2020年4月20日月曜日

ひる


あさ、書き終えたブログをアップして、本を読み始めたひるまえ、ようやく妻がおきてきた。いつもなら、まず一番に窓際で寝ている息子の布団をはいで、おこそうとするのだが、テレビをつけて、食卓の椅子に腰かけたまま、ぼうっとしている。顔が、まだ青白い。数日まえのよる、寝入ろうとした妻は、とつぜん咳きこみはじめたのだ。息ができないようだった。寝るのがつらくなったように、布団からでると、トイレへいって出てき、静かになった。おそらく、洗濯機などを置いた狭い玄関口にある丸椅子に腰かけて、休んでいるのだろう。洗面所と背中あわせのクローゼットを通して、タンクに水がたまってゆく勢いある音が、寝室にも響きつづけた。がしばらくして、妻のこま切れになった促音のような咳がひっきりなしになって、低音なリズムに落ち着いていった水の流れは背景にかわり、執拗な反復音が、家の中に緊張感を走らせた。

引き戸をあける重い響きがおこる。息子の、心配そうな声がきこえる。
「だいじょうぶなの?」それから間があって、「顔が、真っ白、死人みたい。コロナじゃない?」
「そうかもね。」と妻がこたえる。また間があったあとで、「死なないでね。」
 息子はそれだけをいうと、またリビングにもどっていった。どうも、音を低くして、テレビをみていたようだ。スピーカーからもれてくる幾人もの声が消えて、布団にもぐりこむ気配がつたわる。息子のあとからダイニングの方へいった妻が、蛇口をひねってコップに水をくみ、喉に流しこむようにして飲む。二人はさきほどまで、ののしりあいながら勉強をしていた。まだ声変わりしたばかりとわかる息子の割れたままのような声音は、ガラスの破片の切っ先のように部屋を仕切る壁にささってきた。ならば妻のヒステリックではあるが甲高くも落ち着いた重い声は、切っ先をさえぎる鉄の楯であろうが、その防御の道具は武器となって相手を押しまくり、体当たりとなって倒しねじ伏せ組み敷きはじめる。その母親としての本気度に、息子は勝ったことがない。だから、相手が防御をゆるめた隙をねらって、手や足の一撃がでる。二人の間で、おさまりがきかなくなる。たいがいの場合は、息子がトイレへ逃げるか、外へとでていく。「死なないで」といったそんな息子の声は、まだ母親に甘えている子供の泣きべそのような音色があった。

ワイドショーでの話しあいのした、布団にくるまった息子は動かない。妻も、いまは咳をしていない。熱は、ないという。味覚もあるし、とくべつに背中や胸が痛いということもない。たぶん、肝炎だからなのかもしれない、と咳きこんだ翌日に答えていた。風邪気味での体調不良じたいは、年末からつづいていた。三月にはいって、ウィルスの致死性のおもった以上の高さがあきらかになりはじめてきたころ、自分はすでにかかっているからもうかからないだろうとおもう、とのようなことを言い始めた。そんなわけがない、と私は言った。ならば地域センターでの活動で接したじいさんばあさんたちにうつって、誰かひとりくらいは重症になっているだろう、それがないということは、誰も感染などしていないということだろう……。

テレビでは、韓国での一日の感染者数が、一桁になったということを伝えている。妻は、肝炎だといった。マスクを国民に配った総理と同じ難病指定の病気を抱えていた妻は、去年暮れの検査で、肝炎の気があると指摘され、再検査の指示をだされていたのだという。その大学病院では、新型ウィルス患者の受け入れはしていなかったが、自身の病状の悪化は、正常性バイアスになっていくような自己憐憫が、もう通用しないことを、妻に意識させているようだった。アメリカでは経済再開への段階が組まれはじめ、韓国では一桁となったという報道にも、楽観的な妻の強気な性格の葛藤に、とくべつな影響をあたえていないようにみえる。顔は青白いが、以前よりはだいぶよいようには見える。しかし調子がよければ、ぺちゃくちゃとなにかコメントをしゃべりはじめるのだが、口を結んだまま、椅子にすわって、じっと映像をみている。

「ちょうどいまの日本の感染者数と死者数が、韓国でのピーク時のとほぼ同じだ。1万数千人の感染者と、2百人をこえるくらいの死者数だ。いや、人口が日本の半分くらいなら、率は韓国のほうが相当たかかった、ということか。検査数が違うとしても、流れはわかる。これから日本が、下火になっていくかね?」ひとりごとのように、妻のかわりなように、私は言ってみる。指数関数的に増加していくという計算予測どおりに事態が推移していったこの一週間だともいえるが、まだ身近に実感はなかった。近所の公園では、休校で退屈に疼いた子供たちがあふれ、付き添いの親もめだち、にわかにジョキングする人たちも増えた。テレビでみる東京の繁華街での閑散さと、住宅街近辺の喧騒との落差は、ふと足をとめて考えてみれば、非現実的でもある。棺桶であふれたニューヨークやイタリアのような状況になるまえにと、先週のうちに床屋へいき、マッサージをしてもらった。自粛要請の発令があっても、経営者の気概のようなものがまさっているようにみえる。自己破産するかともらしていた草野球仲間の焼き鳥屋さんも、いつもどおり、夕刻5時には店をあけていた。体調のすぐれない女房が夕食を作れないため、そのオカズを買いにでかけたときにやっているのに気づいて、焼き鳥を買ってきたのだ。息子はうまい、と、もも串のタレを頬張った。

住む団地より坂をくだっていった職場の途中にある火葬場が、普段よりいそがしく稼働しているようにはみえない。植木手入れにはいっているお寺の客殿でも、葬儀の回数が多くなったということはない。山手通りを走る車の台数も、減っているようにはみえない。

妻が、やおら立ち上がり、台所へむかった。昼飯しをつくるのは、正常性バイアス、というより、街の店の主人のように、女房の気概なのかもしれない。世の情勢がなんであれ、自分が病にかかるかどうかは別な話だ、だからその怯えと、メディアにあおられて感じる怯えとは、別のものだ。後者が強いものは、自分をたなにあげて他人をみるだろう。しかしこの最中で、日常的に客と接する仕事をつづける人や、妻のように自身の病と向かわざるを得なくなったものは、怯えを忘れることがない。いつも、自分をとおして他人をみる。自分のように、この人も死をおそれているだろう。自分を忘れて、こいつは何やってんだとは考えない。自分の欲せざるもので、他人をせめることができなくなる。

本にまた、目をうつす。図書館での予約貸し出しもできなくなったため、買ったまま読んでいないものを読み始めている。日本近世の仏教思想を考察したものだ。作者のまだ若い女性は、なかなか大学へと就職が決まらず、自殺してしまったときいた。東京の植木職人が以前よく造った朴石の庭をさぐっていくのに、富士塚という溶岩石の築山の技術だけでなしに、その背景となる富士信仰、江戸時代、最大数の民間信仰となったその背後にある仏教界そのものの思想の流れを把握してみたいとおもった。読み始めると、学位取得のために提出した彼女の論文の問いが、生々しいことに気づく。<日本近世において、人はどのように精神の自由を獲得し、いかにして生を超えていったか>(『近世仏教思想の独創』西村玲著 トランスビュー)――富士信仰を大衆的に再興した食行身禄は餓死にのぞんで入定した。彼女の見据えた僧侶普寂は<出定>したという。それは、どんなものなのだろう。

電話が鳴った。兄からだった。

「お、おれ」という。台所からは、麺類のゆであがる匂いがしてくる。「きょうは、雨で休みだろう?」ときいてくる。
「うん。」と返事をすると、「こっちも、ふってるよ。」どこか、どぎまぎした声がふるえている。いつもは、こちらが夕食どきの晩に電話をかけてくるのだが、天気が雨のとき、仕事休みを確認するようにかけてくることがあった。しかし、昨夜にひきつづいての、昼の電話だ。頻繁なのを気おくれしているからかわからなかったが、話しをすすめているうちに、ふるえはやわらいでくる。
「ゴールデンウィークには、かえってくるんかい? おかあさんが、心配してるんだよ。正岐も、かかってるんじゃないかって。」先週、この団地と同じ区の、ここから数キロのところにある総合病院で、集団感染が発生しているとの報道があったのだった。都知事も、クラスターがあったと認識する、と口にしていた。そんなニュースを知って、母は、すにで私たちがウィルスにかかっているのでは、とおそれたのだろう。昨晩の兄の慎吾の電話でも、そんな話しをしていた。
「もう、こないんだろう?」と慎吾はつづける。「おかあさんがさ、心配してるんだよ。だって、近くであったんだろう?」
「近いけど、まわりは、すごくのんびりしているよ。テレビでみると、大変みたいにみえるけど、かわらないよ。感染状況みて、帰るかどうか決めるよ。このままじゃ、たぶん無理だけど、裏の木を、切っておきたいんだよね。」


正岐は、砕石を厚く敷いた駐車場がわりの実家の裏庭、空き地を思い描いた。もともとそこは、大戦で退役してきたもと軍人の男が、くず屋をしていたところだった。死後、冷蔵庫などの家電製品や空き缶の山が、積まれたまま放りだされているようなかたちになった。近所と役所との協議のすえ、父が家の裏にあるそこの敷地を買い受けることにしたのだった。
「おとうさんとこには、まだいけないんでしょ?」認知症になった父は、老人ホームにはいっている。間をおいたあとで、正岐はたずねる。いつもの、形式的な問いになる。昨日も、そうきいたはずだ。

「ああまだだよ、」と慎吾は答えたが、そこからは、昨日とはちがう話になった。「だからさ、おかあさんも見舞いにいけないだろう。で最近は調子わるいみたいで、こたつで寝てばっかだよ(と慎吾には、寝起きするのが大変になった母のために、椅子に座っていてもあたれるようにしたテーブル式の炬燵の中で、横になったままテレビをみている先ほどの母の姿が思い浮かんだ。)足がいたいだろう、(いや、そんな母の姿が思い浮かんだのは、ほかのことがあったからだ、と思いあたった。)畑もいけないから、ずっとふたりでいるみたいで、緊張するんだよ。(『そうだ、俺は、いま、緊張している、どうしてだ?』)作業場にいってるときが、息抜きみたいになって……」作業場というのは、精神障害者のために役所が設けた施設のことだった。週に二度ほど、そこに通っていた。商売としての、単純な作業を請け負っていた。時給300円。障害者年金をもらってはいたが、慎吾は、そこに通い続ける数少ない一人だった。『息抜きどこじゃないぞ。むしろ、息苦しいじゃないか!』トイレへいくのに一階へおりたそのもどり、母が見ているテレビでは、東京の街並みをうつしていた。繁華街なのか、大手の企業がはいる街並みなのか、人通りが少なくなったそこは、判然としなかった。傘をさした通行人のすべては、マスクをしている。黒と白のコントラストが、ちらちらする。人並みはまばらだとはいえ、みな忙しそうだった。そのなかに、見覚えのある姿がうつったような気がした。ひとり、マスクをつけていない。傘をささず、暖かくなりはじめた春なのに、冬もののコートをはおっているようにみえる。しかしだぶついた上着の向こうからでも、それが誰であるのか、そのシルエットを、慎吾はわかったような気がした。意識にもたげてきた姿をもういちど奥にもどしていくように、階段を踏みしめた。二階の自室にもどっても、しかしその様子から受けたいやな感じは消えなかった。いたたまれなくなって、なんとかしようと、弟の正岐に電話をかけたのだった。『あいつは、生きていたんだ…あいつが…』

 島原史郎は、ぺっと、路上にツバを吐いた。『もしかりにそうだとしてもだ、(腕をあげて、ぐるっと回した。円く描かれた腕のむこう、雨雲がひるの光をさえぎって、白黒のまだら模様ににじませている。島原は、考えつづけた。)

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