2024年1月25日木曜日

山田いく子リバイバル(6)ー2

 


S.62..7 七夕<アナイス・ニンの日記 一日め。笑ちゃった。あなたがわからないのは、私がヘンリー・ミラーだから。早く読んで、そう言えばよかった。あなたは ニンに 似ている。ニンはあなたに似てる。まだ読み終わってないから、感想は、あなたの分析は……怒らないで、次回に。>

 

家父長制的な下で幼少期を送った彼女たちは、表向きは、「強い姉」、キャリアウーマン、下村満子、といった表象をもつ。が、その内面では、少女漫画(いく子の小倉千加子の受容はこの文脈でだろう)、小さな、「軟弱」な自分を育んでいくことで、精神のバランスをとるほかなかった。精神分析的な解釈など、彼女たちが気づき、わかっているのだ。だから、ニンはどうしたいの? といく子は問うている。

 

そこから、自分が知らない間に立たされた位置から、彼女たちが、どう方向=意味(sense)を見出し、あがいたのか、その思想的な葛藤を読み込んでいくことが大切だと考える。

 

たとえば、性同一性障害者は、手術して体を変えてしまえば、同一性を確保できれば、問題は解決されるのか? そうではない、と、よりグラーデーション(レインボー)な場所にいる彼女たち、いく子や冥王真佐子の生きざまが、あかしている。

 

自分のマッチョさを、唯物(交換)論的に偽装することや、耄碌的に居直ることの、どこに意義があるのだろう?(いく子は、柄谷と村上春樹を、「軟弱」だから好き、と受容している。村上春樹が男根的なのは、最近の評価では、宇野常寛や福嶋亮大によって、あからさまに指摘されている。二人が世界で受容されているのは、そんな「軟弱」な体系(男)でモテルことがありうるのか、という、日本的形式性へのエクゾチズム、オリエンタリズムであろう。)

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