2019年6月10日月曜日

父をめぐって

「その「忘れる」という言葉には、どんな意味がこめられているのだろう。夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘をいっしょに育てたこともどうやら忘れた。二十数年前に二人が初めて買い、それ以来暮らし続けている家の住所も、それが自分の家であることも忘れた。妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。
 それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。」(『長いお別れ』中島京子著 文芸春秋)

山の方の施設から、家から近い老人ホームへと移ってきた父のところへ、さっそく母は歩いて行く。2kmもない距離だが、それでもリウマチか何かで足をひきずっている母には、30分ほどかかるという。梅雨入りした土砂降りの中を、午前中にでかけて、夕方に帰ってきて、そのまま寝込んでしまったと兄は言う。久しぶりに参加しようとした草野球をキャンセルして、私は車で行った。出迎えた母は、まあ元気そうだった。「帰ろうとすると、だめだ、とかみついてくるのよ。だけど夕ご飯の知らせに、一番で走っていって、今帰っても大丈夫ですよって施設の人に言われて、帰れたの。」その父は、前の施設でもそうなように、6畳よりは広い小綺麗な個室のベッドで寝転んでいた。「お父さん、来たよ、マサキ。マサキだよ、わかる?」父はきょとんとしている。前の施設とはちがって、部屋への扉の向こうが介護さんの居る広間へと開かれているわけではなく、どこか部屋に閉じ込められている間取りになり、トイレも各個室の中に設えられているので、父が用をたそうとしたときは、自分たちで始末しなくてはいけないような感じになる。母がズボンとオムツを下ろし、私が介助する。オシッコは、下の床へと落ちてゆく。座ってさせたほうが、と二回目は便座に座らせてみたが、立ち上がってから小便をし、下ろしたオムツの中へとやってしまう。お尻拭きで汚れた床をふきながら、これも一緒に水に流していいのだろうか、と考える。

村上春樹氏が「猫を棄てる」と題して、父について語っている(『文藝春秋』6月号)。父の期待に応えず、自分の趣味的なものへと没頭的に生きたことで「絶縁」に近くなったが、90歳を迎える父が亡くなる少し前、入院先で会話を交わし、「和解のようなことをおこなった」そうだ。私も父との、いや家との関係は、「二十年以上まったく顔を合せなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡もとらないという状態が続いた」ようなものだったろう。しかし、「和解」が必要なほど関係が「屈折」していたという意識がない。「結婚式をあげさせろ」と、おそらくは親戚関係の手前上父は、女房の両親の方へ迫ったそうだが、私自身にそんな気がないと知って、すぐに降りたようだ、という話からすると、父自身には「屈折」感があったのかもしれない。が次男坊の私に、その「屈折」を押し出すほどの主張を敢えてする感じには、なれなかったのかもしれない。が、そんなことどもを、まだ生きている父と、もはや話すことはできないのだ。今おもえば父は、私と一緒に酒を飲み交わしたかっただろう。アルコールには強くても好きでない私は、つれなかった、と、実家に息子を連れ帰っていたその時の私の稚拙な態度を、息子が高校生にまで大きくなって、はじめて気づくのだ。何をかはわからないのだが、父となった私に、酒でも飲みながら息子とつっこんだ話をしてみたい必要が感じられてきたのである。それは、家族の関係が、母によって先導されていくことへの修正と修復が洞察されてきていることからくるようだ。あるいは、違う時代を生きていることの齟齬を、父と息子との言葉によって明確化していきたいという欲望である。息子よ、おまえは何を考えている?

しかし少なくとも、私と父との間では、もはやそんな話は不可能なのだ。

そして、日本の文学・思想界にあっても、それは「不可能」な歴史として変遷されてきた、というのが教養だろう。江藤淳の「父の喪失」だったか崩壊だったか…。橋本治氏も、最後にはそんな弱くなっていく父という立場(関係)のことを言い残していったようだ。本当に、明治の父は強かった、というようなものだったのかは知らない。が、自ら戦場に行き敗戦を体験した村上氏の父が言葉少なく、まだ戦争の頃は子供時代で、むしろ戦後の高度成長を担っていった私の父親も、はっきりした主張は言えない寡黙さを抱えていることは、意識できた。おそらく、敗戦のトラウマなのだろうと私はおもう。負けた奴が、身につけている価値思想を、肉付けされている自己主張を、どうしてできるだろう? 東京で職人になって、戦争にいった父親世代の話を酒の席で聞かされた。中国人を何人殺した、とか、尻の穴に爆薬を詰めて爆発させたとか、すぐ自慢するのだと、戦後生まれの村上氏世代の職人は話す。「本当に悪い奴らなんだよ。日本人は、悪いんだよ。同級生でも、人を殺したくてうずうずしている奴が、自衛隊にはいっていくんだ。」話す内容がインテリ層と反対でどぎつくても、酒の席で、年下に密やかに話すことしかできないということは、沈黙に「屈折」しているということで、同じ態度を生きている。家では、たとえ若い頃はとくに暴力的であっても、女房(母親)には、頭があがらない。敗戦の「屈折」が、近代以前のより古層の地盤と癒着してしまったような感じなのだろう。そこではなおさら、問題の本質を明確化して把握することが困難になるだろう。村上氏は、自身の家関係を、「偶然」という思想性で抽象(普遍)化させているけれど、私にはその態度はジジェクのいう「早すぎる普遍化」であって、問題の回避にしかならない、と認識している。また、「偶然」ということに関しては、大澤真幸氏に、「必然」の感想があってはじめて「偶然」が存在するというような、鋭い洞察を形式化している論考があるし、山城むつみ氏の3.11からのドストエフスキー論(確率論批判)も、生きていく態度として強いとおもう。村上氏の認識は、私からすれば、子供の感想文の類いだ。

私は、父として、息子と、話すことができるだろうか?

*参照ブログ「中学生の自殺(3)――教育と育成

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