2020年12月28日月曜日

植木手入れをめぐって

親方のモッコク
私のモッコク

年末の庭手入れで、久しぶりに、親方がずっとみていた植木にのぼって、整枝作業をした。親方の手入れしてきた庭木のあとを手入れするのは、難しい。抜く枝がないからだ。必要な枝だけで、シンプルに整枝されている。一年の間では、枝の発生や伸長も抑えられてあるので、なんとなく伸び、なんとなく混んでいる枝を抜き、詰め、透いて木漏れ日よりは少し光の多い加減で、均等に整枝していくのがむずかしい。今回の木はヤマモモだったが、モチやモッコク、マツといった手の込む庭木は、そうなる。ツバキも、そうなるな。団塊世代の職人さんが切った植木は、次の年にも無駄な枝がたくさん生えてくるので、抜くのはたやすい。というか、どう木を仕立てていきたいのか、その意図がみえない、というか、ない、のだろう。あったとしても、手元に次に使える枝を残しておく、といったマニュアル的な反応だけで、しかも、その残した枝の、先と手元の枝との奥行き感や、芽の左右への方向的なバランスなど、伸びてきたら使えないだろうな、と私などがおもうものがおおい。だから、毎年ばさばさと切り返しの剪定になる。木が、単純問題になって、解答が、簡単すぎる。おそらく、直観的にやっているのだろう。一方、親方のは、論理的だ。翌年その木に登って、その論理をみつけ追いながら、思考訓練してきて、いまはほとんど初めから自分で切り始める腕前になってもう20年以上になるわけだが、久しぶりに、親方の跡をうまく切り抜けられるか、と緊張した。結果は、まだ駄目、だ。すんなりいかない。抜く枝が見つけられないケースが多いので、不用意に手数が多くなって、細部がゴテゴテしてくる感じになる。どれを抜けば、すぱっと解答が得られるのか、親方のようなシンプルな複雑性が縮約されるのか、うまく解答をみつけられないままだった。

来年の私が手入れした木は、ちょっと混み過ぎているだろう。木の伸長は、抑制、制御されてはいるだろうから、根が水を吸い上げる収入と、葉が蒸散していく収支のバランスはとれているだろうが、形として、すっきりしていかないだろう。

翌日には、私がここ数年やってきたモッコクを(もちろんその前は、親方がやっていたわけだが)、親方がやることになった。私はその翌日、マンションのエントランスをはさんで植えてあるもう一本のモッコクを例年どおりやったのだが、それも、なかなか、親方のようにはならない。せめて親方が切り捨てたゴミを見てヒントをもらっておくんだった、など初心者みたく後悔し、『なんでだ、ちきしょう…』とおもいながらやっていると、三角脚立の下で、こちらの手入れの様子をみている男性に気づく。私のカンで、建築の設計者だな、とおもえる。目が合うと、自然樹形とは、みたいな話になって、自宅に「クマシデ」を植えた、と話してくる。放っておけば、そうなるかと切ってないのですが、と言う。「井の頭公園ですね?」と私が質問する。相手はびっくりして「ええ動物園のほう…なんでわかるんですか? やっぱり、あちらの植木屋さんですか?」と聞いてくる。「いやすぐそこの、近所ですよ」と返事しながら、この設計者が、どんなイメージをもっているのかが頭に浮かぶ。まだ四十前後と若いから、子どもの庭も考えたのだろう。遊び空き地のなかに下枝が邪魔にならない樹木、そして黒いクマのような幹肌に垂直に近いストライプの模様が地と空に走る庭(井の頭動物園の森のイメージだ)……「日本の狭い庭では、落葉の高木は、むずかしいいんじゃないですかね。」

でかくなる木を、どうやって抑制していくか、その制御が、日本の植木屋の技術的な要諦になる。盆栽を、実地でできるのかどうか。ミクロな現象を、マクロで生かせるのか、となると、量子論になってしまうが、実際、なんで木のてっぺんにまで、根から吸い上げた水が上昇していくのか、は謎だ。本によれば、葉の蒸散作用、木の呼吸、とか説明があったりするが、ならば、なんでまだ枝葉が生えていない、冬から春先の樹木を切ってみると、幹からどばっとあふれるような水が漏れてくるのか、説明がつかない。まだ、光合成ははじめられていないぞ(呼吸はしているだろうし、人間の呼吸にも、量子現象があるかもしれないという説もでてきているが、それは置いておこう)。だから、まだ謎のままだ、とあった本の一説のほうが正しいのだろうと、私は判断している。が、電子(根から吸い取った水の、あるいはカリウムとかいった放射性物質に近い栄養分の陽子や中性子だとか…)といった、量子が関与しているだろうな、と想像している。量子もつれの、バトン・リレー、波動レベルの粒子が、収束を連鎖させて、いわばテレポートの数珠つなぎで、上に運んでいるのではないか、と予測している。その冬から春へのスイッチの入力も、量子現象が関与しているのではないか。量子時計だ。

となれば、植木屋さんのローカルな身体技術も、原子力と同じで、どう、その人智を超えた量子の振る舞いを制御していくのか、といったフォースの技なのかもしれない。原子力は窯底からの挿入棒操作で、コンピューターは半導体で、量子制御しているとしたら、植木屋さんは、剪定バサミや、素手そのもので、だ。私は普段、腰痛予防に杖をついて歩いているが、いざとなれば、スター・ウォーズのマスター・ヨーダよろしく、杖がなくても平気なのだ。

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