2017年3月25日土曜日

夢のつづき(2)


「古代人は脳の内部から発光するこの光のイメージのことを、よく知っていたようです。トゥカノ族をはじめとするアマゾン河流域のインディアンたちが、幻覚性植物を服用することで体験し、家の壁やさまざまな装飾品の上に描いたのとまったく同じ図形を、考古学者たちは早くも旧石器時代の遺跡から発見してきました。そればかりではありません。このパターンは世界中に見出すことができるのです。…(略)…これは人間が自分の脳の内部から出現してくる光のイメージを、幾何学的なパターンとして表現したものなのです。自分の内部からわきあがってくるこのようなパターンについて、人類はずいぶん古いころから豊かな体験と知識をもっていたようです。…(略)…眼球の中に出現する同じような光のパターン発生の現象は、ハッシシやメスカリンなどを吸引した時ばかりではなく、高熱を出した時にも、白昼夢を見ている最中にも、あらわれることがわかってきました。」(中沢新一著『カイエ・ソバージュ』「第四部 神の発明」「第一章 脳の森の朝」/講談社)

このブログでも取り上げた東浩紀氏編集の『ゲンロン 4』の対談において、東氏が、まず情報量の多さにおいて、柄谷氏より中沢氏のほうが圧倒していてそれだけでも勉強になる、という趣旨の発言をしていたので、私もその著作は未読だったので、読んでみた。内容の表面上においては、やはり柄谷氏と中沢氏の思考は似ている。が、たとえば一神教においてモーゼの評価をどうするかで、二人が決定的な差異をみせていることからも伺えるように、やはり、似て非なるもの、なのだろう。が、それはあとで考えよう。

今日は、中沢氏がその著作で論じていた、「内部視覚」とか、「内部閃光」と呼ばれるものについて、私も今年の「初夢」に続いた「夢のつづき」と言うブログでどうもそういう類いの現象に触れていたのかもしれないので、さらに書き留めておきたくなった。

私は、そんな現象がすでに研究されていることは知らなかった。ただ、何かすでにあるだろうとおもっていた。中沢氏の話が、真実かどうか、私にはわからない。が、私の「眼球の中に出現する同じような光のパターン」について、関心が向かうのだ。

最近、寝ざめの朝に、こんな経験をした。
夢をみていて、これが夢だな、と気づいたので、寝る前にやっている訓練のように、目を開けるのではなく、目を閉じたまま眼球だけをあけて、あげてみた。すると、夢の映像がボロボロと崩れていきながら、緑色の輝きの中に、上の図のような模様が現れてきたのだ。中沢氏の著作の中での引用紹介では、p502にあるトゥカノ族の「基本パターン」8に似ている。中沢氏の著作を読んで気になり始めたから、ストーリ性ある夢のつづきとして、そのような模様の夢を見たのかもしれない。が、それは異様に輝いていた。それがおそらくは一月近くまえ。

次に、1週間ほどまえ、次の図、ヨットのような絵文字をみた。やはり、夢だな、と気づいて、その夢が崩れて、浮き上がって来たのが、やけに白く輝いた背景の中での絵文字群だった。群というのは、もっとたくさんあったからで、それが日本語の縦列とか、英語の横文字とかの秩序よく並んでいたのではなく、バラバラな向きで散らばっていたのだ。私は、これは記号というより、文字なのではないか、と夢の中でおもった。目前に広がっているので、ひとつひとつの形ははっきりしない。そこで、中央付近にあったヨットのような形の文字に目を凝らした。下のほうが、2線であったか、□であったか見取れなかった、というより、目覚めてすぐに書き留めなかったので、そのとき、2線か□と記憶したのか、今はおもいだせなくなってしまっている。ただ、ヨットの帆が、斜めになっていたのだけははっきりしている。

寝入る前に広がる紫色のまだら模様を目を凝らしてみれば、格子模様や、指紋のような波だったり、色々あるようだが、よく見取れない。

こうした内部視覚が伺える領域は、夢の映像をみる脳の領域とは違っていると私は推察している。それは、「眼球の中に出現する」ような感じで、ゆえに「視覚」的だ。夢は、脳裏に、という感じで、脳みその中だ。しかしその2領域は連動している。私の見た印象では、荒い視覚模様が下地で、それが夢の複雑な映像を連想構築していく感じだ。基本的には、印象画の点描の原理に似ている。が、その点から画像への移行のどこかで、処理する領域が変わる。スイッチが入れ替わる。

私が、そう見える、そう感じる夢を見ているのかもしれないのだとしても。

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