渡辺京二氏は、水俣病とされた被害当事者の側に寄り添い続けて闘ってきた人だと知られている。その思想的立場は、右・左でいうならば、右側からの国家批判ということになるのだろう。近代以前的な情念の正当性をえぐりだして対置させてきたようにみえる。法的な裁判闘争以前の、こちらで死んでいった者たちと同じ分だけの毒を飲んで会社幹部が順番に死んでいってくれたらそれでええ、という村民の感情にこそ私たちが継承すべき正統性もがあるのだと、その論理を抽出解析して提示みせてきたような気がする。
こんどのこの作品も、幕臣側に立って負けた無名ではないが世間に埋もれていった人物や、無名的な庶民あがりだけどひょんな境遇から名の知られることとなったジョン万次郎のような人物などをとりあげる。そして、彼らが最終的に、黙って処するようになったそこに、本当に知るべき現実があるのではないかと示唆する。
<襲撃(桜田門外の変――引用者註)に参加した水戸藩士の中にただ一人生き残りがいて、名を海後磋磯乃介と言う。維新後水戸警察署に勤めた。…(略)…海後は警察をやめたあとは、その前で代書人をやっていたという。毀誉褒貶する者はあり、それは耳に入ったであろうが、一切無視した。本当はこういう人こそ、何を考えていたのか知りたい人なのである。>(「第四章 開国と攘夷」)
二次大戦敗戦後、小林秀雄が述懐したように、黙って処した者は国民規模になった。このブログでも、村上春樹の父をめぐるエッセーをとりあげて、その父の沈黙の姿を喚起させた。渡辺氏は、維新前後のことを扱ったこの第一巻では、庶民の天下国家のことに関心を持たない姿勢に積極的な意味があったことを示唆している。がこれからの巻で、とくに戦後政治において、当時と同列な意義を見出せるのかはわからないような気がする。継承と変質があるだろう。とくにこれから、もし日本がより中国文化圏に従属していくことになっていった場合、今の香港の人々にあるだろう沈黙の姿勢と、戦後の日本のそれを機械的な延長上で把握することはできないであろう、と推測する。
昨日、NHKが徴収にきた。高校時代からテレビは見なくなって、上京してからはテレビを所持してなかったので、結婚後もそのまま、深い考えもなく、契約させようと訪問してくる者たちに退出してもらってきた。が千葉へと引っ越し、一軒家で暮らしているとなると、目立つからか、次から次へとやってきて、嫌になる。押し問答は面倒くさい。
「要はテレビ持ってる持ってない、視る視ないじゃなくて、NHKはおかしいだろう、と意見を持ってるか持ってないかじゃないの? それは思想・信条の自由として憲法で保障されているんじゃないの? もう7割以上の人が払ってるんでしょ。100%になったら、北朝鮮みたいで、おかしくないの? この間若い人が取り来たけど、若い世代はスマホでみんなすんじゃうでしょ。で、スマホでも徴収しますって、他の民主国家なら暴動起きてない? 余った金で今度はネット番組作るって計画したらしいけど、都民共済だって余ったぶん返金しているよ。あんた一軒一軒まわって手間かかるって言ったけど、俺だって一軒一軒まわってチラシ配ってるけど、100枚配って一枚反応あればいい、というのが植木業界で、それはまだいい方だというんだから、他の業種はもっと大変なんだよ。配ったら7割のお客できたなんて、おかしいでしょ。それは儲けじゃやない。上納金と同じじゃない?」そう言うと、中年社員は少し面食らって、「ご理解を」と言う。「女房入院してるから自分ひとりじゃ決定できない。」と言うと「前回もそんなこと言って。来月から値下げになりますから、来月から新規でということにしますから、ぜひこの機会で。」と、申し込みのQRコードの入った不在連絡票を置いていく。前きた若い人との問答もフィードバックされているから、次は、もっと理屈っぽいのがやって来るのか? 私の判断では、そのうち国家権力はそれこそ北朝鮮なみに強くなってくるだろうから、よっぽど運がよくないと逃げ切れないだろう。思想信条の自由をだしての反論に関しても、放送法ではなく、憲法の「公共の福祉」という観点からそれを退ける、という判例があるようだ。国策裁判なのだから、無名庶民が勝てる見込みはない。未払の三倍は罰金をとっていいという去年だかの判決もでている。N党は内紛でつぶれているし。
ともかく、7割の日本国民が、ほぼ黙って処しているわけだ。責任は持たないという製薬会社との契約ワクチンの件でも。マイナンバーカードは、私も金子勝氏が毎日新聞で指摘していたように、もう日本人が技術的にできないという話が本当なのではないかとおもっているので、できないものはできない、と醜態をさらして撤退ということになる可能性もあるかとは思うが。
私が言いたいのはこういうことだ。NHKをはじめとした権力側の一部だか大半の人たちは、日本人が大人しいからって、なめてつけあがっているんじゃないの? そうなると、日本人がどうなるか、むかしの時代劇でもあったよね、「黙ってりゃあいい気になりやがって、てめえら人間じゃあねえ、叩き切ったる!」って。そうなっていいの? そういう日本人に忖度しないの? 権力側への忖度じゃなくて、そうした日本人の共通的なメンタリティーも考慮しないで、何が「公共」なの? そのどこに「おおやけ」があるの? 単にエリートの言葉上のつじつま合わせがあるだけじゃないか。ふざけるな! もちろん、そんなことほざいても、世の中は、変わらない。現場の庶民ができることは、上からの指示を人間的に社会判断し、やりすごすことだ。特攻隊だって、現場の隊長が上官に向けて、まず私とあなたで新人の前で見本をみせましょう、さあ私と一緒に突っ込んでください、と直訴してみせたら、その部隊はとりやめになったという例もあるそうだ。しかしそれは、上官らが敵だということではない。もう一緒なのだ。宮台真司は、入管でのスリランカ女性死亡事件に関し、新右翼の鈴木邦男の「公安は敵ではない」のだという言葉を紹介して、一般とは違う仕方で、アイヒマン問題を解いていた。ユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンも、入管の職員も、思いやりのある普通の人で、それぞれの「物語」があるのだ、その相互現実を理解しなければ不毛だと。私も同感だ。『進撃の巨人』を誤解して、プーチンは敵だと殺し合いを煽っているのは不毛だろう。さらに、本当に、中国文明なみに権力が世界を覆ったら、一般的な闘争は難しくなるのだから、現場での闘争しかない。そのうち、そんな体制自体もたない、長続きしない、というのも、自然の現実なのだから、自然を信じて、しぶとくやっていく他ないだろう。
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