2022年4月26日火曜日

戦争続報(4)


戦争状況に突入するとは、レヴィナス風にいえば、非人称の世界に入るということであり、フロイト風な精神分析の用語でいえば、無意識とか、それ=itの世界に呑み込まれた状態、ということになるのだろう。そこでは、ゆえに主体的な判断が不可能になる。

ウクライナはマリウポリのアゾフスタリ製鉄所の地下シェルターに閉じこめられた状況に関し、スマホ・ニュースのコメントでも、様々な意見、判断(選択肢)が提出されている。私には、どれもがもっともな意見におもえる。そしてそのどの意見もが、半々の賛同と否定に取り囲まれているようにみえる。部外者が当事者に近づいていく勝手な言葉さえもが、すでにそれに、itな非人称な世界に呑み込まれてしまいそうな感じだ。しかしまだ、実質併呑されているわけではないだろうから、余裕あるうちに、なんでもいいから言語化、意識下しておいたほうがいいのだろう。それが、無意識の深淵に落ちないであがく、一つの方法ではあろうから。

私は、巨人に襲われている最中に、リヴァイがエレンにいったアドヴァイスをおもう。

<俺にはわからない。ずっとそうだ…自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…結果は誰にもわからなかった…だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ。>(BCCKS / ブックス - 『人を喰う話 2 『進撃の巨人』論』菅原 正樹著

ここにあるリヴァイの認識とは、もうどう判断し実行しようと、必ず後悔を迫る結果にはまる、ということだ。必死に抵抗して鉄砲を撃って生き延びた兵士も、良心に従って空砲に徹した兵士も、その状況を脱したとき、罪悪感に襲われる。いや兵士だけではない。巨人の襲撃で子供たちを食われ、一人生き延びた村人の自殺を、超大型巨人を体現していたベルトルトは、「あのおじさんは…誰かに――裁いてほしかったんじゃないかな」、と理解する。

アウシュビッツで生き残ったユダヤ人も、恥と悔いに襲われたのだ。三島由紀夫も。

そこでは、敵と味方の区別もなくなる。捕虜になった山本七平は、自分たちに一番やさしくしてくれたのは、前線で一緒に戦った敵の兵士たちだった、と述懐する。

それを、itを、子供たちは、知っている。

このロシアの侵略戦争に、ウクライナの子供たちに復讐心が焼き付いて、悪の連鎖がおこるのではないか、との意見もでた。が、そうでない。チェチェンでの戦争を生き延びた子供たちが、復讐を語らず、山で悲しんでてもらえればそれでいい、と答えているのだ(ダンス&パンセ: 「春になったら」 (danpance.blogspot.com))。

私も、息子の子育て中、そんな認識をもった。まだ、幼稚園の頃だったろう。なかなか言うことをきかない幼児の胸倉をつかんで、この野郎、となっていたおり、こいつはわかっている、もうみえてるんだ、という洞察が突然やってきた。それ以来、私は放任主義的になった。切れるときがあっても、すぐに、思い返されて、自制されてきた。それは、息子に特異なことということではなくて、子供一般に、さらには人間とはそういう能力をもつものなのだ、という信頼としてやってきたのだ。

誰もが、子供のころのそんな能力を、忘れてしまい、扱えなくなっているかもしれない。が、それはある。たぶん、それは、無意識とは、一様な広がりではなくて、量子的なもつれとして、他人と重なっている、つながっている。私は、他の者たちの身代わりなのだ、とレヴィナスは言う。私の身代わりとして、いま、戦争で亡くなっていく人が、子供たちがいる。が、私たちはなお、それを、itを、コントロールする術をしらない。おおざっぱな構造把握しているだけだ。性欲が消えないように、戦争も消えない。修練した聖人だけがそれを自らのうちにうまく慎ませることができるだけなように、それを人為的に防げるという認識自体が状況を拡大させる。それとの交渉を、力づくでやることはできない。

私たちは、子供のころ、どうしてたっけかなあ? 子供が子供だったころ…

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