2020年5月14日木曜日

新型ウィルスをめぐる(7)

日本では、検査数(事実)の不十分さが指摘されるが、事実なんか知りたくない、という、ひところから形成された日本人のメンタリティーに依拠した、日本人においては妥当な合理的な習慣(無意識)対応なのだろう。3.11の津波被害のときも、諸外国のニュース報道では、電線に吊り下がった死体映像などがそのまま放映されるのが普通で、これが真実そこから考えよ、とうながされるが、日本ではもちろん自粛される。真実を知らないで死んでいったほうが幸せだろう、という了解への傾向。ウィルス騒動の最中、内閣府が津波30メートルの予想発表したら、岩手県知事は、そんなこと県民に知らせないでくれ、と要請したというニュース。パニックを忖度したのだろうが、そのうち冷静に事実を受け止め自分で考えだすのが、人の自然的な能力。岩手県の現在コロナ感染者ゼロは、県政策というより、祖先の霊が結界をはっているからだろう。早めにパニックにしておかないと、新防潮堤を信じて逃げおくれてしまう。しかも、岩手県民だけその予想を知らないまま、なんてのは今のご時世では不可能、なのは、コロナ報道でも同じ。フェイクニュースに振り回されてパニックになるネット住民、が、それでいい、そこからみな、自分の頭で考えるようになるのだから。

以下は、〈友人のメールへの返信〉第二弾。

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「全員死んで下さい」に啓発されて、構想した「世界史の抗争」の、はじめに、でもあるんですね。(先ほど、フェイスブックの友達申請してみましたが。)ネットはなぜか、正義感から人をせめるのが主流騒ぎになるようですが、それは窮屈というか、偏狭なんだから、倫理にならないのは自明。虚構(芸術)が必要です。時枝兆希、というのは、日本版カラマーゾフ3部作での主人公で、いわば、「悪霊」のスタブローギンです。当時は、オウムがあったわけですが、知らずにそういうのも反映してたんですね。ブログで引き続きそこまで(たぶん「ゆめ」のなかで)のせるかどうかわかりませんが、NAMの評議会メールとか使って、「悪霊」コードを延長していくでしょう。
で、その時枝の「世界史の抗争」は、「もしそうだとしても」という言い回しがあるように、前回「買い物」の島原史郎(スタブローギンのシンパ)の独りごとが、「もしそうだとして」でかさなり、「クマムシ・テンノウ」は生き延びるのでは、という視点で、いわば、ポリフォニー(対話)になっていくんですね。今後の展開で、議論がでてくるという伏線です。
私としては、フィクション、小説の形式にはいっていくと、自分の意見は存在しえなくなる。そこまでいかないと、ポリフォニーになんかならない。ただたくさん主人公がでてくる第三人称小説、いわゆるリアリズムにしかならない。どれも自分だ、という強度と深度があって、はじめて、バフチンのいうポリフォニーとしての「イントネーション」、他者としての声、が獲得できるのだと思います。他人事的な客観描写や会話には、他者性はない。カセットテープではじめてきく自分の声が不気味であり、一番近しい者こそが不気味と感得、洞察までいって、やっと他者性にふれてくる、その実存の回路から、他なる天体、もが見えてくる、とまでいうと、小説でしか書きえないような話になってくるわけですが。

小池は、大阪知事が大臣から横やり受けたのをみたからか、慎重ですね。コロナが欧米並みになる、に賭けていた、ようにもみえますね。もう1ヶ月延長は、ありえないでしょう。が、世界の陰謀は、もっと騒ぎをながびかせたいようだから、また局面かえて、何かおきますかね。

女房は、検査うけ、弁膜症、と、盲腸、で、そのうち、カテーテル手術だそうです。心臓はだいぶ小さくなってきて、家事は普通にできるようになったようです。

群馬にも千葉にも、近所への忖度で、帰れなかったわけですが、自粛解除されて子供が満員電車にのって通学し、友達の家庭は共働きで父母ともに都心へ通勤も多いでしょうから、解除後のほうが、不確実性の社会に突入する。植木手入れや除草など、いま自分はかかっていないと確信てきるチャンスだったんだが、そういう判断の話は、身内のものにも、通じない。なんでお上の御達しをそのまま受けるのか、私には信じがたい。サッカー岡田メソッドは、自分で判断できる日本人を育て、社会を変えていきたい、との試み。岡ちゃんは、正当的だ、が、その理論と、コロナ自粛要請は、別じゃない、応用実践だろ、ということは、ぜんぜん理解されないので全員死んで下さい。

※追記; 岡田メソッドは、自由の前に、型、を習得させる。哲学を学ぶとは、考える型に突き当たって、自分の思考が、いかに凡庸な型通りであるか体感し、失語症(不自由)になることだ、とは、哲学してきた人には、了解されていることだと思う。ネット言説上では、まだそんな型ができあがって、自由に発言しているとおもってたが実は型どおりと知って失語症になる、みたいな教養構造は、まだできないのか? ずっとできないものなのか? 炎上にびびって自粛するようになるだけなのか?

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