理論的な考察を、具体的な実践での方向へと思考実験してくれる、これまでのインテリではきわめて稀な作業提示に思う。これまでは、具体性を敢えて見えないように捨象した抽象論か、逆に抽象論からの道筋からは飛躍的におもえる社会事象論を説いていくような日本知識人の態度が大半だったとおもう。
が、大澤氏は、一般の知的大衆にもわかりやすいように、理論考察と実践知との結びつき、いわば手品の種明かしをみせながらのように論を作っていく、のは、おそらくその態度自体に、これまでの知識人への批判的実践が潜まれているのだろう。
大澤氏の論理手順は、どのテーマ(現歴史的事象)にあっても、(1)現状認識とその分析、(2)そこから導き出すリアリズム的実行解、(3)それを乗り越えていくべき「ほんとうの意味」=方向の在り方の提示、というものであるようにみえる。
私は、(1)の段階には、同調とともに、だいぶ啓発された。ただし、プーチンのロシア現状においては、私の文学的な想像力においての認識とは異にする所がある。(3)についても、共感する。が、(3)へと成りゆかせるための(2)の現実実行解において、大澤氏とは違う見解をもち、また論理的に矛盾を抱え込んでいる箇所があるのではないかと、指摘する。
* 実行・実践といっても、様々というか、いくつかの位相があるだろう。一番身近な実践は、まさに自身の具体的な現場での話になるから、試行錯誤でもあるし、言ってはいけない次元のものもでてくる。だからそこは私は言わないが、ここでは、あくまで、国民大衆がどうするか、という、大枠仮想での実行・実践解、という話の位相である。
まず(1)。私が一番はっとさせられたのは、次の記述。
だが、ロシアのウクライナへの侵攻に関しては、現実主義と理念主義との関係が、逆転している。戦争へと駆り立てている真の動機は、述べてきたように「文明」に関連した理念主義的なものである。しかし、それを覆い隠すように、NATO云々といったような現実主義的な目的が公言されているのだ。>(「1章 ロシアのウクライナ侵攻」)
しかし、この「逆転」を正確に認識するがゆえに、大澤氏の現状説明は、陰謀説に近接する。世のいわゆる陰暴論も、資本主義(資源獲得だのの)がどうのという現実が問題(犯人)なのではなくて、資本家(金持ち階級)が仕掛けてくる「文明」支配の悪だくみが本当の問題(犯人)なのだとしているからである。そしてその支配のやり方は、社会主義的な中国並みのテクノロジーを使った管理統制だ、とする。となると、そこも、アメリカ資本主義自体が、中国の権威主義的資本主義に成っていくのだと認識する、「2章 中国と権威主義的資本主義」もまた、陰謀説に近づいていることになる。違うのは、資本家を、システム構造からくる仮像とみるか、実体(人格)としてみるかという、マルクスが指摘していたような一般的な錯誤を把握しているかどうかの違いでしかなくなる。
ジジェクは、コロナ禍での論考において、もし陰謀説が本当なら、それは資本家が資本主義の問題点をマルクス主義から学んだからだ、というような記述をしていた。私は唖然とした。資本主義がやばいのでは、と認識するのに、あるいは単に感ずるのに、マルクスなど読まなくても、誰でも、わかるだろう、感じざるを得ないだろう、ずいぶんと頭でっかちなインテリなんだな、とおもった。この点も、大澤氏は、正確にと私には思われる認識を示してくれる。
<基底部にある不安は、資本主義そのものが持続可能なのか、ということへの懐疑である。今日、多くの人々が、資本主義が永続できる、ということに関して確信を持てずにいる。富裕層にしても同じである。資本主義は死につつあるのではないか、という不安が広く分け持たれているのだ。
このような不安が浸透し、蔓延しているということを示す証拠はたくさんある。あまりにもあからさまな証拠は、国連が掲げているSDGs(持続可能な開発目標)である。なぜ、わざわざ「持続可能」ということが目標とされなくてはならないのか。誰もが、普通にこのままシステムを運営していけば、持続できないこと、破局に至ることを知っているからだ。>(「2章 中国と権威主義的資本主義」)
ともかく、問題は、資本主義のメカニズムからくる。<プーチンの究極の「敗因」は、戦いを、階級闘争として実行できなかったことに、つまりきわめて暴力的な文明の衝突としてしか実行できなかったことにある。>――私は、ここに、もっと深刻な認識、というか、文学的な想像力を介在させる。
比喩的にいえば、プーチンが、三島由紀夫みたいに、追い込まれていた(?)らどうなるのか? 三島は、切腹した。つまり、自らの命を無理やり日本人に贈与してみせることで、柄谷風に言えば、交換Cとは違う交換Aの存在を喚起させることで、その彼の死後生きる我々に、本当のことを考えろ、真剣に考えてみろ、とたじろがせるような負債感情というか、いったい何故腹なんか切ったんだという謎かけ、敗戦後に成長しはじめた思考を停止させてしまうような衝撃を与えた。
これと同じ覚悟を、プーチンが持っていたらどうなるのか? どちらも、若い頃のひ弱な体を無理やりマッチョに鍛えたりして、似ているし。
つまり、プーチンが、無意識化において、次のような思考に追い立てられているとしたらどうなのか? 人類よ、本当に、真剣に考えてくれ、地球環境以前に、人間の尊厳とは何なのか? 西洋が作った文明が本当に善であったのか、立ち止まって反省してくれ。もう一分待つ。もう待てん。あなたがたに、真剣に考えてもらうために、私はわがウクライナとモスクワを西洋文明の核によって自爆する。ロシアは、命をささげる! 人類は、わがロシアの命を無駄にするか? 考えてくれ! ほんとうに、考えてくれ!
だとしたら、呑気なことを言ってられない。手順としては、まずゼレンスキーをふざけんな!と叱咤して停戦させて、その上で、みなでプーチンのところへ押しかけて、俺たちがおまえのところになんで来ているのかわかってるよな、と吊るしあげながら、トッドの政治的リアリズム風の認識甘言も加味してなだめもし、とにかく現状停戦させて、時間をかけて実行解をまとめていく、というものだ。
大澤氏は、まずウクライナへの全面支援を説く。その上で、「ほんとうの意味」での解決のためには、「ロシア人が、まさにそのヨーロッパの最良の部分を代表する理念を、ヨーロッパ人以上に忠実に実行して」いくことが大事になる、と。
今までの現状では、即座に停戦とはなりようがないだろう。タイミングがなければ、それを作らなければ、話し合いははじまらない。ウクライナがヘルソン州の東岸部の一部をもとりかえし、ロシアが劣勢になって小康状態になった時点で、現状容認から示談、という線を示さなければ、戦争は長引くだけだろうし、もしロシアをウクライナ外へ全面追い出してからなら、むしろ話し合いの契機などなくなり、それこそ、核戦争に行くのではないか、と私は懸念する。
大澤氏は、以上のような論理段階を経るわけだが、中国・台湾をめぐる情勢をめぐっても、思考の内実は同様だろう。日本は、アメリカが所持する理念の側に立たなくてはならないし、ゆえに、将来ほぼ確実な中国の台湾進攻に対しては、ウクライナへと同様、軍事支援をしなくてはならない、その上で、「ほんとうの意味」での解決のために、アメリカに追随するに終わるだけでなく、資本主義そのものを超克していくことを目指さなくてはならない、と。
が、このアジアの件に関し、大澤氏が問うていないことがある。それは、台湾市民の意見である。ウクライナの人々は、選挙世論等で、はっきりと西側の方がいい、と態度表明した、ということが認識され、前提とされうるからその実行解でいいかもしれない。が、台湾の人々は、ゼレンスキー・ウクライナのように、領土防衛のために武器を持って戦うことを是としているのかどうか、大澤氏は問題としていない。台湾の人々の多くが、戦争するくらいだったら、中国に従属してもかまわない、と思っていたら、大澤氏の(2)現実実行解は、前提認識から崩れるのではないか?
最近の、台湾における、全国知事選挙なのか、の結果は、西側よりの現政権側より、中国よりの野党側が勝利した、という話になっていると思う。私としても、一般的にいって、アジア人は、あんまり領土のために、だか、国土のために、だか、わざわざ戦うことを好まないのではないか? 西側とは、主体、ひろくは主権の内面的あり方が、やはり違うのではないだろうか? たとえアジアの人々も、自由や平等といった理念に共感しそれを望むとしても、それを手に入れるための手続き、つまり(2)の現実実行解は、変わってくるのではないだろうか?
それを間近に、自身のこととして考えてみる思考実験として、「5章 日本国憲法の特質――私たちが憲法を変えられない理由」があるだろう。
私は、(1)の現状認識の仮定として、台湾の人々は、戦争を望んでいない、と認識してみる。すれば、(2)の現実実行解として、自衛隊は、中国の台湾侵攻があった場合でも、軍隊として関与しない。軍事的には、台湾を見捨てる、となる。そして(3)の「ほんとうの意味」方向として、世界大戦を実行しようとする中国はじめアメリカとうの世界に対し、不戦の戦いを宣言する。つまり、日本は、世界から孤立しても、もう一度、世界と戦う!
大澤氏は、<律儀に九条の理念を実行に移すこと>と言うが、それでは、ウクライナと台湾に軍事支援する、というリアリズム実行解と、まっこうから矛盾してしまうのではないだろうか? その本当の意味へと到達するために軍事実行する、との具体段階に、律儀に実行、という「本当」を繋げることができるのか?
私は、こう問うてみる。
現代までを生きている、日本人の、誇りとは何か?
一つ、負けを覚悟でも、強い相手と戦い、世界大戦を挑んだこと。
二つ、もう、戦争はしない、と誓ったこと。たとえ、押し付け9条だろうが、解釈かえてそれを骨抜きにしようが、その形を守り抜いてきたこと。
この、戦うことと戦わないことは矛盾しているが、もう一度世界大戦を不戦の覚悟で挑む、とするならば、矛盾でもなんでもない。私たちの、日本人の誇りに合致することである。
大澤氏は、真の愛国者が、普遍主義者、コスモポリタンになるのだ、そうでなければ、説得力をもたない、と説く。が、大澤氏はともかく、誰かに刺された宮台真司氏は、そうした愛国者だったろうか? 少なくとも、外的な言動はそうは思えない。かつて、浅田彰氏が日本人を「土民」と呼んだように、「愚民」と言ってはばからない。だから、右からも左からもうらまれているだろう。大澤氏が言うように、<しかし、どうして暴力が噴出したのか。人は一般に、言葉では説明できないことを求めているとき、暴力に訴える。言葉で表現されているすべてのことに違和感があるとき、人は、暴力によってその違和感を表現するしかない。「それじゃないんだ」と思いつつ、それではないものが何であるかを言語化できないとき、暴力でその不定の欲望を表出することになるのだ。>(「4章 アメリカの変質」)
宮台氏を刺した何者かが、映画『ジョーカー』に触発されるような、渋谷をたむろする若者のような大衆たちではないだろう。まず彼の話をきき、理解していなければならないのだから、知的大衆だ。しかし、そこも、言語化できない違和感が暴力として噴出せざるをえない自然過程に呑み込まれているのかもしれない。宮台氏が、ネット番組の「ニコ生深読み」で、ワールドカップ・サッカー日本対ドイツ戦の直前、この著作をめぐって大澤氏らと会談し、その後、刺傷したというのは皮肉なことだ。それは、宮台氏に、なお言語化が不十分だったこと、どこかずれているところがあったことを通知しているからだ。
※ 私は、サッカー・ワールドカップのベスト4をかけて、日本と韓国が対戦したらどうなるのだろう? と考えていた。日本人として、どうこの複雑になる心境を整理し、両国のよりよい関係を築いていく論理を導いていったらいいのだろう、と考えていた。実際に試合観戦しながらの、臨場感、情動の最中で、論理の説得性を吟味できたら、と。
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