2017年9月6日水曜日

北朝鮮情勢をめぐって

「私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二種類にわける。その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。三光作戦の藤田中将のように「戦争とは殲滅だ」といい、浅海特派員のように「戦場は百人斬り競争の場」だと書き、また本多氏のようにそれが、すなわち「殺人ゲーム」が戦場の事実だと主張する――この人々は、いわば絶対安全の地帯から戦場を見ている人たちである。だがもう一つの人びとにとっては、戦場が殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所でなく殲滅される場所なのである。
 その人びとはわれわれであり、全戦の兵士たちである。彼らにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。ここに、前線の兵士に、敵味方を超えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた前線の兵士だった。これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。」(山本七平著『私の中の日本軍』 文春文庫)

私が、現在のきな臭い北朝鮮情勢をめぐる状況のなかで、中学生になる息子に一番まず伝えておきたいことは、「人はその時突然変わる」、ということにこだわった漱石の認識になるだろう。部活のサッカー部にも、韓国からきた下級生がいるそうだ。まだ日本に来て一年目なので、日本語もままならないので、部活をやめるかもしれない、という話を息子からきかされている。大久保でのヘイトスピーチをみても、おそらく、北朝鮮と韓国の区別を、日本人が明確にしうる歴史経緯は内面化されていないだろう。戦前・戦時中も、昨日まで仲良く遊んでいた在日の子どもたちに対し、国の明白な態度変更とともに、子どもたちもが突然と変貌して排他的になったことが伝えられている。そうでなくとも、すでに私は、子どもたちへ教える少年サッカークラブでも、いわゆる昔の運動部的に子どもをいじる(しごく)ことでチームを強くしていこうとする指導の体制になってきたようなので、私は引退すると表明している。父兄にしても、また半分のコーチにしても、そういう方針でチームが強くなるわけでもなければ、そういうふうに子どもを強くすることに疑問な声なのが多数的なのだが、結局は強気なことを言うコーチの方針にバイアスがかかっていく。別にそうした方針に興味のない親は、単に練習に子どもを参加させることに熱心でもないし、参加したら参加したで、体力ないからとマラソンをさせられるのでは、子どもも面白くないので、来なくなる。そしてそうした成り行きの自然性を、そんなコーチも認識している。がゆえに、なおさらかたくなに、その正しい方針を貫くことが、大きくは世のため人のため、と思っているらしいのである。そしてその想念が、暗黙には日本的というか世間的な理念的前提、ということに若い親たちもが共有しているので、声をあげるのではなく、単にそこから遠ざかるか適当に距離をおいてかかわる。子どもには頑張ってもらいたいので、素直に手なずけるしつけの難しさもあって、それを他人がやってくれるのならと、黙って見過ごしていくことによって、少数派のコーチの声がヘゲモニーとして通ることになる。私も、息子がもうそこにいない現場で、権力闘争のようなことをする気力はない。

少年サッカーの一地区理事会でも、私ぐらいの世代だと、大半は野球部だったりするが、部活は「軍隊」のようだった、という比喩は共有される。そしてそこでも、強気な発言をする少数派が、体制・風潮を作ってしまう。山本七平氏の冒頭にあげた著作などを読んでいても、そう述懐されている。そして私自身が、そんな声高の少数派の一人であったろう。戦時中だったら、そのまま大人になれたかもしれない。が、戦後の民主主義的な原理も発育させていた旧制の中学から進学校になった高校では、建前上は後輩に対するシメのような儀式はやはりあったのだが、進学校に入学してくる者たちのほとんどは要領を得た個人主義的な地区のエリート―なので、そんな集団儀式には冷めているのだった。シメを行うのは、山本七平氏が初年兵への体罰をするのは2年目の兵士だと指摘しているように、部活でも2年生の役割だった。3年生は、見ているだけだ。2年生の私は、頭のいい子どもたちの要領のよさと、そういう者たちのニヒルさこそがここでは風潮を作っていくらしいことに不安と疑問、同時に中学までの自分を懐疑しはじめていたけれど、それまでに肉体化された習慣と、むしろまわりの冷めた二リルさに対抗するように、新入生に声をあらげた。「自分の声だって聞こえなくなるんだぞ!」と、すでにレギュラーで試合にも出ていた私は、スタンドの応援でかき消される声を例にだして、球拾いする下級生に、なっとらん、と叱っていたのだった。すでに自分でいいながら空々しい憂悶を抱え込んでいたが、自分はその葛藤を処理できなかった。今では、その時の自分、あるいは中学までの軍隊的部活を全否定的に対処することはできないと知的認識しているので、もっと方法的に対処して、サッカーを通して、子どもたちに指導してきたことになるだろう。といっても、その方法が自覚されてくるまでには、息子がまだ低学年の頃には、おもわず軍隊的な名残でやってしまって、その瞬間すぐさま知的に内省されて修正する、そんな過程を通らねばならなかった。私の父親には、そんな修正は必要がなかった。しかし、もともと無理がある強要指導になるので、いつしかは優しい父の地のままになる。が、知的対決をしていないので、もし父が若返ったら、やはり同じ教育を繰り返す他ないだろう。

プーチン大統領は、北朝鮮は、自らが安全と感じるまで雑草を食ってでも核開発をつづけるだろう、と発言しているようだ。彼らが戦後の日本人のように身代わり早い習性の人たちなのか、本土決戦をも辞さない覚悟な者たちなのか、は知らないが、私たち日本人は、プーチンが披露した北朝鮮の気概を理解できる過去(文脈)は持っている。その痕跡経緯は、若い世代でもなおなくなっていない、と私はおもう。が、そこから自分の立場を探り言語化する営み、訓練、知的対決をしてきただろうか? 単に、長いものに巻かれて当たりさわりのないことをいってその場をやりすごしていく、そんな良い子の態度の文脈しかみえない。潜在的には、日本の思想史を振り返ってみても、連綿とつづいた模索があるのだが、現実に働きうる潜勢力としてはどこかへいってしまったようにうかがえる。もはや、戦争はしょうがない、それが諦めではなく、良い子の理性的な判断としてあるようなマスメディアの風潮に伺える。だから、戦争を肯定する声高の少数派がでたら、自分のやましさから押し黙ることになるだろう。やましさとは、本当はしたくない、暗い世の中はいやだな、と生理的に思うことだが、理性的、冷静な判断で戦争を是とする趨勢の中で、そんな私事的なこと、弱音は声に出してはいけないのではないか、と黙ってしまうのである。そして声高の少数派には、「戦争反対」と叫ぶいわゆる運動家の人たちも入ってしまうだろう。それは、自分の過去を、私の中学時代までを全面的に否定することで現在の私を定立している人たちのようなものだ。自分の弱さにとどまって対決することをすり抜けて居直ってしまった反動家の言葉に、人を説得させる認識が孕まれているとは、私はおもわない。ただ、それでも戦争を遂行させる声高の人たちよりはマシなのかも、とおもうだけである。しかし、あの戦争を遂行させた軍隊と、戦後の民主主義を遂行させてきた勢力が、実は同じ穴のムジナだったとは、戦後の日本思想で自覚されてきたことではなかったか。

戦争になっても、いつも通りでいろよ、私が息子に言えるのは、とりあえず、そんなことだけだ。結局は、私は、そんなことしか考えてこなかったのか?

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