(略)…
一方、加藤にとって、「人間と話すのって、いいね」と言える場所があまりにも限定されていたことも事実である。職場での「タテの関係」や「ヨコの関係」には、どうしても利害が関与する。すべて本音で言葉を交わしていると、職場での人間関係にひびが入る恐れがある。やはり、どうしても空気を読まなければいけない。言いたいことなんて、何でも言えるわけがない。
だから、直接的な利害を伴わない「ナナメの関係」が、社会では重要なのだ。加藤にとって、藤川は仕事の同僚でありながら、利害関係があまり関与しない他者だった。駐車場の管理人も、ミリタリーショップの店員も。
しかし、そんな他者と出会える場所は、現代日本社会では限られていた。居場所を見つけろといっても、そんな場所はどこにあるのか。そもそも派遣労働者で各地を転々としていた彼は、アパート周辺のコミュニティーとは切断された存在だ。
立ち寄る店は、コンビニと牛丼チェーン店。そこに会話や人間関係などなかった。
居場所なんて見つけられるわけがなかった。「ナナメの関係」をつくる前提が、彼の生きる社会にはそもそも欠如していた。
だから、「人間と話す」ためには、福井まで行かざるを得なかった。あるいは、お金を払って風俗店に行くしかなかった。
しかし、それは虚脱感と虚しさが伴った。彼は風俗店を出てから、ひどい頭痛に悩まされた。それは事件当日まで治らなかった。身体が無意識に拒絶反応を起こした。」(中島岳志著『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』)
老人ホームとなっているマンションの階上から、入所者の老人を投げ落とした青年の最近の事件が気になっているうちに、8年ほど前におきた、秋葉原事件と騒がれた派遣労働者の引き起こした事件が重なって気になってきた。労働条件が厳しいからな、という程度の印象で過ごしただけだったので、もう少しは知ってみようと、上引用の著作を読んでみた。私自身は、この青年のように切れて事件を引き起こしそうではなかったな、とほぼ確信的におもったものの、だいぶ深刻になった。どうしてそんな生理状態になったのか定かでないが、私の若いころとはちがい、ネット環境が同等である息子の直面していく現実を想像したからかもしれない。がやはり、インフラ的な環境を越えて、フリーターとして生き延びていた自分の半身が重なってきたからであろう。私は、加藤氏よりも友達もなく孤独に青春時を通り過ぎただろうが、もっと過激に分裂気質で、それ自体は苦にならなかった。しかし、建築現場のゴミ掃除で、箒に杖のようにして寄りかかりながら、やっとのことで二本足で立つことを支えていた当時のことをおもいだす。三日働き、あとは読書と睡眠。人との会話は、いつも同じ定食屋で、メニューを注文するときだけだったかもしれない。あまり人の来ない寂びれた定食屋は、静かでよかった。おそらく、定食屋の主人も、私のような孤独者に親近感を抱いて話しかけてきたが、私はほぼ毎日通っても、結局は一見さんのままだった。結婚して、外食がなくなると、もう一度もいかなかった。職場の職人さんから、定食屋の主人が気になってるよ、と伝えられても、顔をみせる理由が見出せないのだ。というか、その定食屋では、頼んだコロッケのジャガイモが腐っていたか、毒素のある新芽が混入していたのだろう、夜中にゲエゲエ吐いて、それ以来店に行くことを体が受け付けなくなっていたのもあったが、それが本当の理由ではなかっただろう。
が、それでも私は、無意識的に気付いていたはずである。私を救っているというか、この身体を統制しているのが、その中島氏のいう「ナナメの関係」であり、そこからの「言葉」であることを。
私には、そんな「言葉」からきた、いくつかの記憶がある。
おそらく、最初のものは、学生のころ、自動車免許を取得するために通っていた地元の教習所のおばさんの言葉だ。引きこもりの私は、瞳を外に向けるというか、下界に集中することが苦しかった。教室での授業はいいのだが、外にでての実地での教習となると、ゆえに外の規則に従えないというか、見過ごしてしまうのである。それは信号無視、停車線の通り過ぎ、とかになって現れる。体としての脳みそが、苦痛になってきた。それで、あともう少しだというのに、リタイアを事務所に申し出た。すると、受付にいたおばさんが、「もうちょっとだから、やってごらん」みたいなことを言ってくれたのだろう。私は続けてみることにした。運動部あがりの、叱咤激励的な言葉しか受けてこなかった私には、新鮮なやさしさだったのかもしれない。しかし、その小さな記憶が、運動部的に暴走しだす私の鍛えられた身体(メンタル)の習性をいまだに統制しているのである。
そしてもうひとつは、30歳すぎくらいの、結婚まで週に2度くらい通っていたバーの主人夫婦との関係だ。植木職人になって、仕事にも体力的に慣れてくると、子供の頃から続いている、不眠が発症されてくる。そこで、当時は、ウィスキーを飲みにいくことにした。アパートの路地裏が、駅前の飲み街だったので、そこの一軒に行くことにした。「どら猫」とかいう名前がおもしろかったのかもしれない。やっていた夫婦は、おそらく団塊世代の、学生運動経験者なようだった。が、その過去自体には、批判的、否認的な印象を受けた。9・11の映像を見たのも、この飲み屋であった。そして私は、やはり結婚すると、もうそこには一度も行かなかった。どうしても、一見さんでおわるのだった。子供が3歳くらいしてからか、その奥さんと電車の中で出会った。私を知らないふりをしていたが、内心、すごく怒っているのがわかった。あとで、主人のほうとも、道であったことがある。私は挨拶し、向こうも挨拶をかえしたけれど、わけのわからない奴だ、というような目つきにみえた。私自身、私のようなちょん切れ人間関係が、相手に失礼であり、なんだか裏切り行為でもあるような気持ちを感じている。一度でもいいから顔をみせて、一言いってしかるべきだろう。が、そう気付いても、その気が起きないのだ。私はこの矛盾を、こう教養的に洞察している。自分の分裂的な気質が、運動部的な閉鎖関係によって肉付けされてしまっている、そこでは、内と外とが過激に分断されるので、一歩外に出れば、環境(空間)が変われば、たとえば結婚したりで場所が変われば、それに応じて規範が切り捨て的に更新されていくのだ、そういう態度自体が習性身体化されている。日本人が、旅の恥はかき捨て、と外ではハメをはずして帰ってくる、と観察されているのも、そんな場所の論理=倫理、によるだろう。
私は、定食屋の主人のところへ、飲み屋の夫婦のところへ顔をだしてもよいかもしれない。が、そうしても、具体的な関係が修復的になるだけで、私を本当に動かしてしまっている、その習性、身体の倫理=論理構造は変わらないだろう。そしていま、実際には、その中途半端に途切れた、宙ずりにされた人間関係こそが、その身体倫理の暴走を防ぐべく、統制してくれているのである。そんな小さな過去は、私を非難する。私はおもわず、サッカーに身の入らない息子に厳しい言葉を投げる、が、その瞬間、そんな小さな過去が、私にささやくのだ、「おまえ行き過ぎてるよ、おまえ自身が、実際には、人の弱さを包容してくれた何気ない言葉、つまらない人間関係によって救われている、救われてきたんじゃないか、偉そうなことを言うな」、と。