2016年11月20日日曜日

直系家族のエピソード――トッド『家族システムの起源』ノート(4)

「脳は、一雄一雌関係を保つことにいちばん「頭を使って」いるのではないか。あなたは夫や妻の短所や欠点に苦労させられたことはないだろうか? もしあなたが、パートナーとの関係を続けるのも楽じゃないと思っていたら、まさにそういうことだ。鳥類でも哺乳類でも、体格のわりに脳が大きい種はまずまちがいなく一雄一雌だ。反対にその他大勢の群れをつくり、乱交にはげむ種は脳が小さい。
 さらに鳥類をくわしく見ると、脳の大きさにほんとうにかかわってくるのは一雄一雌だということがわかる。それもちょっとやそっとのことでは揺らがない。長続きする関係だ。一雄一雌関係にも二種類あって、ヨーロッパコマドリやシジュウガラは繁殖期のたびに相手が新しくなる。そのいっぽうで、フクロウなど獲物を捕まえて食べる鳥や、カラス、オウムなどは一度決めた相手と死ぬまで添いとげる。そして後者の脳は、相手を一年でとりかえる鳥よりはるかに大きい。体格や食性などの生態を考慮しても、この事実は変わらないのだ。
 哺乳類になると、一雄一雌関係は全体のわずか五パーセントと少数派に転落する。それでもイヌ、オオカミ、キツネ、レイヨウの仲間は一雄一雌だ。彼らの脳は、大きな社会集団のなかで相手かまわず交尾する種より大きい。」(ロビン・ダンバー『友達の数は何人? ダンバー数とつながりの進化心理学』 インターシフト)

高校野球部の同期会ということで帰省し、伊香保に行ってきた。大学進学でほぼみな上京していたが、今はほぼみな地元で生活している。19歳いらい、つまりは世の中のことを意識的に見られる年頃以降は、地元での生活がなかったわけだから、私には生まれ故郷がどんな人のつながりで動いているのだかわからない。しかも、野球部という集団場所に子どもの頃から所属していたとしても、私はどちらかというと、イチローみたいな一匹狼タイプだったろうから、遊びでつるむような友達というのもいなかった。酒を飲みながら話を聞いていると、たとえ私が東京の職人下町のようなところに参列して生きてきたとしても、他所からきた私のようなものをとり込んで成立することを前提としているような都会よりも、地元でのほうが封建的なメンタルやしきたりが動いているのだな、と思われてきた。家の会社を継いでいる者の話を聞いていても、長男という存在がずっしりとくる。

そんな話のなかで、私が子どものサッカーチームのコーチをしていると近況紹介していると、現高校野球部父母会会長が、私を次の監督にしたらどうなのかと口をはさんだ。一瞬、幹事役をはじめとした、この地元世界の仕切りに末席している男たちの間で、妙な沈黙がおこった。子ども二人が、旧制中学からの伝統ある男子進学校に入学でき、その長男が野球部の選手になっているということでその役についていた者、現役時代はキャッチャーだったのだが、どこか空気を読めずまわりからばかにされるところのある者だったのだが、いまは「偉い」役職ということで、発言に力があるようだった。「俺は教師じゃやないから」と私も驚いて沈黙を破ると、もうそこには触れないとそらしていく話がつづいた。ということは、本当に次期監督を探しているところがあるのだろう、そして私が子どものサッカーで話していた流れから推論すると、自身が甲子園出場経験があり、数年前に球児をその三十年振りだかに甲子園へ連れていった現監督の指導法に、批判的な声が結構ある、ということなのだろう。それは昔ながらの、指導者への問答無用な暴力的なものであるらしい。去年、元部長の傘寿の祝いで100以上だかの元部員が集まったときにも、「意味がないよ」と、その強圧的な指導に対し苦言をもらしている先輩にも出会っていた。しかし、そうした体制に意識的な疑問をはさめないのが、この地元での野球界なのだろう。現地高校野球界で、周りから信頼の篤いとされる現役監督は、私の中学野球部の1年上の先輩だった。「腰が低くてすごい評判がいい」とは、父母会会長の言葉である。「だけど、知り合いにきくと、怖くて誰も近寄れないんだよ。」選手の指導でも、暴力は当たり前のようだ。ミスをした選手へのおおふくピンタが、外野へとつつづくファウルライン上をあとずさりしていく選手を追いかけていったという。ということは、大会中にそうなったのだろうか? 私が中学のとき、その甲子園経験者の先輩からショートのポジションを奪い、先輩がサードにコンバートになったと知ると、「えっ、だ、だいじょうぶだったの?」と父母会会長は驚く。「まあ、先輩からレギュラー奪って、リンチされなかったのは俺だけだったけど。」おそらく、空気の読めない会長は、私の立ち位置を感じて、無邪気に思ったこと、認識していることを言ってしまったのだろう。

しかし、ここ東京のサッカー少年クラブのコーチ間で議論したことなど、とても地元では無邪気にできはしないだろう、と私は思わされた。それは野球とサッカーの日本での系譜的な差異、というより、地域差のようにおもわれる。

一希が、よくTV「ドクターX」をみている。私の経歴からすると、私は「御意」の側ではなく、群れを嫌うほうだろう。ネクタイ・スーツいたしません、接待ゴルフはいたしません、満員通勤電車は乗りません……それが、就活にあたって、意志的とはいわないまでも、意識的なポリシー、生理だったはずだ。だから、あの24時間戦えますかのバブル期、ほぼ不可能なモラルだったので、私は消極的に動けず、つまりは就活などいっさい行わず、ウサギ小屋でじっとしていたのである。最近になって、小池都知事が、「満員電車」など恥ずかしい、と言っている。小池氏も、「ドクターX]タイプな帰国子女だから、集団倫理の掟を潔しとはしていないのだろう。が、私は、「御意」の群れを、否定する気はないし、否定するのはよくないと思っている。それが、トッドの保守的な学術をも受容的に注目する態度につながっているだろう。あるいは、柄谷氏が、NAMの散会が意識しはじめられたころ、コアなメンバーにむけて、「これからは前衛党のようになる」と、その続行のためのアイデアに転回しようとしたとき、むしろなおさら興ざめてしまった感性とも通じているだろう。そういう意味では、私はなお地元の封建意識を手離していない。それが何故であったのかを、NAM解散後、意識的に理論的に追求している、ということにもなるだろう。

息子は、とりあえず、「御意」の群れを好む性向のようにみえる。それでもいいから、自分の道を探っていってほしい。

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