2023年1月23日月曜日

葬儀

 


 父の葬儀には、父と母の身内にあたる親戚へと連絡をしただけだから、数人が集まるだけだろう。それぞれ五人は越える兄弟姉妹のなかで育ったといっても、すでに他界している兄や姉がいるし、生きている者も高齢だから、そう来られるものでもない。自らが勤める施設で父が亡くなったときも、ほぼ事務的に処理されてゆこうとする地元の新聞への告知を、直希は断ったのだ。告知されれば、教師をしていた父の教え子たちが知ってかけつけてくるかもしれず、自ら監督となって息子たち三人とともにやり始めた少年野球チームの同級生たちが顔をみせに来るかもしれなかった。しかしその場に、二人の兄がいないことになるのだ。母は、仙台の実家を守っていた弟の死去後の処置をめぐり、一番下の弟が無理なことを言い出したと不平をもらしていた。父から大学に進むのにも一番世話になった末の弟が一番つれなくて葬儀にも来ないだろうと呟いていた。が、自らの息子たちが、父の葬儀の場にいないのだ。末っ子の直希だけが、葬儀を行う部屋の前の椅子に座ってうつむく母の傍らに立っていた。

父が食を口にしなくなったのであと一週間もしないで看取りになりそうだと、介護施設の担当の者から連絡が入ったのは十二月も半ばを過ぎた頃だった。別棟で仕事をしていた直希は、日勤の職務を終えるとすぐ裏にある入居施設へと向かった。まだ日暮れて間もないが、西側からは覆いかぶさるように山が迫っていたので、裏山へと向かうアスファルトの道は一気に暗くなっていた。振り返れば関東平野が一望できる開けた東の空になお青い残光がとどまっているはずだが、暗さに瞳をならすように、一歩一歩の足元を目に焼き付けるようにして坂をのぼった。街灯のところまでくると、足元から現れてきた黒い影がいきなり立ち上がって前方の道へとのびた。その行く手を仰ぎ見るように顔をあげて、父のいる部屋の灯りを確認した。

当番のインドネシアの青年から夕食のプレートを受け取ると、直希は父の横たわる部屋へと入っていった。もう一名が横になっているベッドとはカーテンで仕切られている。流動食をいれた三つのお椀をのせたプレートを壁際にあるテーブルにのせてから、父の足元の方へもどって、自動でリクライイングさせるベッドのスイッチを手に取り高さを調整させた。もう、自力で目を開けられなくなって久しい。苦しい様子はないが、一定の苦痛に固まってしまったように、片膝を少しあげたまま、動かなかった。耳も、どこまで聞こえているのか、わからない。昨年の末も、もう年を越せないのではと言われていたのだった。そうして、一年がたった。

直希は消毒液で手指を洗うと、ベッド脇の机に整理されたカテーテルを袋から取り出し、痰吸引機のチューブにつなげて、スイッチをいれた。カテーテルの先を握り、いちどアルコール綿で拭ってから、すでに口を開いたままの父の顔元へその管を運んだ。まだ夜更けているわけでもないのに、静かで、蛍光灯の光がなおさら薄暗さを滲ませてくるようだった。口から喉奥へとすっと吸引の管を差し込む。管の先を折って押さえていた親指の力を緩めると、痰が切られ吸い上げられてくる音が沈黙を破裂させるように響いた。その音に感応するように、勝手に手が動いた。もう施設に泊まる老人を看るようになってからどれくらいたつだろう。何人の老人たちの世話をしてきたろう。管を握る指先の振動と音で喉の粘膜を傷つけない手加減が意識するでもなく調整された。作業をしている間、腕が、携帯用の機械と一対となったロボットのような気がしてくる。ああ~、と、父が声をあげた。管を口から取り出し、またアルコール綿でカテーテルを拭きながら、父の様子をうかがった。もう一度、管の先を入れてみる。濁った音が、数珠のようにつながってくる。まだ外国から来た研修生の身では技術が不十分なのか、だいぶ喉奥に痰が残っているようだった。いや日本の熟練した介護士でも、どこまで親身に接することができるだろうか。それは、手を抜くということではなかった。自分の腕の匙加減ひとつで、施設に入居してきた老人たちの寿命が調整されていくことがわかってくる。直希が、父を自宅の近くの施設から、空きの出た自分の山際の施設へと移動させたのも、その施設の暗黙の方針に気付いたからだった。見舞いに訪れる家族からも、言葉にはだせない意向は伝わってくる。ひとりひとりと向き合う現場の者として、自分たちはただ勤務をこなすだけだった。熟練すればするほど、頭の想念とは別に腕が、指先が、感覚が研ぎ澄まされた機械になっていく。が、その機械が、疲労や日常の忙しさからか、突如、魔が差したように鈍ることがある。ちょっとした誤作動はすぐに忘れられても、数日後には、誤嚥性の肺炎となった死として、現実はやってきた。日々、自覚されるようになっていった。その堆積は、自分が人を殺してしまったのではないかという反省を、確信犯に変えてゆく。その認めたくない悶えにあらがうように、ニヒルな無関心と、虚しい陽気さが起伏し、耐えていけない者たちは、次から次へと職を辞していった。

その日父は、よく夕食を飲み込めた。食べている途中でまた痰がからむので、吸引のカテーテルをおこないながら食事をさせた。たぶん、以前の施設で末期を予期され、昨年宣告された最期をも逃れて今にいたっているのは、自分が勤務後に立ち寄って痰の吸引を続け、父の消化のペースにあわせてスプーンを口に運んできたからなのだろう。あとから入居してきた、まだまだ元気な老人たちが、ほどなくして亡くなっていったのだった。父は、まだ肌艶もよく、痰がからめば大きな声をだせた。今年も、年を越せるかもしれない。週一の夜勤明けの休日に、看取りとして母を特別に面会させてやることができるだろう。第八波と呼ばれる新型のコロナ流感は、少しおさまってきていた。自分が父の担当者になることは施設の規則でできなかったが、状況をみての特別な計らいを処置してもらうことはできた。

 しかし母と実家で暮らす長男の慎吾は、東京の知り合いに呼ばれたと家を出たきり、戻っていなかった。次男の正岐は、もう若い頃から、ほとんど連絡がつかないままだった。地元の進学校を卒業して学生として上京したその先で、兄たちに何がおこったのか、三男の直希にはわからなかった。

 母は、うつむいたままだった。真ん中より少し下の毛がごそっと抜けたところがあって、そこを脇の毛で被せて、茶色い大きなヘアクリップでとめていた。父がまだ施設で息をしている間は杖もつかずに歩けていたが、本当に亡くなってみると、もう自力では立っていられなくなったように、下駄箱に立てかけてあったハイキング用のスティックを引き寄せて、すがるようになった。父と母は、同じ一月の二日が誕生日だった。米寿を迎えたその十日後の夜半、父は直希が見守るなか、息を引き取った。その静かに仕舞われた息を引き継ぐように、母が、小さな力ない息となっていった。口数も少なくなった。忌引き休暇をもらったここ数日、直希は実家に寝泊まりしながら、葬儀への手続きをおこなっていった。例年になく死者が多くなっているため、居住区の葬儀場にあきがなかった。火葬場の費用を支援から自己負担に変えて、直希の勤める施設に近い県下でも随一大きな斎場へと父の遺体を移した。忌引きの休日の最後尾まで日取りはずれたが、そうすれば、兄たちが式に間にあって駆け付けられるのではないか、という期待も持った。が母に声をかけてきた身内は、父の一つ下の弟と、母の一つ下の弟、そして父の本家を守っていた長男の息子夫婦だけだった。

 葬儀の時間が近づき、直希は母を立たせて、父が眠る部屋へと歩かせた。いつよろめいて倒れるかもしれない背中に手を添えながら、白い棺桶の手前に並べられたスチールの腰掛へ座らせる。黄色と白の菊の花で波のように飾られた祭壇には、青い空を模している背景の遺影が、こちらを覗いていた。施設にいるときに撮った写真を拡大して、母の意向で、背広を着たように合成させたものだった。父にも、浴衣ではなく、直希が母の言われたとおり、背広を着せた。膝を上げたままの父にスラックスを穿かせるのは容易ではなかったが、葬儀屋の係の者と二人で、注意深くおこなった。棺桶も、膝の骨を折って押し込むわけにはいかないので、平のではなく、高さのある少し値が張るものを使うことになった。

 通夜をむかえ、棺に身を横たえた父の前で、直希と母は、住職の経を聞いた。遺骨を納める寺は曹洞宗だったが、永代供養として、無宗派の形で埋葬することに母はこだわった。父には、遺書があった。そこには、そう希望することが毛筆で書かれていたのだ。しかしその家族に当てられた置手紙は、まだ父が六十を少し過ぎた歳に書かれたものだった。介護施設へ入居したあと、部屋の整理をしていたら、神棚の奥から出てきたものだった。当時のことを、直希はよく思い出すことができなかった。長男の慎吾は、帰省してそのまま精神科へと入院したが、その措置がすみ、退院しては自室に引きこもっていたのではなかったろうか。次男の正岐からは、東京の新宿のほうで植木職場に身を寄せたと連絡があったころだろうか。直希には、母を助けろ、と息子たちに当てたその遺書は驚きだった。自身の自殺を思いつめていたとしか考えられない内容だった。末っ子の自分には、父の深刻さや真剣さはすぐ腑に落ちてくるわけではなかった。が考えてみれば、教育者としての父の息子たちが世間に顔見世できるような成長をしていないことは、心残りであっただろう。仕事の件もあった。勤めていた私立大学の事務長をしていた父は、学部増設のための先頭にたっていた。国からの認可がおりないまま、新学部の建物はできあがっていた。同僚には、追い詰められて自殺してゆくものがいた。まだ中学生だった直希には、よくわからないことだった。なんとか計画は進んだが、理事長の席には予定の父ではなく、天下りの役人がやってきたということだ。父は退職し、再雇用として、裏方にまわった。そうして、何年かたったころなのだろう。

棺の前に腰かけたお坊さんの読経がはじまった。母は、うつむいたままだ。葬儀やその後の処置をめぐる母との話し合いは、父の最期の話が幾度となくあったので、だいぶ以前にすましておくことができた。だから実際の処理を進めるのは、手際よく事務的におこなえた。突如だったら、やはり母に話を聞けるような状態にはならなかったろう。そう、当然のように直希は思えてきたが、子が親をおもんぱかる気持ちと、妻が夫をおもいやる気持ちとでは、だいぶ違うはずである。それは、まずは男と女との関係であったはずである。直希には、中学生の頃からの幼馴染の恋人がいたことがあったが、独り身を選んできた自分には、長い年月をともにした男女の連れ添う気持ちが、想像できてくることとも思えなかった。父の手紙には、自分の想いを募ったものだけでなく、父の祖父にあたるのだろう、昭和のはじめに亡くなった男の家訓の写しが別封筒のなかに入っていた。子供たち八人に当てたもので、名誉のために職に就くな、投機は破産のもとであり一時で稼ごうとするな、近所隣は我が事と思って助け合え、と十か条のような箇条書きで要約されていた。最後には、辞世の歌が添えられていた。株分けし培いおきし白牡丹去年にまさりて咲くぞ嬉しき……もう一通あった。怒りは敵と思え勝事ばかり知て負くる事を知らざれば害その身にいたるおのれを責めて人を責むるな及ばざるは過ぎたるよりまされり……それは、東照公御遺訓として一般にも読めるものの抜き書きであるらしかった。

父は、母を助けろと言葉を遺し、痴呆になっていった。その痴呆の期間は、長く続いた。もう直希が三男の息子であることがわからなくなっても、なお母のことはわかっているようだった。認知症の進行を少しでもやわらげようと、父と母は区民館でおこなう詩吟や書道に通った。放浪癖がではじめて帰宅できなくなったことを契機に、まずはグループホームへと父がはいった。家に残った母は、父の最後の墨絵となったものを書斎の本棚に貼り付けて飾った。展覧会でも特別に展示され、指導した先生からも、これは相当に筆遣いになれた人でないと描けない絵だと評価されたものだった。確かに父は、次男の正岐が小学生の頃、一緒に書道をはじめてから、ひとりずっと続けていた。年賀状も、毛筆だったはずだ。その展覧会の半紙に書かれた墨絵は、大根の姿なのだったが、すぐにはそうは見えなかった。どことなく、蛸に見えた。ユーモラスだが、一筆一筆にのびのびした迫力があった。脇には俳句が添えられていたので、なぜ蛸の足のように何本もの線が引かれているのかがわかるのだった。母と育てた家庭菜園で収穫したものなのか、一本ではなく、何本かまとめて結わき吊るしているものを捉えたからなのだ。大根干す昨日と同じ風の向き……直希は、経の合間に設けられた葬儀代表の挨拶で、その絵と俳句の言葉を思い出した。もう認知症が進んでいる最中で、風を感じ、その向きを感じ、昨日と同じだと感じとる、そうした冷静な父の一面には、はじめて出会ったような気がします、通夜の席で、父親とはもくする山、乗り越えられない山なのだという住職のお話がありました、それは、もう黙ったまま語ることのなくなった父とは、みあげればいつも新しい一面をみせてくる山のような、尽きることのない目安として聳え立っている山のような存在としてあるということなのだろうと……。

父を載せた霊柩車は、山へと昇っていった。そこから連なる山峰は、中部地方をこえて、北陸までも続いているはずだった。いや列島の背骨として、それは南北に貫いているはずだった。その劣端の頂上を切り開いて建築された火葬場の駐車場からは、東北の峰を背にした赤城山の腹筋のようないくつもの尾根が赤く輝いて見え、開けた平野部を跨いで近づいてくるかのようだった。大きな空の真っ青さが、広げた掌で蓋をするように、冬の木々の枝先へと降りてくる。透き通った冷たい風が、なびいた。車から降りる母の手をとりながら、その温もりを冷ます風の向きが、昨日と同じ向きのものなのかどうか、直希にはわからなかった。

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