2018年11月15日木曜日

「歴史の終わり」をめぐって(4)ーー平和条約を前に(2)

「それでは、社会体制の思想原理を民衆自身が考えはじめることは、なぜ危険なのであろうか。それは、現実の身分制的権威にたいして、観念の世界においてではあるが、思想原理という優越した権威が民衆のうちに成立するからであり、そのために、さしあたっては封建制と対立しない思想もいつ批判の論理に転化するかわからないからである。富士講の行者たちが、ミロクの世の実現を幕府の権力者や天皇に期待したことは、彼らが封建支配にたいしてあまりにおめでたい幻想をもっており、封建体制を批判するどころではなかったことをしめしていよう。しかし、それにもかかわらず、一つの思想原理が成立してみれば、その立場から現実社会を批判的に眺め、身分制の権威よりも思想的(宗教的)信念の権威を信ずる人間を生みだしてゆく可能性が生まれる。富士講の始祖角行は、「天下泰平国土安穏万民快楽」の使命をもってこの世に生まれてきたとされているが、この使命のゆえに角行は「天子の役也」、「神孫の役也」、「国王の役也」などとくりかえしてのべられており、身禄も自分のことを菩薩と呼んだばかりか「王」と呼び、自分の妻を「女御」、娘を「姫」などと呼んだ。これらはすべて救世の予言者としての思想的権威を宣言するものであり、そうした観念上の権威が現実の身分制的権威に優越すると主張したものである。自己の思想的権威を現実の政治的権威よりも優越させる態度は、「革命」説を否定した近世の儒教にはとぼしかった。富士講においてもこうした観念が十分発展したとはいえないが、丸山教や大本教の現実批判はこうした観念の発展なしには考えられない。」(安丸良夫著「「世直し」論理の系譜」『安丸良夫集3』岩波書店)

今年6月に来日した、フランシス・フクヤマ氏の最近作の翻訳にともなう記者クラブでのインタビューを、You tubeで見た。最後の個人会員からの質問はずばり、歴史は終わった、リベラル民主主義の勝利で、というのは、大ハズレだったのではないか、というものだった。だからこそ最近作を読んでくれ、との返答に、笑いに包まれてインタビューは終わったようだが、私としては、このハズレにはなお考える余地がありすぎる、と考えている。
要は、トランプ大統領の出現とその振る舞いが、リベラルな民主主義の終わりではないか、というフクヤマ氏とは正反対な意見が、ジャーナリズムや政治学者間での吹聴になってきているわけだ。アメリカの自壊現象が、中国とロシアの台頭という現実を後押ししていることが、明白になってきたわけだ。ただこの思想的風潮は、だから野蛮な方向へ歴史が退行している、と見る点で、フクヤマ氏と思潮の根を同じくしている。
が、トッドの家族人類学的な見方によれば、逆になるわけだ。核家族=民主主義の方が野蛮というか類人猿に近く、共同体家族=帝国の方が、文明として新しい、人間的な進歩なのだ、となる。むろん、「進歩」といったのは私個人によるイロニーで、トッド自身は時系列的には事象をとりあつかわず、似たような構えをみせる「世界史の構造」の柄谷氏によれば、4つの交換形態の組み合わせやそのグラデーション、強弱となる。
が、私が見たいのは、フクヤマ氏の中心概念である、「気概」、英語ではdignityの行くえ、だ。まだ翻訳されていない最近作で追求されているようだ。

ともかく、こんな地政学的な変動において、日本の総理が、ユーラシアの中心、文明化発祥地に近い帝国から、「平和(条約)」をせまられているわけだ。だから、三代目安倍だけの問題ではない。私は、プーチンの提案の方向でいくしかないだろう、とおもうが、洞察力のないへたな首相しか輩出させられないならば、旧ソ連からもアメリカからも、ぼったくられて日本人は悲惨になるのではないかと、おそれる。が、その方向をとらない、ということは、世界から孤立していく、ジャパン・ファーストになっていく、ということではないか? 世界の笑い者になるか、世界の除け者になるか…私は、世界に参加した上で、次の可能性を鍛えていく方がいいだろう、と考える、が、まだよくわからない。
戦いは終わった、といったフクヤマ氏は、私はリベラル民主主義のために戦う、そのために日本にも来た、というのだか、文明からの亜周辺に位置する日本が、その戦列につけるのか、つくのがいいのかも、根本的というより、体質的に再考しなくてはならなくなった、ということなのだと考えている。

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