息子が中学生になって、ジュニア・サッカーから、ジュニア・ユースとくくられるサッカー・カテゴリーに入った。民間のクラブチームにいくか、中学校の部活動にいくか、と選択肢が出てきたが、クラブには通うのも大変で、本人が部活動への入部を選択した。住んでいる団地の踊り場から校庭が見えるので、私は気分転換に部屋を出たときなどその部活動の様を覗いていたのだが、サッカー部は活動しているのかが心配だった。軟式テニス部と、体育館でのバレーだかバスケは熱心にやっているのはわかる。が、野球、サッカーとなると、校庭にその練習風景を見たことがない。が、新入生入ってくるとわかった4月から、サッカー部が突然活発になる。顧問も熱心だそうで、今は週末には練習試合を組んでくれるので、私としては、ひと安心。
が、この中学部活問題、今でも問題なのだというのには驚いた。先月4/28の朝日新聞の論壇時評に、小熊英二氏の「日本の非効率 「うさぎ跳び」から卒業を」という特集記事がある。そして五回ほどかけて、中学部活への生徒、父兄、先生などへのアンケート結果が論評されていた。私は、先生方の間で、以前にはなかった、教育委員会用の日報だのなんだのとの提出事務作業が増加して、部活どころじゃない問題があるのは聞き知っていたが、いまだに、私が中学生だった40年前と同様な「しごき問題」としてそれがあるというのには、びっくりした。というか、その前提の当然さにびっくりした。植木屋として練馬区の中学校庭にもあちこち手入れに入ったが、放課後校庭を利用して部活動をやっている中学など、ほんの数校で、この活発さが売りなんだろうなと思われるくらいそれが特別なことで、ほとんどは、しんとしている。たまに、体育館内で、バレー部とかバスケ部から元気な声が聞こえてくる程度である。今年のゴールデンウィークの時にも、息子をつれて、私が通学した群馬の小学・中学校まで歩いてみた。家から片道40分。往くだけならまだしも、往復となれば大変だと、息子も地方と都心部の違いを実感したようだった。中学の校庭では、部活動が行われていた。サッカー、テニス、私がいた野球部……群馬で一番の優勝回数と県大会出場回数を誇る軍隊のようなところだったが、今はほそぼそと、という感じだった。これが実体だろう? 先生が大変なのは、部活以前に、ストレスを増長させるマニュアル(安全対策=口実作り)が導入されたからだろう。部活だけをとりだしてアンケートをしても、問題の実態は浮き彫りされないだろう。
が、この年代、サッカーに限っていえば、だいぶサッカーをやってきた少年たちがやめていく、サッカー自体を。民間のクラブチームに入って、しぼられるのだか、しごかれるのだか、私にはわからないが。すぐ近所にグランドがあれば通うだけでも楽になるが、この新宿・中野区近辺の子供たちでも、自転車で1時間くらいかけてクラブの練習へと通っている。部活が軟になったぶん、民間クラブが「うさぎ跳び」体制を引き継いでいるのだろうか? やめて、中学の部活動には再入部はしない、「プライド」が許さない、となるのだとある父兄は言っていた。その気持ちはわかるが、そういう気持ちを発生させてしまう体制は、そのままでは子供たちに、小熊氏の言う「見当違いの努力」をさせてきたということになってしまうだろう。そしてそれこそ、「日本の非効率」である。
ヨーロッパでのサッカー体制は、まさに効率的である。
<スペインでは地域別、年代別、レベル別にリーグ戦が設けられているため、すべてのリーグで毎週、真剣勝負が繰り広げられています。各チームは毎年のように戦力をコントロールしているため、チーム内には必要十分な選手数しか存在しません。したがって、「補欠」という概念もほぼ存在しません。
だからこそ彼らは、毎年のように”ふるい”にかけられ、1年という非常に短いサイクルの中で、大人たちと同じような緊張感をもって戦っているのです。喩えるなら、「実力至上主義の狩猟民族」といったところでしょうか。>(「松村尚登著『サッカー上達の科学』 講談社ブルーバック)
しかし、ならば、日本もそれを真似て、「効率的」にすればよいか? する、とはどういうことか? それは、レベル分けもなくどのチームやコーチもが隙あらば優勝を狙える戦国下剋上的な情勢にあって、そのチーム間、コーチ間のしがらみを、一気に消してヒエラルキーを成立させる試みになる、ということだ。いわば、革命である。現在日本の大枠のサッカー体制は、Jリーグ・代表レベルからの階層構造はできているけれど、それは、以前このブログでも言及した、堀田哲爾氏のような、カリスマ的な人格者が、根回しをしながら周りをねじ伏せてこれたからだろう。それは「革命」的にではなく、いわば「独裁」的になされた。だから恨みもかって失脚させられたのかもしれない。が、人格に頼らないのならば、「革命」的にやるのか? たとえば、やめた子供たちが、「サッカーさせろ!」とプラカードかかげてデモでもするのか? それがいいことか? 独裁にしろ革命にしろ、血なまぐさい事態である。しかし、ヨーロッパの組織が効率的なのは、それを経験してきているからだろう。それを真似るとは、効率化すればいい、とはだから安易には言えないのだ。
まずは、実体に即した状況認識を正確に持つことだ。それがなければ、持続的な改革のプランもわからない。朝日新聞の記事は、その実態を反映させるものだろうか? 私には、何か意図的な操作が感じられる。民主主義の実質を求める高校生デモとかの記事にしても、本当にそれが実体なのか、怪しんでいる。既存の体制に置き換えようと世論操作している文体に伺える。シールズとかいう若者の運動も、当初は、そんな体制からのズレの意識を当事者が持ったことから始まっているはずである。ズレてるのが、わからないのか? 気付いていないのか? いや、気付くのを怖がっているような…。
例題として、最近の所属少年クラブのコーチ間のメールやり取りを掲載する。私のメールに、東大サッカー部卒のコーチの返答。
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<今日の練習、親子スポーツで足裏のマメつぶれ、腰痛もあったので、リタイアしてしまいました。申し訳ありません。で、家で横になりながら、練習前に買ってきたジュニア育成レベルの新書を読んでいたのですが、お薦めとして紹介したいとおもいます。
「サッカー上達の科学」(村松尚登著・講談社ブルーバック・900円)
著者は、1966年よりバルサの育成コーチに携わり、2009年より日本にて活動し、現在水戸ホーリーホックのアカデミー・コーチをしている人です。
私はこのコーチの著作を既に何冊か読んでいて、新しい暗記内容が、ドイツ、ブラジル、そして今度スペインへと変わっていくいかにもな日本的現象だなというのが感想の一つだったのですが、今度のは、その指導方法の機能不全からの反省がフィードバックされていて面白いです。社会や家庭環境の違いから、どのような子供たちのモチベーションの違いがうまれ、ゆえにそのままの練習メニューの輸入では実質がでないと、具体的なアイデアもだして、ネットで動画も見れるようになっているようです。
ヨーロッパ視察での池上正さんの知見は、ちょっと古くなっているとおもいます。<プレーヤーズ・ファースト>という日本の理解度にしても、それはアメリカ民主主義では個人の武器保持が認められているのは、大統領を民主が暗殺できるようにという、フランス革命の<友愛>の原理(任侠)に通じていることは考慮されていませんね。プレーヤーズ・ファーストという中世の騎士道からきているだろう言葉を日本語に訳すと、「一匹狼」が近いのではないか、ということも、スペインの子供たちの現実主義的な意識の、本書の紹介からも、想像できるかもしれません。池上氏の指導風景をDVDでみると、おそらく〇〇さんのような職人気質で、それこそが民主主義の原理的基礎になっていると、共感していますが。どうも長くなりました。>
<ご紹介ありがとうございます。
池上正さんの著作の意義の一部は、私を含めた古い体育会育ちの弊害除去にもあって、これが一掃されれば一つの役割を終えるような気もしないでもないですね。
村松尚登さんの本は、以前、図書館にあったものを読んだことある気がしますが、もう一度読んでみます。>
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「私を含めた古い体育会育ちの弊害除去」……こういう意識を、新しい教科書を作る会は、「自虐史観」と呼んでいたわけだ。まさに、「自虐」である。しかし、「自虐」もできないような奴らよりマシである。このコーチは、そう身をもって示して、自省できないで「うさぎ跳び」体制でやろうとする他コーチを批判している。しかし、「自虐」自体がいいわけではない。また、一気に革命的にそれを払拭するのが実践的によくなることとも思われない、というか、それは歴史的経験知だ。革命(的なデモ)が起きないことに、怯えたり引け目を感じる必要などまったくない。それよりも、前提となるような現状の認識の正確さを追求することから、目を逸らすような身振りこそが問題である。
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