2024年3月16日土曜日

山田いく子リバイバル(15)


 VHS形式のものではなく、結婚してから撮ったビデオカメラのテープも出てきたので、のぞいてみた。「テロリストになる代わりに」とそのダンス・タイトルしか記憶になかったものが、残っていた。

テロリストになる代わりに(ゲネ)

 ヤフー・ジオシティーズで公開していたホームページの紹介文章に、いく子はこう書いている。

 *****

「テロリストになる代わりにアーティストになった」 ニキ・ド・サンファル

 「われは知るテロリストの悲しき心を」 石川啄木

 テロリストという言葉はまがまがしいのですが、メッセージ(言葉)を直接に持たないダンスの現場で何ができるのか、を思います。無力だとさえ思えます。

 やれることが、事実に少ないのです。

 過剰にだけやってきた頃を過ぎ、若くはない女性たちです。シンプルでも美しいお人形でもありません。澱のように溜まったものをもちます。が、ここに立つ、ことを思います。

 ヤマダは、この作品のための集結をお願いしました。持続可能なダンスを、YESをと、わけのわからない説明をし、コミュニケーション衰弱ぎりぎりです。

 個人的なことですが、9ヶ月前に出産し赤ん坊をかかえています。身体能力がどうなっているのか、わからないところにいます。作品をつくる時間も手間も、変えざるをえません。

 それでも、ダンスしかないのだと思います。そんなダンスプロレタリアートを自認します。*****

 

この文章を読んで、Youtubeにアップする録画には、ゲネ(本番前のリハーサル)の方をすることにした。現場で生きる女性たちの、ドキュメンタリーな姿が見られたほうがよいのでは、と考えた。本番は、1時間20分にもおよぶ長さである。汗だくである。ダンスという表現が、女性たちの間に現れるとき、それが何を意味してこようとしてくるのか、を考えさせられた。ダンスは「身体」として一概に抽象化されてしまうが、そういう男性画一的な見方では把握できないのではないか、という点は、別のブログでのダンス(身体)メモとして記述しよう。

 

この作品は、いく子の佐賀町ホーソーでの『事件、あるいは出来事』の次、ということを連想させてきた。私はその前作を、「ホロコースト」として読んだ。(その翌年2001年の大阪パフォーマンスで使った背景朗読は、トリスタラン・ツァラではなく、パウル・ツェランだった。となれば、なおさらユダヤ人へのホロコーストを意識していたものだ、と言えるだろう。)

 

しかしこの作品は、そうした現代の苦悩から「テロ」へと向かうのか、という物語文脈を誘発させながら、表現されてくるものは、アルカイック、古代的な雰囲気・印象をもたせてくる。いく子は、舞台道具として、黄色い紙で作った輪っかを鎖のようにつなげたものを、大量に用意した。それが二部屋にまたがる舞台のあちこちに運ばれ、積まれ、黄色い小山ができあがる。舞台進行は、それらを、焚火、炎、燔祭のための火、のごとく見せ始める。いく子の振りは、トランスに入るためのシャーマンの反復儀式のようである。以前のダンスでもみせた、壁から壁へとただ走ることを繰り返す姿が、近代的な自己における葛藤表現といった趣を呈していたのに、ここでは、ただ陸上競技的に走るのではなく、どこか志村けんのひげダンスのステップのごとく、そのお笑いに収斂していく意味をはぎとってただ真剣過酷な様で迫ってくる。『エンジェル アット マイ テーブル』でみせた、自分の体をただひっぱたく行為の反復も(ゲネではみられなく本番のみ)、近代社会的な自傷行為に見えていたものが、より超越的なものへと自己超脱していくためのシャーマン的行為に見えてくるのだ。ジョン・レノンの「イマジン」の曲のあとでか、仙田みつおの、あげた顔の上で両手を振って見せるお笑い芸のような振りも、その仕草のあとで、しゃがんで両足首をもってちょこまかアヒル歩きをする、ということの繰り返しが、深刻な謎として喚起されてくる。いく子のひげダンス振りスキップの間、パントマイムのさくらさんが、何かを食べる仕草を繰り返しはじめるのだが、それは、カニバリズムを想起させる。たしかまたその間、ひはるさんの、あげた両手を大地に叩く身振りは、大地をなだめるかのようである。その身振りは順番に三人によって繰り返され、最後は、いく子が、その大地パフォーマンスをやるのだが、大阪ツェラン(そのパフォーマンスのタイトルは「HOPE」だったのだが)で炸裂した怒りの身振りは、大地への祈りに変わっているのだ。

 

このいく子の祈りのような身振りが、部屋の端から端へとゆっくりと進行する間、残りの二人のダンサーによって、炎としてあった黄色い山は崩され、床へと一列一列、並べられていく。鎖が、蛇の漸進のように、あちこちで線を描きはじめるのだが、それが床を覆いはじめると、まるでその風景は、古代の遺跡のようである。私は、ナスカの地上絵を思い起こした。なんのために、何を伝えようと、こんな大きな絵を、文字を、大地に刻んだのか? その古代となった謎が、現代に迫ってくる。そして彼女たちの振りのひとつひとつが、身体という抽象性、微分された身体の動きとしてではなく、意味解読を迫る古代の象形文字のような具象性をもって重ね合わされ、振り返られてくるのだ。

 

いく子の顔は、すさまじい。その素顔自体が、いれずみを入れた古代の顔のようである。古代文字のようである。私は、この謎を、どう解けばいいのだろうか? 彼女たちの「テロ」は、どこからやってくるのだろう?

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