太宰の作品は、高校から大学に入ってくらいまで、よく読んでいたので、その『晩年』に入っていたという 「魚服記」も読んでいたのでしょうが、全く記憶になかったようです。今回読んでみて、何かを考えさせられていますね。ブログの「中学生の自殺」と結びついていくことなのかなおわかりませんが。一月前だかに、全国からの怪奇伝承を集めたのや(「山怪」)、3.11後の東北での霊事象を収集した大学院生の研究本(「霊性の震災学」)なども読んでいて、それをまず連想しました。「天狗の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり」との太宰の報告は、いまでも山では聞こえてくるそうです。チェンソーの音でなんだそうですが、誰も作業していないのに。ただ、柳田の「遠野物語」の方からたどると、太宰の作品から始動しはじめた思考は、遠ざかっていくような。『晩年』という処女作を読み返したくなりましたね。
私が中学生のころは、むしろ三島由紀夫をよく読んだんですね。難しそうな漢字が多いのがよかったというのもあるのですが、今でも謎です。「豊穣の海」とかは学生か卒業後に読んだのだとおもうのですが、今でもその読んでるときの感じを思い起こすと、蓮實や浅田的にばっさり切リ捨てられない変な感じを呼び起せるんですね。逆に、太宰にはない。もしかして、太宰の方が知的に構成されているからなのかもしれません。この「魚服記」も、(1)風景紹介(遠)(2)場面導入(近)(3)主人公導入(4)蛇への変身譚民話挿入から、(5)「おめえ、なにしに生きでるば」という突然の変調と、そこからの幻想譚まじえての短い場面展開のつなぎには、やはり文学的・物語的なコードでは読み切れない不可解な論理がありますね。(5)の質問など、一希でも突然言いそうな怖い突っ込みですよ。そういう意味で、中学年代思春期に出てくるリアルさを掬い取ってる作品なんでしょうね。それが、性的な大人の生態的現実に触れて、知って、ここでの女の子は取り乱して”飛び込んで”、だけど明るく泳ぎ、しかしそこで、また淵へと「吸いこまれ」ていく選択をした。青森の女子中学生も電車への飛び込みですね。私がブログで書いたのもベランダからの飛び込みで。たしか漱石の「こころ」のK先生の自殺も飛び込みだったろう、と文字ずら分析したのがスガ氏やワタナベ氏だったような。
太宰のこの思春期にみられる垂直的なリアルさが、性(人生)的な次元においてだけでなく、もっと雑な事象でも分析・敷衍されるとき、ユニークなパースペクティブを開いてくれるでしょうか? もしかして、なんとなくブログで冒頭引用したSEALDsについての認識も、そこら辺に感応していたのかもしれません。
----- Original Message -----
From: ○○
To: SUZUKI
Date: 2016/9/8, Thu 22:56
Subject: 夏の終わりに
昨晩は菅原さんのブログの更新を拝読しながら、太宰治の「魚服記」を、坂口安吾が最も讃えた太宰作品を連想して帰り、自宅で朝刊『文學界』の広告を見てから寝て、今晩は19:40に会社を出て、三省堂に入り、20:00閉店までに最新号掲載の柄谷行人と高澤秀次氏による「中上健次と津島佑子」をめぐる対談を読み、高澤氏からの飛騨五郎氏への言及も目にしました。その他、ブログと対談との内容の重なり合う部分には今更、特に驚きもありません。
「魚服記」は『中上健次全集』や『坂口安吾全集』を読んだ大学すなわちNAMのころ以来の記憶かと思いますが、ページを開くとまさに13歳の少女の話です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1563_9723.htm
この「中学生の自殺」から考えれば、三島由紀夫の腹切りなどはもちろん、ひたすら醜悪ですが、他方、太宰自身の入水は、むしろその系譜で美しくもありうるのではないか、という気が私にはしてきます。が、柄谷は決してそうは言わないでしょう。菅原さんと柄谷との違いが、<そこ>を語るか、でもあるでしょう。
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