2016年3月9日水曜日

小さな過去

「他にも、加藤の心に届いた言葉はあった。
 例えば、上野の駐車場で職務質問した警官と駐車場の管理人。同じ北国出身という話題から、「生きていれば辛いこともあるが、楽しいことは必ずある。君はがんばりすぎだから、肩の力を抜いたほうがいい」と語った警官に、加藤は涙を流した。
 駐車料金を「年末までに返してくれればいいから」と言って温かく見送ってくれた管理人に対して、彼は手土産を持って事務所に現れ、料金を返した。車のローンの返済は放置していたのに。
 福井のミリタリーショップの店員とは笑顔で会話し、帰りの電車内で「人間と話すのって、いいね」と書き込んだ。
そこにあったのは何気ない言葉だった。しかし、加藤はそんな言葉を通じて、世界を信じた。それがたとえ一時だったとしても、彼の心は動いた。自然と笑みがこぼれた。涙もこぼれた。言葉こそが彼の岩盤のような他者への防波堤を穿ち、頑なな姿勢を突破した。
 人間は言葉の動物だ。人は言葉の産物として生きている。個人としても、集団としても。
 加藤は、そのことを熟知していた。ただ、そのような言葉は、リアルの世界ではなく、ネットの世界に存在すると考えた。現実と言葉を分離させた。…(略)…
 一方、加藤にとって、「人間と話すのって、いいね」と言える場所があまりにも限定されていたことも事実である。職場での「タテの関係」や「ヨコの関係」には、どうしても利害が関与する。すべて本音で言葉を交わしていると、職場での人間関係にひびが入る恐れがある。やはり、どうしても空気を読まなければいけない。言いたいことなんて、何でも言えるわけがない。
 だから、直接的な利害を伴わない「ナナメの関係」が、社会では重要なのだ。加藤にとって、藤川は仕事の同僚でありながら、利害関係があまり関与しない他者だった。駐車場の管理人も、ミリタリーショップの店員も。
 しかし、そんな他者と出会える場所は、現代日本社会では限られていた。居場所を見つけろといっても、そんな場所はどこにあるのか。そもそも派遣労働者で各地を転々としていた彼は、アパート周辺のコミュニティーとは切断された存在だ。
 立ち寄る店は、コンビニと牛丼チェーン店。そこに会話や人間関係などなかった。
 居場所なんて見つけられるわけがなかった。「ナナメの関係」をつくる前提が、彼の生きる社会にはそもそも欠如していた。
 だから、「人間と話す」ためには、福井まで行かざるを得なかった。あるいは、お金を払って風俗店に行くしかなかった。
 しかし、それは虚脱感と虚しさが伴った。彼は風俗店を出てから、ひどい頭痛に悩まされた。それは事件当日まで治らなかった。身体が無意識に拒絶反応を起こした。」(中島岳志著『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』)

老人ホームとなっているマンションの階上から、入所者の老人を投げ落とした青年の最近の事件が気になっているうちに、8年ほど前におきた、秋葉原事件と騒がれた派遣労働者の引き起こした事件が重なって気になってきた。労働条件が厳しいからな、という程度の印象で過ごしただけだったので、もう少しは知ってみようと、上引用の著作を読んでみた。私自身は、この青年のように切れて事件を引き起こしそうではなかったな、とほぼ確信的におもったものの、だいぶ深刻になった。どうしてそんな生理状態になったのか定かでないが、私の若いころとはちがい、ネット環境が同等である息子の直面していく現実を想像したからかもしれない。がやはり、インフラ的な環境を越えて、フリーターとして生き延びていた自分の半身が重なってきたからであろう。私は、加藤氏よりも友達もなく孤独に青春時を通り過ぎただろうが、もっと過激に分裂気質で、それ自体は苦にならなかった。しかし、建築現場のゴミ掃除で、箒に杖のようにして寄りかかりながら、やっとのことで二本足で立つことを支えていた当時のことをおもいだす。三日働き、あとは読書と睡眠。人との会話は、いつも同じ定食屋で、メニューを注文するときだけだったかもしれない。あまり人の来ない寂びれた定食屋は、静かでよかった。おそらく、定食屋の主人も、私のような孤独者に親近感を抱いて話しかけてきたが、私はほぼ毎日通っても、結局は一見さんのままだった。結婚して、外食がなくなると、もう一度もいかなかった。職場の職人さんから、定食屋の主人が気になってるよ、と伝えられても、顔をみせる理由が見出せないのだ。というか、その定食屋では、頼んだコロッケのジャガイモが腐っていたか、毒素のある新芽が混入していたのだろう、夜中にゲエゲエ吐いて、それ以来店に行くことを体が受け付けなくなっていたのもあったが、それが本当の理由ではなかっただろう。
が、それでも私は、無意識的に気付いていたはずである。私を救っているというか、この身体を統制しているのが、その中島氏のいう「ナナメの関係」であり、そこからの「言葉」であることを。

私には、そんな「言葉」からきた、いくつかの記憶がある。

おそらく、最初のものは、学生のころ、自動車免許を取得するために通っていた地元の教習所のおばさんの言葉だ。引きこもりの私は、瞳を外に向けるというか、下界に集中することが苦しかった。教室での授業はいいのだが、外にでての実地での教習となると、ゆえに外の規則に従えないというか、見過ごしてしまうのである。それは信号無視、停車線の通り過ぎ、とかになって現れる。体としての脳みそが、苦痛になってきた。それで、あともう少しだというのに、リタイアを事務所に申し出た。すると、受付にいたおばさんが、「もうちょっとだから、やってごらん」みたいなことを言ってくれたのだろう。私は続けてみることにした。運動部あがりの、叱咤激励的な言葉しか受けてこなかった私には、新鮮なやさしさだったのかもしれない。しかし、その小さな記憶が、運動部的に暴走しだす私の鍛えられた身体(メンタル)の習性をいまだに統制しているのである。
そしてもうひとつは、30歳すぎくらいの、結婚まで週に2度くらい通っていたバーの主人夫婦との関係だ。植木職人になって、仕事にも体力的に慣れてくると、子供の頃から続いている、不眠が発症されてくる。そこで、当時は、ウィスキーを飲みにいくことにした。アパートの路地裏が、駅前の飲み街だったので、そこの一軒に行くことにした。「どら猫」とかいう名前がおもしろかったのかもしれない。やっていた夫婦は、おそらく団塊世代の、学生運動経験者なようだった。が、その過去自体には、批判的、否認的な印象を受けた。9・11の映像を見たのも、この飲み屋であった。そして私は、やはり結婚すると、もうそこには一度も行かなかった。どうしても、一見さんでおわるのだった。子供が3歳くらいしてからか、その奥さんと電車の中で出会った。私を知らないふりをしていたが、内心、すごく怒っているのがわかった。あとで、主人のほうとも、道であったことがある。私は挨拶し、向こうも挨拶をかえしたけれど、わけのわからない奴だ、というような目つきにみえた。私自身、私のようなちょん切れ人間関係が、相手に失礼であり、なんだか裏切り行為でもあるような気持ちを感じている。一度でもいいから顔をみせて、一言いってしかるべきだろう。が、そう気付いても、その気が起きないのだ。私はこの矛盾を、こう教養的に洞察している。自分の分裂的な気質が、運動部的な閉鎖関係によって肉付けされてしまっている、そこでは、内と外とが過激に分断されるので、一歩外に出れば、環境(空間)が変われば、たとえば結婚したりで場所が変われば、それに応じて規範が切り捨て的に更新されていくのだ、そういう態度自体が習性身体化されている。日本人が、旅の恥はかき捨て、と外ではハメをはずして帰ってくる、と観察されているのも、そんな場所の論理=倫理、によるだろう。

私は、定食屋の主人のところへ、飲み屋の夫婦のところへ顔をだしてもよいかもしれない。が、そうしても、具体的な関係が修復的になるだけで、私を本当に動かしてしまっている、その習性、身体の倫理=論理構造は変わらないだろう。そしていま、実際には、その中途半端に途切れた、宙ずりにされた人間関係こそが、その身体倫理の暴走を防ぐべく、統制してくれているのである。そんな小さな過去は、私を非難する。私はおもわず、サッカーに身の入らない息子に厳しい言葉を投げる、が、その瞬間、そんな小さな過去が、私にささやくのだ、「おまえ行き過ぎてるよ、おまえ自身が、実際には、人の弱さを包容してくれた何気ない言葉、つまらない人間関係によって救われている、救われてきたんじゃないか、偉そうなことを言うな」、と。

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