2019年10月20日日曜日

付記として

「ヒッチコックの『めまい』(一九五八)がそうであるように、『シャイニング』のなかにおいてわれわれは、超自然的な幽霊の可能性が抑えられているときにのみ、<リアルな>幽霊に遭遇することになる……あるいはこういってもいい。われわれはそのときにのみ、<リアルなもの>の幽霊に遭遇することになるのである。」(『わが人生の幽霊たち うつ病、憑在論、失われた未来』マーク・フィッシャー著/五井健太郎訳 ele-kingbooks)

梅雨や台風といった、普段の季節の巡りによって引き起こされる災難が、普段通りやり過ごせる日常的な出来事ではなく、非日常的な災害になってしまうことが普通な、日常的な事態になりつつあることが、ここ数年の繰り返しで身に染みてくるようにった。3.11での大地震のようなものでなくとも、まるで映画『日本沈没』での、引き裂かれた大地に呑み込まれる由美かおるとそれに手をさしのべる男優の誰かが演じたような場面が、実際のあちこちで再現されたことが報道されるにつれ、もはや逃れうる主人公はいないのではないかと、我が事のような想像が押し寄せてくる。群馬にある実家の藤岡市も、今回の台風で、一番最初に河川氾濫の警報が出た、利根川水系の神流川と烏川という河川に挟まれている。烏川の堤防からは、500メートルもないだろう。ネットでの災害情報を調べて、雨のピークはもうすぐ終わるから、今回は避難しなくて大丈夫だ、と東京から伝えた私の判断に従うことになったのだが、役所からの避難勧告、町会長の一軒一軒まわっての避難通告との連絡、そしてテレビで堤防氾濫、決壊のニュースが流れるたびに、本当に大丈夫なのか、気が気でなかった。ほぼ歩けない80歳すぎの母を大雨のなか移動させ避難所で過ごさせるのは、最終的な手段とした方がいい、だから、ぎりぎりセーフの判断をつらぬき通し、あとは腹をくくる、というのが私の考えだった。実家に前もって行っておくことも考えていたのだが、前回の台風で、東京の中野区の団地も風で窓ガラスが割れるのではないか、というくらいだったので、妻子を残しては動けない。「川が氾濫したことがないのなら、大丈夫に決まってるでしょ。ぎゃあぎゃあ騒いで」と、九州で子供の頃を過ごしていた女房は、台風なれしていない、経験知がないのんきな関東人と馬鹿にしてくるのだった。「これまでの経験知が役にたたなくなるというのが最近起きていることの経験知だろ」そう言いながら、私が女房に対し本心にあったのはむしろ経済のことだった。女房は日常的な循環なように、不景気のあと景気がくる、と金の扱いを考えている。いま不動産は高いから、マンションが安くなってから、と。そうなったときは、おそらく金の価値自体が変わっている、これまでの経験値を超えて。結局その判断は、世間体じゃないか、自分の歳を考えろ、そのうち子供も家を出る年ごろになる、ある金で、必要なものを買っておけ、とりあえず、車が20年近くたってメンテナンスが余分になるから、現金一括で新車に変えよう、レンタカーだのカーシェアだの、現物ではなくシステムへの信用など、俺はまったく信仰していない……。

資本主義の循環性というよりは、破局性をめぐって、宮崎氏の映画『Tourism』河中氏の評論『中上健次論』を論じたのだったが、以後読んでみた本、松本卓也著『享楽社会論――現代ラカン派の展開』(人文書院)、マキシム・クロンブ著『ゾンビの小哲学』(人文書院)、そして冒頭引用の著作等から、その論点が、文化的な世界的同時性にもなっているようだと知れてくる。とくに冒頭引用のイギリスの文化批評の著者は、2017年に自殺してしまったらしいが、ブレグジットの下地になっていくようなアンダーグランドな世界の視点が興味深い。音楽マニアな宮崎監督の背景にも、そうした情念が通底しているような気がする。そして松本氏のラカン論には、私が河中氏の論理の矛盾点と指摘した箇所と重なるような認識が提示されている。それは、柄谷行人氏の四つの交換様式論とラカンの理論との交差として指摘されている。とりあえず、結論的な部分だけ引用して終えよう(その是非は、私はまだ判断できていない)。

<交換様式Dのこのような規定は、ちょうどラカンが分析家のディスクールを「資本主義からの出口」(AE521)と評したことに対応するだろう。簡単に素描しておこう。現代ラカン派では、分析家のディスクールは、エディプスコンプレックスのような既存の知(S2)の専制を脱し、主体の自体愛的な享楽(身体の出来事)が刻まれたひとつきりのシニフィアン(S1)を析出させることであると考えられている(これが、S2とS1のあいだにおかれた遮蔽線の意味である)。そして、このシニフィアンこそが新たな主体化の核となり、己の人生を非エディプス的なかたちで、特異的=単独的なかたちで新たに生き直すことを可能にする(松本卓也2015)。それは、人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な力に抗して、「すべて」の側に与せず、「すべてではない」(すなわち、決して「すべて」を構成しない)生のあり方を発明し、それを生きることにつながるであろう。>(「大学のディスクールと分析家のディスクール」前掲書)

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