探照灯は高い塔の上に三台ある。恐龍の首みたいな光の筒は僕達を通過した後、遠くの山々を照らし出している。光の束で切り取られた彼方の雨の一塊は、一瞬凝固し、輝く銀色の部屋となる。最も強烈な探照灯はゆっくりと一定の場所を照らして回転する。僕達から少し離れた引き込み線路の上に一定の間隔で回ってくる。僕達はさっきの衝突で意志を失くし、ネジを巻かれ歩く方向を決められた安物のロボットみたいに、車を出て、大地を震わせるジェット機の爆音の中をその線路まで歩いて行った。」(村上龍著『限りなく透明に近いブルー』 講談社)
朝日新聞の映画評で知り、この作品を見てみたくなった。このブログで「座間事件」として言及した、そのときの考察を、もう少し深められるかも、とおもったからである。
私はそのブログで、死臭さえもが単に「変な匂い」・「生温かい匂い」として近隣から素通りされていった日常の異様さを、基地在所の特異性であるのではないかと指摘し、そのこと自体が今の日本本土の一般的様子を象徴している、と述べた。しかし、今年はじめ、たまたま、座間で植木の手入れ仕事をすることになって、基地周辺に居る、ということの特異な厚みを、部外者として目の当たり、というか、耳当たりにしたのである。たしかに、映画の18歳になる少女サクラの口癖で、「はあぁ?」と聞き返さないといられないほどの轟音が、とくに午前9時半過ぎからだろうか、次から次へと発進する飛行機の爆音が1時間以上は続いていく。すぐ頭の上を、つんざくような高音とともに戦闘機が、うなるような低音とともにばかでかい輸送機が、地響きを砂煙のように巻きあげて通過していく。
この強烈な異常さに「慣れる」とはどういうことなのか? 私は、自分でブログに言ったことがわからなくなった。もう一度ブログを書くことによって、整理する。
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この映画の時評をネットで読んでみて、私の着眼点に近い意見は、次のようなものだ。
<『限りなく透明に近いブルー』にも、のちに村上龍が繰り返し描くことになる命題の萌芽がすでにある。それは、「不幸の芽は自分の知らないところでまかれて育ち、ある日、突然自分を襲ってくるものだ」(村上龍『ライン』)というもの。同じ命題は、村上龍と同時代を代表する作家・村上春樹が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という作品で、東京の地下に住む”やみくろ”という邪悪な魔物を通して描いたものでもある。映画『大和(カリフォルニア)』から話が少しそれているように感じられるかもしれないが、「『慣れ』と『あえて』によって沈黙している(宮崎)」ことによって日常が成立し、その下で黒々とした”邪悪な”ものが育っていくという状況を描いた点において、本記事で紹介した作品はすべてつながっている。たとえその結末が違っていたとしても。
ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、その後に起きた地下鉄サリン事件を予見していた、と言われることもある。
では、映画『大和(カリフォルニア)』は、いったい何を予見しているのだろうか?>(山田宗太朗 映画『大和(カリフォルニア)』都市のすぐそばにある黒いもの)
この評者が問う「予見」の私の答えは、「座間事件」、ということになる(日本での映画公開は今でも、創作されたのは事件前のようだ)。しかしならば、1970年代半ばに発表された村上龍氏の時代性とは、その差異も見えてくることになる。そしてそのことの差異については、映画監督自身が指摘しているとおりなのだ。
<…ひとつ具体的なことを言えば、厚木基地の兵隊さんたちはほとんど外に出て来ません。敷地内が広大でそこだけでほぼ町を形成し、事足りるため、外に出てくる必要がないのです。ですから横須賀や沖縄などと違い、地元住民は騒音以外には彼らとはほとんど接点がなく、まさに近くて遠い他者なんです。>(宮崎大祐・パンフレットより)
村上龍の作品、あるいは、その作品が切りとった時代の寓意には、人(日本人)と人(アメリカ人・黒人)とが交流(セックス)していることが前景化されていることが舞台の設定、前提である。が、この映画では、米兵に代表されるべき外人との交流はなく、ただ騒音の空気として、しかもそれが「異常」なことでもない日常的なこととして慣らされてしまった、いわば”存在”と化してしまっている。そして実際の事件は、つまりあの「座間」の殺人事件は、むしろそれのほうこそが不気味であることを露わにしている。『限りなく―』では、米兵が日本女性とレイプまがいに性交しても、殺すことはなかった。顔のみえる相手として、具体的な関係が、抑制として効いていたかのように。が、具体的な人間付き合いが消えてしまった今では、ただメディアをとおして発生した抽象的な関係の慣れの果てなように、密室的な殺人が連続してしまったのだ。
この映画に、そんなどきつい場面が挿入されているわけではないが、あの轟音の存在、バックグラウンドが、今の時代、事件に触れた観客たるわれわれをとおして、不気味な事件を現前させてくるのである。いや、この監督自身の前作の予告だけをみてみても、この不気味さに監督が敏感的、意識的なのではないかと勘ぐらせる。いや、当初は、本人はこの異様な日常音源に意識的ではなく、他のミュージシャンからこのノイズを使おうという提案があったと告白しているのだから、無意識的なのかもしれない。逆に、村上龍氏の作品に戻れば、村上氏は意識はしたが、それを前景化したのではなく、後景として追いやったのである。だから作品の冒頭は、「飛行機の音ではなかった。」なのだ。彼にとってアメリカは、手に届き触れえる友人と化しつつある他者である。が、宮崎氏にとって、それは隣接していても手には触れ得なくなった他者、しかも、私たちの存在の内とも化してしまった他者なのである。まさにその在り方は、「不気味なもの」、身近な者こそが他者である、という精神分析の概念に当てはまる。「自分の知らないところでまかれ育」った「魔物」ではないのだ。
しかし宮崎氏のこの映画では、むしろ、そこから、が描かれようとしている。見えなくなったアメリカが、われわれの内に存在して占領している(それは、サクラの父アビーの不在によってこその存在圧倒、しかも産みの親(戦前)ではなく育て(戦後)の親として、に寓意されている)、だけではなく、それが見えなくなる過程(歴史)において、見出し得る存在をも産み出している、という現実である。端的に、ハーフが、日本語をしゃべる混血児が登場するのである。『限りなく―』では、そういう視点は、まだないのだ。しかも、その混血児、映画で一番その存在感をもって登場してくるのは、サクラの喧嘩相手の、同級生だった女たちであろう。彼女たちは、おそらくラテン系だ。米兵との間というよりは、日本に出稼ぎにきた日系の、またはニセ日系、不法移民なブラジル人、あるいはペルーや他の南米からの者たちの子か、彼ら・彼女たちと日本人の男女との間で産まれた子供たちであろう。私にも、夜の荷物担ぎのバイトで一緒になった南米からの友達がたくさんいた。厚木にアパートがあった。20年以上もまえの当時、基地があることは知っていても、爆音に出会うことはなかった。そんな彼ら、彼女たちの子供たちの存在である。産み落とされた他者たちは、隠れようもなくそこに居る。ヘイト・スピーチに取り巻かれ、または自らが、ホームレスに石を投げながら(映画での一情景)。
いや、おそらく、この映画で使われている音楽たちが、産み落とされた他者たち、なのではないだろうか? 私は、音楽音痴なので知らないが、『限りなく―』で引き合いにだされる音楽は、みなあちらのものである。村上龍は、少なくとも当時、黒人のようにサックスが吹けるわけでもない日本人のまがいものの音楽には批判的だったはずだ。が、この映画こちらの音楽は、コピーというよりも、クリオージョ、なのではないか? 映画中でサクラのいう「サンプリング」という概念を私は知らない。が、あの南米の友人たちに連れられていったディスコやレストランでの、音楽の雰囲気を、私は思い出す。彼らたちの多くは消えていったが、産み落とされて居着く他なかった者たちがいる。目に見える存在として、そこにいる。
そしてそんな現実は、引用した山田氏の時評を参照すると、あの「川崎事件」が起きた川崎という場所でも、可視化されてきた事態であるようだ。
見えない存在と、見えてきた存在――われわれを支配する存在と、そこから逸脱しはじめた存在。
この映画は、存在下にあるわれわれの無意識な闘争の在り方を示唆し、そこから何か新しいものが産み落とされるのではないかと期待させてくる。不気味な事件の予示だけではなく、積極的な予兆をも感じさせる。
*この映画『大和(カルフォルニア)』が上映されているK's cinemaは、二度目の観賞になる。去年の9月に澤田サンダー監督『ひかりのたび』というのを見ている。学生の頃、よく映画をみたが、その頃の、田舎者には変な感じ、今からなら「文化」とも呼べる感じがする。そういう感じのする映画館がいったん衰退していってしまったような気がしたが、人が在るかぎり、復活する、反復されてくるのではないだろうか? 高田馬場にあったACTミニシアターが懐かしい。巣鴨の三百人劇場も。
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