2021年6月27日日曜日

ワクチン接種


近親者でも、ワクチン接種がはじまった。

母は、一回目では腕が痛い程度だったそうだが、二回目では、体調わるくなって、寝込み状態になったそうだ。老人ホームにいる認知症の父も、入居上の義務として打たれることになって、寝込み状態になっているそうだ。その父を受け入れている施設に務めている弟も、二回接種をおえて、半身がおかしい感じがすると、言っているそうだ。

そう電話での話で報告する兄は、私がこのブログでいろいろ言っている影響があって、なお受けてはいない。その兄の報告だから、実際はどんな感じなのか、わからない。が、どれも、想定的な副作用の内にはいる症状だろう。

女房の実家の方は、ゴールデンウィーク中にあった甥っ子の結婚式での話からすると、みな接種したのではないかとおもわれる。統計的には、貯蓄ある上流階級にいくほど接種希望者が増え、貧乏人になっていくほど、打ちたがらない人が増える傾向がある、と記事になっていた。だから、貯えなく、失うものがない若い人ほど、接種にこだわらないのだろう、とのコメントもあった。女房の実家の方は、失うものがたくさんあるような上流階級の部類にはいるだろうし、RNA研究は40年もの時間をかけた蓄積があるから安全なんだ、との知的確信にも裏付けられているようだ。

では我が家は? いくつもの持病をもつ女房は、打たなくてはいけないとかいいながら、なかなか打たない。私の話が疑心暗鬼を引き起こさせることもあるのだろうが、やはり、去年は手術つづきで、人工的な関与が、怖くなっている気がする。だから、家系的には打たなきゃとせかされながら、接種を拒否できるなにか明確な理由を欲しがっているようにも見えた。そこで、以前、有機野菜などを購入している生活クラブはどういう方針意見を打ち出しているんだ、と聞いたことがあって、それに何もだしていない、と女房は答えていたのだが、そんなことはないだろう、と、最近、スマホで検索してみた。すると、やはり、ワクチン接種には慎重だった。

生活クラブのような思想的団体からすれば、ワクチンが安全であろうがなかろうが、人為的なものを無暗に接種することは避けるようになるのは当然になるのだろう。ただ今回のコロナ状況の場合、全体の命がいま危ない、という話になっているので、拒否の方針をだす、というところまでいくわけにはいかないのだろう。

また、陰暴論とされるワクチン拒否の論拠については、河野大臣が、ひとつひとつ、反論をだしていた。反論になりえているのか疑問がつくのもあるが、具体的にとりあげてくれているだけでも、対話の構えを感じて、与党の政治家としてはマシなんではないか。

で、日本人全体の接種状況となると、やはり、半々くらいな推移になりそうな。やはり、というのは、以前のブログで、日本人は文化的には、自然のままに、現状を変えていく人為性にはくみしにくい傾向があるから敢えて接種はしない人も多くなるだろうと、いいもしたからである。ワクチン予約もすぐにも空きがでるようになったようで、ゆえに対象年齢をさげ、しかも、職域接種とかの方策がとられる。こうなってくると、打つことのほうが空気に、(日本的な)自然になってくるので、ずるずるべったりで、9割ぐらいの接種率になったりして。オリンピックもやるようだし(しかし、これも、決断かどうかはあやしいので、外圧ひとつでひっくりかえるかもしれない)、一億総玉砕的な事態にもなりかねないのが、日本的自然(じねん)ということだろう。

アメリカなどでは、保守派が打たない傾向らしいが、それは思想的・主体的な決断だろうから、なんといわれても打たないのだろう。トランプ自身はいち早く打っていたわけだが、彼を支持したプロテスタント系の原理主義的団体たるアーミッシュなども、打つわけがないのではないか。調べていないので、推察にすぎないが。

ちなみに、こうした日本の状況を、ひと昔前は、天皇制といって、批判していく言説があったわけだ。しかし、いまはこの言葉を使わなくなった。宮台真司氏や東浩紀氏など、どうみても、これまで天皇制という用語で言われてきたことを状況認識しているわけだが、なぜか、使わない。そのかわりに、國分功一郎氏が提起してきた「中動態」という言葉を使っているようだ。『ゲンロン11』では、東氏は、はっきりと、「ずるずる感」という言葉で「中動態」を比喩している。「ずるずるべったり」とは、たしか、中野重治の日本批判の用語で、それを、柄谷行人氏が、とりあげて流布させてきたものだと、理解している。が、その相変わらずということが今回のコロナ、オリンピック騒動で露わになってしまっても、「天皇制」とは、いわない。

が、東氏の「原発事故と中動態の記憶」を読み、宮台氏のYoutubeでの発言などを加味すると、おそらく、次の二つの認識からのようだ。

① 「中動態」的な無責任状態が、日本だけでなく、主体的なとされた欧米もふくめ、世界史的な規模になっていること。ゆえに、天皇制という用語は、その特殊な文脈によって、問題とすべきところを隠蔽するに加担してしまう。

② 「天皇制」という用語を使うことによって、せっかく下火になった左翼の騒音みたいなものの封印を解いて、復活させてしまうリスクがある、と状況読みしているらしいこと。

私は、どちらの認識も、理解できるが、実践的には、「天皇」という用語を自粛してしまうことがいいことなのか、なお疑問におもう。私にあっては、もっと検討をようする。(「中動態」と「天皇制」とは、現象様態としては似てきても、まずは別である、という認識区別は必要になってくるとおもう。)

その怨霊封印された左翼の最後の一抹の流行りであったかもしれない柄谷氏の運動組織について、会員だった吉永剛志氏が、『NAM総括 運動の未来のために』(航思社)を上梓している。それまで左翼活動とは無縁であった私には、まず「総括」という言葉に面食らってしまうのだが、最近読み終えて、「総括」という用語にはらまれることになった「生々し」さはなく、むしろ、目配りのきいた「概括」になっていることに共感すると同時に、物足りなさを感じる。もう少しは、生々しかったような。

しかしこの書籍への論評は、東氏の『ゲンロン11』でも、赤軍を素材にした漫画とかの特集もあったので、それらとからめて、次回に書き込めれば、とおもう。

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